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『地の涯 知床半島縦走記』 羅臼〜硫黄山〜知床半島先端縦走 |
【知床半島縦走記】 ![]()
●第零日(〜25/Apr/'97) ●第初日(26/Apr/'97、晴れ) 羅臼町内にある海獣が食べられる店に向かうが、残念なことに店は閉まっており近くの定食屋へ。しばらくまともな食事ができないので心してホッケ定食を食べる。うれしいことに毛ガニをサービスしてもらった。羅臼登山口からスタートとするため羅臼キャンプ場に向かうが、キャンプ場は雪に埋もれている。雪の無い知床横断道路のゲート内側に幕営する。温泉に入った後、すぐ就寝。 ●第弐日(27/Apr/'97、曇のち快晴) ラッセルとルート探索のためペースが上がらない。また歩く度に新規購入したミレーの90リットルのザックが、ハーネスを中心として左右に振れ非常に歩きにくく疲れる。やがて雪がない泊まり場が見え、そこで休憩をする。今日の行動予定は羅臼平までであるが、このペースでは日没までには着けない可能性がある。泊まり場は泉源があるため暖かく、ズブ濡れの靴下を乾かすのにちょうど良いのでここで幕営することにした。日没までに濡れものはすべて乾燥できた。 ●第参日(28/Apr/'97、快晴) これから知床岬までは国境稜線(網走、根室)を忠実に進むルートとなる。東岳を過ぎるまで硫黄岳外輪火口壁に沿って進んでいくことになる。南岳付近の尾根は雪がなく、登りつめた頃よりオホーツク海より猛烈な風にぶちあたる。何回か風に倒せられながら知円別岳へと進む。知円別岳より東斜面を見ると先行パーティーのトレースが見えるが、我々は忠実に稜線を進むことにする。東岳より少しガスがかかっているが知床岳が見える。ルートのポイントであるルシャ山まで雪面が続いているのが確認できたので、稜線から離れ標高差700mの斜面を降る。この斜面をスキーで滑れたらなあと少々残念に思う。かなり時間短縮ができたと思っていたら、先行パーティーのトレースと出逢う。向こうの方が一枚上手であった。ルシャ山とP731mとのコルで幕営する。 ●第四日(29/Apr/'97、快晴) クマザサで覆われている稜線を避け、残雪をつないでいくと川が現れた。ルサ乗越より降りてしまったらしい。登り返さず、ショートカットのため何とか徒渉してP458mへ。ここは樹林帯もまばらで直登できるため、曲がりくねった稜線を忠実に行くより結果的にはかなり時間短縮となるはずだ。やがてハイマツ帯となり、西面にトラバースしP786mを目指す。ここで途中のハイマツ帯より先行パーティーのトレースが現れる。しかも今までとは違い新しいトレースなのでかなり差を縮めたみたいである。 ●第五日 (30/Apr/'97、晴れのち雪) 今回の山行で初めて先行し、雪崩れそうな国境稜線の東面をトラバースしながらP730mをパスし、ダケカンバがまばらな斜面を直登しP862mへ。ここからルートがよく見えるがハイマツ帯が進路に蔓延っている。そのいやらしいハイマツ帯をくぐり抜け150m程降りる。鞍部から知床台地まで約450mの登りであるが、稜線はハイマツ帯で覆われている。雪のついている東面をトラバース気味に登っていく。しかしかなり高度を上げ急斜面となったところで私の右膝が痛みだし、踏ん張れなくなってきた。少しでもラッセルを少なくしたいためと雪崩れそうだったため、直登する事を主張。栂さんは雪崩は大丈夫、トラバースの方が早いと主張。協議の結果トラバースを止め、雪崩ないように祈りながら直登してハイマツの稜線へ。これがまた進行方向に対して逆茂木状態になっており、しかも2m以上ある。やっとの思いで1060m付近に着き休憩。知床岳はガスりだし、時間的にも無理があるため知床岳はパスすることにする。 また稜線にはハイマツ帯が蔓延り始め、ハイマツの幹を登るようにして通過していく。やがて天候が崩れ出し、メガネのレンズが凍りつく程の西からの厳しい風雪である。数分ごとにレンズをクリーニングし、急速にエビのシッポが成長した冷たいハイマツの海を泳いでいく。ハイマツ帯を歩くというより足が地に着いていないので登るといった方が正しい。1時間半ほど悪戦苦闘した後ハイマツ帯を抜け、視界が無いため右の切り下がった稜線沿いに進む。ルートを外れる危険があるためこれ以上進むのは止め、ハイマツの切れ目で幕営する。 現在位置はポロモイ台地の東側外れだろうと予想していた。ほぼ予定通りの行動である。天気図は持ってきてはいたが一週間分の長期予報天気図があったため、気象通報は概況だけ聞いて天気図はつけていなかった。天候の悪化は寒冷前線の通過によるものである。夕食の後、お茶などを飲みながら明日の水や朝食の用意をしておくのだが、 ●第六日 (1/May/'97、曇り後晴れ) 今回持ってきた4枚の2万5千分の1の地図の最後になる『知床岬』に突入した。三角点のあるポロモイ岳(992m)を経由し、凍り付いた西斜面を降りていく。この降りは結構斜度があり、転倒すると数百メートルは止まらないだろう。右膝の踏ん張りが効かないので少々緊張する。麓の稜線に戻り、東面に残っている残雪をトラバースしていく。国境稜線からやや離れて進むことになるが、稜線付近は相変わらずハイマツ帯であるのでかなり楽に進める。稜線には数人のトレースがある。先行パーティーとは違うパーティーがいるみたいである。P641m付近より正面方向に海が見え始め、ウィーヌプリの円錐の山容が確認できる。植相もハイマツからダケカンバ、エゾマツと変わりキタキツネのトレースもある。 ウィーヌプリは円錐の一つの法線のみ雪が頂上まで着いており、容易に登れる。他はハイマツの焼けただれた3)後が目立ち、切断されて放置されている。知床で唯一人の手の入ったウィーヌプリを登り詰めると、岬の西に位置する分吉湾の防波堤が見える。蒼いオホーツク海を眺めている内に「とうとうここまで来たんだ」という実感が湧いてくる。またここまで来たのだから「今日はこれくらいにしといたろ」という気持ちもありすぐ下のコルで幕営することにした。
●第七日 (2/May/'97、曇り後雨) 途中で八人程度のパーティーに追いつく。知床岳から来たそうである。P412m付近ではフクジュソウの群生が見られ、エゾジカもいた。やがて残雪も少なくなり、明瞭なトレースが出てくる。これは明らかにけもの道であり、周りの樹木はヒグマの爪痕がいたる所にある。爪痕は3m程度の高さにつけられており、たとえ雪があったとしてもその大きさを想像するのも恐ろしい。この後各自意識して警告音を出しながら歩く。 樹林帯の切れ目より岬近辺の海岸丘陵のササ地に出て、岬先端に向かって歩いていく。岬先端では思ったほど感動はしなかった。今回で二回目ということもあるからだろうか。でも稜線を振り返り見ると、長かった行程が時系列に思い出されてくる。しばらく海と帆翔するオオワシを眺めていた。岩づたいに海岸まで降り海水と戯れる。三人パーティーが現れるのを待ち、文吉湾へ移動する。ササ帯ではエゾジカの角が落ちている。私も一ついい形のものを拾うことができた。八人パーティーは知床東岸を相泊まで歩くそうだ。我々は御厚意を無碍にするわけは行かないので計画を変更し船に乗せてもらうことに。 分吉湾に来る出迎えの船は予定より3時間ほど遅れて現れた。立派な漁船で船ではビールを始め、初めて食べたキンキ汁やズワイガニなどごちそうになった。そのうち岸壁を離れ知床岬を回り込み、やがて灯台も見えなくなった。一時間もしないうちにルサ乗越が見えてきた。早いもんだ。航行中にブリッジに上がらせてもらい、GPSやレーダー装置を見せてもらう。またレーダーを操作して国後島や択捉島のレーダー反射画像を見せてもらった。この頃の漁船はなかなかハイテク装置がそろっている。一時間半ほどで知遠別港に着きここでお別れとなった。さらに親切にも釧路まで車で送ってもらいました。 今回の山行は当初の目的(スキー縦走)からはずれ、主たるピークを踏んでいない、かなり水平指向なものとなった。不幸なことも起こったが全体としてはかなり幸運な部類になるだろう。お世話になった武庫勤労者山岳会の皆様、また第三十八幹丸の関係者の皆様いろいろありがとうございました。 ![]() 1)『知床大縦走』 川越晧充 1988 4月号 ![]()
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