ペグマタイト,65号(04-2),2004年4月

  京都府和知町鐘打鉱山の思い出

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   はじめに

 京都府船井郡和知町には,タングステンと錫を主目的として採掘した比較的規模の大きな
鐘打鉱山があった.
 日本の鉱山としては,比較的遅くまで採掘を続けた鉱山ではあったが,遂に1982年採掘を
中止し,閉山するに至った.
 鐘打鉱山は筆者が鉱物の採集と収集を始めた1965頃,最盛期にあった鉱山である.
 筆者は中学生〜高校生の頃(1964〜1967年),たびたび鐘打鉱山を訪れ,貯鉱場や選鉱場
などで,灰重石,鉄マンガン重石,錫石,などの鉱物を採集した.
 また,ときには,探査課や採鉱課の人から燐灰石や電気石,水晶,それに鉄重石など,鐘打
鉱山では比較的産出の珍しい鉱物をいただいたこともあった.
 筆者にとって,鐘打鉱山は“行けばそこに在る”という存在であった.そして,四十年近く経っ
た今も,活気に満ちた鉱山の様子と共に,数々の思い出が記憶の中に鮮明に焼きついている.
 昨年(2003年)9月,最後の訪問(高校3年)のとき以来,三十数年ぶりに鐘打鉱山の跡地を
訪れたが,余りの変貌ぶりに驚いた.あれだけ活気に満ちていた鉱山が,跡形もなく消え去ろ
うとしていた.
 広くて明るかった道路も狭くなり,自動車がやっと通れるだけの道幅になっていた.そして,
建物の跡地には草木が鬱そうと茂り,人が住んでいた気配さえ消えていた.栄枯盛衰は世の
常とは言え,筆者にとって青春の大切な1コマの「思い出の地」が消え去って行くのは悲しい
ものである.
 残念なことに,写真はほとんど残っていないが,日記などを読み返すと,当時の様子がよみ
がえってくる.そこで,当時の日記やメモなどをもとにしながら,活気に満ちた「鐘打鉱山」の
様子を思い出すままに綴ってみることにした.
 筆者が鐘打鉱山を訪問したのは10回ほどと思われるが,記録に残っているのは,以下の
6回である.
   1964年7月12日 同行者:Oさん
   1966年1月3日 同行者:一人で
   1966年2月27日 同行者:O,Tさん
   1966年5月19日 同行者:K君
   1967年2月11日 同行者:F君
   1967年4月3日 同行者:一人で

 筆者にとっても不思議なのであるが,なぜか鐘打鉱山へ行ったのは,1964年から1967年
の3年間に集中していて1967年4月以降は全く訪問した記憶がない.
 従って,閉山に至る1982年までの15年間の鐘打鉱山の様子は,筆者にとって全く不明で,
その頃の鉱山の様子を知っている人にとっては筆者の知る鐘打鉱山とは,少し様子が違うかも
知れない.実際,例えば鉱山のエリアで現在唯一残っている写真10の建物は,筆者の記憶に
全く無い建物である.
 また,1964〜1967年は筆者が中学生〜高校生であった時期で,これは筆者の少年時代の
目を通して見た鐘打鉱山の様子である.

   
初めての訪山(1964.7.12)

 筆者が初めて鐘打鉱山を訪れたのは中学の3年生のときで,1964年7月12日である.この
ときは,京都地学同好会の新年の集まりで知り合いになった3歳年上のOさん(現在は長岡京
市役所勤務)に誘われての訪問であった.
 その日は早朝に家を出て,国鉄山陰本線の「和知」駅で汽車を降り,駅舎の向かいにあった
交番で鐘打鉱山の場所を聞いた.鉱山までは約3kmと言われたが,実際には鉱山まで約6km
ほどの距離を歩くことになる.
 和知駅から国道に出て,大きな鉄橋の下を通った後,由良川に架かった橋(図1のA)を渡る.
やがて道は踏切(図1のB)を越えて,しばらく線路と併走するが,まもなく道路は山に入る(図1
のC).山道を越えて1.5kmほど行くと,少し開けた所に出る.ここに「鐘打鉱山」と書いた看板が
あった.ここからが鉱山のエリアである.
 一番最初に目に入ってきた建物は,小さな学校(小学校?)であった.その奥には鉱山の社宅
と思われる家が数軒〜十数軒ほど建っていた(写真1).また,その付近には水田や畑も耕作
されていた.そこを越えてしばらく行くと,道を挟んで右側に鉱山の事務所(総合事務所)が,
左側に大きな選鉱場が建っていた.
 その日は日曜日であったが,事務所には人がいて,選鉱場の機械も動いていた.全面的な
操業ではないにしろ,鉱山は操業していた.事務所で,鉱山の見学と鉱物採集をお願いすると,
二つ返事で了承し,選鉱場を案内してくれることになった.
 ヘルメットとゴム長靴を借りて,鉱山の人に案内されて選鉱場を見学した.選鉱場は山の急な
斜面を利用して建てられていた.
 選鉱場には,建物の横につけられた急なコンクリートの階段があり,ここを登った.そして,
鉱山特有の臭いが漂う選鉱場の施設を見学した.選鉱場の中では浮遊選鉱がおこなわれて
いて,粉末になった鉱石から真っ黒な錫やタングステン,銅などの有用な鉱石鉱物が泡と共
にかき出され,石英などの鉱物から選り分けられていた.
 この日は止まっていたが,選鉱場の最上部には鉱石を砕くクラッシャーがあり,そこへ鉱石
を投入する大きな投入口が選鉱場の上部の入り口になっていた.
 また,選鉱場の上の入り口(鉱石の投入口)付近は平坦になっていて,そこまでトロッコの
レールが敷かれていた.そして,その先にある山の中腹の鉱石置き場(貯鉱場)から鉱石を
トロッコで運んでいた.
 選鉱場の見学が終わった後,選鉱場から上に出て,すぐ横にある貯鉱場へ案内してもらっ
た.そして「ここで自由に鉱物の採集をしていいですよ」と言い残して,案内してくれた人は
事務所へ戻って行った.
 しかし,当日は暑さのせいもあり,鉱山までの約6kmの道程は身体にこたえていた.また,
当時中学3年生の筆者には“標本を沢山持って帰る”という習性が全くなく,宝の山を前にし
て,ごくあっさりと,自分の標本にするだけのものを数個採集して持ち帰っただけであった.
 このとき採集したものは,鉄マンガン重石(写真2),灰重石,錫石,硫砒鉄鉱である.
 その時に見た鉄マンガン重石は,原色鉱石図鑑(木下亀城,保育社刊)に掲載された写真と
ほとんど同じで,真っ白な石英中に黒くて金属光沢を持った鉄マンガン重石の板状結晶が
入っていて,ひどく感激したことを覚えている.
 貯鉱場の近くには,パイプで引いてきたきれいな水の出ているところがあり,買ってきた
缶ジュース(瓶入りだったかも知れない)をここで冷やして飲んだ.家から持ってきた弁当も
ここで食べた.
 選鉱場の上の貯鉱場付近は,木々に囲まれ風もあって,さわやかな場所であった.
 初めての鐘打鉱山の訪問は,鉱物採集というよりも“鉱山見学”といった感じで,楽しかっ
た思い出として記憶に残っている.
 再び事務所へ行き,お礼を言って,昼過ぎ鉱山で働く人の送迎バスに便乗させてもらって
和知駅まで帰った.

   
2度目の訪問(1966.1.3)

 次に鐘打鉱山を訪れたのは,高校1年のときで,1966年の1月3日であった.このときは
一人での訪山である.どうして,正月に鉱山へ行こうと思ったのか,その理由は全く思い出
せない.恐らく,鉱山の社宅を訪ねて標本を見せてもらおう,うまくいけば少し標本が貰える
かも知れないと思ったのかも知れない.
 前夜,母に弁当を作ってもらい,早朝5時40分,まだ真っ暗な中を自転車で国鉄向日町駅
まで4kmの道を急いだ.6時11分発の電車で京都駅まで行き,そこから山陰線に乗り換える
のである.山陰線は当時まだ蒸気機関車であった.京都駅6時42分発の普通列車「敦賀行き」
に乗車.
 同じ車輌にはスキー客が3人だけである.その人達に聞くと,京都の北部では結構雪が
降っているらしい.不安がつのる.
 和知駅には8時半頃に着いたが一面の銀世界.数cmの積雪である.
 駅前のバス停へ行くと,一日に数便しかない鐘打鉱山行きのバスはすでに出た後であった.
ここまで来たらもう引き返せない.
 正月に鉱山の事務所へ行っても,きっと誰もいないだろうと思っていたが,駅の待合室に
清水さんという鐘打鉱山の関係者の人がいて,その人が「今日は鉱山の上の方の事務所
(採鉱事務所)に花野,幾野という2人の者が居るから訪ねてみなさい」と話してくれた.
 どうして駅の待合室でその人と話をしたのか,その経緯はよく覚えていないが,きっと鐘打
鉱山の関係者と判るような服装をしていたのであろう.よかった.これで,鉱山へやってきた
甲斐があった.
 鐘打鉱山の上の事務所(採鉱事務所)までは下の事務所から,さらに1.5kmほどの距離があ
る.駅からは7〜8kmの距離である.1年半前に来たとき(7月)は,夏で暑かったが,今回は
一転して一面の雪景色.これもまた,けっこうきれいな景色である.
 山道に入ってから,学校が見えるまでの約2kmの間は全く何もない山間部であるが,鉱山
が稼動しているときはバスやトラックの通る整備された広い道であった.雪の積もった道でも,
空が明るく見えて,不安を感じることは全くなかった.
 学校(?)や社宅を横に見ながら,選鉱場,大きな事務所の前を通り過ぎて,上の採鉱事務
所に着いた.通洞坑のすぐ横に建っていた採鉱事務所は,下の総合事務所に比べるとずっと
小さな建物で,せいぜい8m×6mほどの大きさであった.
 正月の3日に鉱山へ行く者など滅多にいないと思われるかもしれないが,採鉱事務所に着く
と間もなくそこに2人の中学生(京都市立岡崎中学校の1年生)がやってきた.彼らは筆者と
同じ汽車で来たらしい.
 採鉱事務所の前でしばらく待っていると,10時半頃になって花野さんと幾野さんがやって
来られた.花野さんは30歳,幾野さんは40歳くらいの方であった.
 和知駅で清水さんという方から聞いてきたというと,花野さんは鐘打鉱山のことや鉱山で採
れる鉱物について,いろいろな話を聞かせてくれた.そして,置いてあった箱から鉱物を出し
て見せてくれた.しかし,これは測量の係長が置いている物で,自分の物ではないので,や
れないという.少しでよいから欲しいと言うと,昼食(弁当)を食べた後,わざわざ社宅まで了解
をとりに行って,標本を分けてくれた.岡崎中学の2人の生徒も一緒になって標本を分けても
らった.
 帰りに和知鉱山へ寄ってみたが,鉱山の建物に人の気配はなく,もう和知鉱山は操業を
停止しているようであった.(しかし,一年後の1967年2月11日に行ったとき,和知鉱山の社
宅にはまだ人が住んでいて,空き地で数人の子供達が遊んでいた).

   
その後の訪問(1966〜1967)

 その後は鐘打鉱山へ行くと,選鉱場の上の貯鉱場と採鉱事務所へ寄るのが常になった.
 ある時,採鉱事務所で灰重石の標本を見せて欲しいと言ったら,机の引き出しを開けて
見事な灰重石の結晶を見せてくれた.結晶は,全部で十数個あり,その中で最もすばらし
かったのは直径が4〜5cmのほぼ完全な結晶で,下部に径5mm,長さ6cmほどの硫砒鉄鉱
の結晶を咬んでいた.
 それらの結晶は,いまだに目に焼き付いて離れない.この灰重石を貰うために,毎週続け
て3回ほど鐘打鉱山へ通ったことがある.しかし残念ながらその結晶は,ついに貰うことは
できなかった.
 筆者が3回目にしてやっと貰えた灰重石は,それらの中では一番小さいもので,c軸方向に
伸びた長さ2.6cmの結晶(写真8)であった.
 今から思うと,それらの灰重石結晶を机の引き出しに入れて持っていた人は,日曜日に
出勤していなくて,別の人が筆者に見せてくれていたのかも知れない.いったい,あの灰重石
の結晶はどこへ行ったのだろうか.
 ある時,上の事務所(採鉱事務所)で鐘打鉱山では珍しい鉱物を幾つか貰ったことがある.
その中の1つに,真っ黒で,空隙の多い,一見してコークスのようなものがあった.
 この標本は益富壽之助先生から京大の地鉱教室の富田克敏先生に送られ,調べて頂いた
結果,端成分に近い鉄重石であることが明かになり,「地学研究」で報告した(高田雅介:京都
府鐘打鉱山産鉄重石について,1967,地学研究,18巻,12号).
 この記事は,ほとんど益富先生に書いてもらったものではあったが,その後,益富先生から
この別刷りを持って鐘打鉱山へ行き,できれば坑内見学も含めて,詳しい産状を聞いてくる
ようにと言われた.鉱山では益富先生の名刺は大変大きな威力を持っていた.短時間では
あったが高校2年生の少年が,採鉱課長と選鉱課長さんに会って話を聞くことができたので
ある.
 このとき,坑内見学ができると期待したが,やはり日曜日であったためか,坑内見学は断わ
られてしまった.その代わり,下の事務所で豪勢なお弁当をごちそうになった.

   
昨年(2003年)9月の訪問

 昨年9月中旬,ふと思い立って鐘打鉱山の跡地を訪れた.
 今では,我が家のすぐ近くから国道9号線に沿って高速道路(京都縦貫自動車道)ができて
いる.かつて,片道4時間余りもかかって行った鐘打鉱山の所まで,わずか1時間で行ける
場所となった.最初に訪れたJRの「和知駅」は,すっかりその姿が変わっていた.国道(29号
線)に出て由良川に架かる橋も見違えるように立派な橋になっていた.
 踏切から線路に沿っての道(写真9)は懐かしい.かつてはここを歩いていると,煙を吐いた
蒸気機関車が汽笛を鳴らしながら通り過ぎていく姿が見えた.また,蒸気機関車の車窓から
眺めた,春夏秋冬の景色も印象深く記憶に残っている.
 鐘打鉱山に続く道が山に差しかかる所へ来たとき(図1のC),もうここから昔と全く違うこと
に気づいた.道が狭くなっている.かつては広く空が見渡せた山の道は,この奥に人々の生活
の場が在ることを感じさせたが,もはやその気配は失せていた.道には両側から木々が迫り,
一人で歩いて通るのは恐いような狭い道になっていた.筆者でさえ,この道をバスが通って
いたとは信じ難い状態になっている.
 乗用車でここを抜けて,かつて学校(?)があった所へやってきたが,しばらくは,そこに学校
や社宅があったことさえ信じられないような風景になっていた(写真1).この地に唯一,壊れ
ずに建っている建物は筆者の記憶には全くない建物(写真10)で,筆者が訪れなくなった
1967年以降に建てられた建物であろうと思われる.
 選鉱場の跡地では,かろうじてコンクリートの一部が見え,ここに選鉱場が在ったことを示し
ているが,その前は乗用車が通れるだけの細い道になり,鉱山跡地の先に今もある「金比羅
神社」へ行くためだけの道になっていた.ここでは,当時の様子を残したものは何一つ見あたら
なかった
 下の事務所(総合事務所)のあった付近であろうか,平坦地と石垣,それに石段が生い茂っ
た草の間から見えている(写真12,13).
 上の事務所(採鉱事務所)の跡地(写真14)は,すぐに判ったが,既に直径10cmほどの木が
生えていて,かつて来たことのある者でないと全くわからない.38年前,採鉱事務所の中
から雪景色を写した写真(写真3)は,恐らくこの辺りの位置から撮ったものであろう.
 昨年,この地を訪ねたときに初めて,採鉱事務所のすぐ先に結構大きな神社のあることを
知った.地図には「金比羅神社」と書かれていて,鳥居や社殿などは今でもきちんと手入れ
がされている.
 なお,社殿の前に建てられた石碑には地図とは違って,鉱山の神社「大山祇神社」の文字
が刻まれている.鐘打鉱山の“山神”さんとして祀られていたのであろう.

高田 雅介