ペグマタイト,62号(03-5),2003年10月

  三 重 県 丹 生 の “辰 砂” 紀 行
         古代への歴史散歩

ホームページへ

   はじめに

 丹生鉱山産黒辰砂の結晶形態を調べて記載しょうと考えていた折り,偶然にも伊勢方面
へ旅行する機会があり,その途中,丹生へ立ち寄ってみました.
 今回は採集が目的ではないので,これまでとは違って,ゆっくり丹生大師や丹生神社,そ
れに遺跡としての整備された水銀の採掘跡などを見学しました.
 丹生へは3度目の訪問でしたが,初めての体験も多々あり,筆者が過去に見聞したことを
交えて,“丹生”と“辰砂”を中心にした「古代への歴史散歩」をしてみました.

   
辰砂と丹 (に,たん)

 かつて,益富壽之助先生から聞いた話では『朱として用いられる赤色の硫化水銀の名称
は“丹”であるが,中国では辰州の丹砂(砂鉱をなす丹)が有名で,そのために何時しか丹が
“辰砂”となった』というのが辰砂の語源のようです.
 “丹(辰砂)”は血と同じ色から,古代には霊的なものとして呪術の道具に用いられ,古墳
時代初期には死体に施朱をおこなう風習が見られ,また現在でも神社仏閣には朱を塗る
風習が伝わっています.
 実際,辰砂には殺菌作用があり,また益富先生の話では,本草学や正倉院に伝わる石薬
の研究から『辰砂は“解熱剤”の特効薬として実際に服用されていた』ようです.
 辰砂はこうした“実際の効能”によっても,重要かつ貴重な物質として扱われました.
 辰砂がない場合には赤鉄鉱や褐鉄鉱が代用品?として用いられたようです.もっともこれ
らの鉱物には殺菌作用や解熱作用はありませんので,呪術の側面が強いと思われます.

   
丹生と丹生氏

 丹生という地名は丹を産するというという意味だけでなく,弥生時代から古墳時代にかけて
“丹生氏”と呼ばれる辰砂を採掘し朱を作る技術を持った一族が辰砂を求めて移り住んだ場
所でもあります.
 そのため,この地方だけでなく,九州,四国,近畿地方を中心に「丹生」という地名や「丹生
神社」が多数残っています.
 日本でも中国と同じように,縄文時代から一部の地域で死者に施朱をおこなって埋葬する
風習があり,赤鉄鉱・褐鉄鉱と共に辰砂も用いられています.この時期の朱の使用は,まっ
たく呪術的なものと思われます.
 この風習は,その後,弥生〜古墳時代まで続いています.
 弥生時代の日本を記した魏志倭人伝の中には「日本(倭国)には丹を体(顔)に塗る風習と,
丹を産する山がある」ことが記されていて,当時の中国では日本で辰砂の採れることが知ら
れていました.
 丹生氏と呼ばれる一族は,恐らく渡来人を中心とした“辰砂を見つけて採掘する”技術集団
の一族で,最も活躍したのは2世紀から5世紀の頃であろうと推測されます.
 この頃,日本(倭国)はまだ統一された国家ではなく多数の国に分かれていました.
 2世紀の末〜3世紀にはこれらの国の幾つかが統一され(邪馬台国),その王として卑弥呼
が登場してきます.
 当時は呪術や占いが日常的に行われていたため,丹生氏の地位はかなり高く,強い権力
を持っていたものと考えられます.
 一族の守神は“丹生都比売(姫)”で,彼らの活躍した場所には“丹生神社”が建てられまし
た.こうした丹生氏の活躍の場は辰砂の産する中央構造線に沿った,九州〜四国〜紀伊半
島の広い地域におよび,現在でもこれらの地域には丹生神社が多数残っています.
 恐らく現在残っているものだけでも,全国に点在する丹生神社の数は 100近くになるものと
思われます.
 残念なことに丹生氏が活躍した邪馬台国の時代から大和王朝形成の時代にかけて,当時
の日本の様子を記したものはほとんどなく,古代史の中で空白になっています.(最近では
九州の吉野ヶ里遺跡や,出雲の荒神谷遺跡,加茂岩倉遺跡など,続々と弥生時代の遺跡が
発掘され,詳しいことが判ってきています).
 やがて大和王朝が九州や出雲の王朝と戦ってこれを平定し,7世紀頃には日本は中央集
権制の統一国家となります.
 その少し後に書かれた,倭国(日本)の歴史を記したものが「古事記(712年)」と,「日本書紀
(720年)」です.
 不思議なことに,多数の丹生神社があり,過去の丹生氏の大きな存在にもかかわらず,古
事記や日本書紀には全く丹生氏は登場してきません.もっとも,古事記や日本書紀は伝説や
神話を元に,都合のいいことだけを綴っただけのものですから,丹生氏のことは書く必然性が
無かったものと思われます.
 これに関しては幾つかの推定ができます.そこで,筆者なりに次のようなことを推定してみ
ました.
 @7世紀頃には,辰砂やその他の道具(例えば銅鉾や銅鐸)を使った呪術は,ほとんど行わ
れなくなっていて,丹生氏の活躍の場がなくなっていたこと.
 A辰砂や水銀の需要は,呪術用としてではなく,神社の朱塗や,渡金(メッキ)などによっ
て増えたが,実際の採掘は低い身分の人々の仕事で,丹生氏が直接的に採掘に携わらなく
なっていたこと.
 B丹生氏が水銀を使った金メッキ(渡金)などの技術を持っていなかったこと(こうした高度
な技術は5世紀末に渡来した秦氏が持っていて,秦氏がおこなったとされています).
 C呪術や占いを行う者として,稲作に必要な水を司る呪術や,実際の水の分配作業(水分,
これを祀るのが水分神社)などに,深く関わっていったこと.などが考えられます.
 こうした結果,丹生氏の末裔は7世紀頃の統一国家誕生のときには,神社を司る神官とし
ての地位を確保し,その後もその地位を維持し続けることになったようです.

   
三重県勢和村丹生の辰砂

 紀伊半島は,歴史的に見て日本では間違いなく最大の辰砂の産地でした.中央構造線を
挟んで,紀伊半島には,現在でも50以上もの丹生神社が残っているそうです.
 その中でも,三重県多気郡勢和村丹生付近は辰砂の採掘の中心地でした.
 奈良の大仏に渡金するため用いられた水銀は,主にこの地の辰砂から精製された水銀が
用いられたようです.
 丹生での水銀の採掘は近年(30年ほど前)に至るまで,小規模に細々と続けられてきまし
た.古代から現在に至るまでの水銀採掘跡は判明しただけでも,百数十ほどに達するそう
です.
 残念ながら現在では地表近くの辰砂はほとんどすべて掘り尽くされて,現地で辰砂の姿を
見ることは難しくなりました.
 近年になって,大手鉱山による探鉱の結果,深部に新たな鉱脈が発見されましたが,水銀
公害と需要の減少のため,本格的な採掘には至らず,昭和50年(1975年)頃には丹生での
水銀の採掘はすべて中止されてしまいました.
 この地域には,無数の採掘跡だけでなく,地名や神社・寺院などに,丹や水銀にまつわる
様々な痕跡が残されています.最近では水銀の採掘跡なども,歴史的遺産として整備され,
山中への道案内や,詳しい説明板が立てられています(写真4).

   
丹生大師と丹生神社

 丹生の中心に建っているのが,弘法大師ゆかりの寺院(丹生山神宮寺)で“丹生大師”と呼
ばれています.
 この寺院の建立については,詳しいことは分かりませんでしたが,かなり古いものらしく,
「弘法大師(空海)が高野山に金剛峰寺を建てる前に,丹生氏の守護神・丹生都比売に導か
れてこの地に立ち寄り,この寺院を建てた」と書いたものがありました.
 丹生大師の横には,並んで“丹生神社”が建っています.
 丹生大師の山門が余りに大きくて立派なため,丹生神社は目立ちませんが,大きな鳥居
の奥には,長い参道があって,その先には立派な丹生神社の社殿が奉られています.
 山村の田園風景の中に,突然姿を現す大きくて立派な2つの寺院と神社は,歴史の中で
の「丹生氏」の存在を抜きにしては到底理解できないものです.
 不思議なことに,丹生大師の奥には丹生神社とは別に“丹生都比売”を祀る神社があり,
ご神体として中央に石(石英の網状脈の入ったチャート?.辰砂は付いていません)が置か
れています(写真9).

   
福井県小浜市遠敷(おにゅう)の辰砂

 東大寺では,毎年3月の1日から2週間にわたって“お水取り”(修二会)という法要がおこ
なわれます.
 旧暦では2月でしたので,この法要が行われる場所は「二月堂」と呼ばれています.また,
この法要の中で,若狭井と呼ばれる井戸から観音様にお供えする「お香水」を汲み上げる
儀式がおこなわれますので,この法要は“二月堂のお水取り”と呼ばれるようになりました.
 東大寺のお水取りは有名で,よく知られているのですが,それに合わせて福井県の遠敷
(おにゅう)にある若狭神宮寺では“お水送り”の儀式が行われます.
 遠敷は日本海に面した小浜市の一角にあり,瑪瑙の加工場と瑪瑙製品の店が多くある
ところです.かつて瑪瑙が産出したのと,北前船によって北海道の瑪瑙が運ばれ,ここで
加工技術が発達したのだそうです.
 さて,“お水送り”の儀式では,遠敷川の「鵜の瀬」から東大寺の若狭井に向けて,観音様
にお供えする「お香水」が送られます.
 2つの井戸は地下で繋がっているのだそうで,“お水送り”の10日後に,東大寺の若狭井
で“お香水”が汲み上げられます.
 さて,この遠敷(おにゅう)という地名なのですが,諸説の内の1つには,元は「小丹生」で
はないか,と言われています.
 また,お水送りの儀式のとき,辰砂ではないのですが,「ベンガラ(酸化鉄)を舌で舐める」
ということをする場面があるそうです.関係者や地元の人も「何故そのようにするのか分か
らない」という話を聞きました.
 また,考古学関係の方から依頼を受けた磯部克氏が平成3年(1991年),遠敷にある洞穴
を調べたところ,その中から辰砂を発見されています(地学研究,40巻,3号).
 こんなところにも“丹生”の話は隠されています.
 「お水送り」のいわれについては神話のような伝説がありますが,それだけでは説明のつ
かないことが幾つもあります.
 小さな集落の「遠敷」は,東大寺建立以前の古い時代から“丹”によって奈良と結ばれて
いたのかもしれません.

高田 雅介