ペグマタイト,71号(05-2),2005年4月

能 登 半 島 の 思 い 出 を 訪 ね て (その1)
      長手島の岩牡蠣と北陸鉄道能登線

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   はじめに

 1969年7月,当時19才の筆者は大学2年生の夏休みに寝袋とリュックを担いで,小松〜
能登半島〜糸魚川〜長野〜恵那と汽車を利用しての半月にわたる鉱物採集ひとり旅をした.
 それから36年,かつて訪れた懐かしい産地である石川県珠洲市の能登鉱山(当時稼動中)
と,恋路海岸を昨年(2004年)の夏,再び訪ねてみた.
 高速道路が整備され,かつて訪れた産地へは自動車でいとも簡単に行けるようになったが,
筆者の記憶に残っている産地の姿はほとんどその痕跡を留めないほど消えかかっていた.
鉱山や鉱物産地も“諸行無常”.致し方のないことである.
 なお,これらの鉱山や産地についてはこれまで本誌で断片的に触れていて(No.41,p.12;
No.48,p.11) ,今回の内容は一部それらと重なるがお許しいただきたい.
 また,当時の採集旅行(1969年)で,最初に訪れた尾小屋鉱山(当時,稼動中)については
「石川県小松市の尾小屋鉱山資料館と尾小屋鉱山の思い出」(ペグマタイト94-4(7),1994)
に詳しく記している.
 今回は『尾小屋鉱山』の続きで,能登半島に限って日記やメモを参考にしながら,その思い
出をたどることにした.長野〜恵那については今後の機会にしたい.

   
宝達山の蛍石(1969年7月18日)

 3日間,宿泊や昼の弁当でお世話になった尾小屋鉱山の寮と,寮のおばさんに別れを告げ,
尾小屋鉱山の坑内を案内してくださった探査課の小笠原さんに御礼を言って,尾小屋鉱山を
後にした.
 早朝7時,尾小屋鉄道(現在は廃線)で 寮の前の金平駅から小松駅まで行き,小松駅で国鉄
に乗り換えて七尾線で能登半島の付け根,押水町の宝達駅まで行った.
 その日の目的地は,蛍石の産地,宝達山.筆者には,宝達山の蛍石について特に強い思い
入れがあった.
 筆者は1963年,中学2年生のとき京都地学同好会に入会したが,翌年正月,新年総会で渡
された第13号の会報に,松尾源一郎さんが書かれた「蛍石に魅せられて」という記事があり,
そこに“宝達山の蛍石”のことが書かれていて,なぜかずっと頭から離れなかった.
 『宝達山の蛍石は八面体の2〜3cmの緑色結晶群で,表面スリガラスのようにザラザラして
おり,標本的にすばらしいものであった.蛍石は明治年間にガラス原料として採掘されたこと,
それに花崗岩中の含蛍石石英脈で,結晶には八面体の美晶が多いこと以外は何もわからな
かった.……北陸地方へ採集旅行に行ったが,明治年間ということが頭にこびりつき,宝達山
の蛍石は遂に断念したものであった』
 それまで筆者は,京都府亀岡市の大谷鉱山のズリで塊状の蛍石を,また岐阜県蛭川〜苗木
のペグマタイト晶洞中から1cm以下の蛍石結晶を採集していたが,2〜3cmの大きさの蛍石結
晶は採集したことがなかった.
 松尾さんの記事にあった『(採掘は)明治年間ということが頭にこびりつき,宝達山の蛍石は遂
に断念した』という最後の一文は,かなり気になったが,どうしても実際に行ってその場所がどう
なっているか確かめたかった.
 宝達駅には午前9時半頃に着いたが,まず押水町の役場へ行って詳しい場所などを聞くことに
した.対応してくれた役場の人は親切で,地図や資料などを出して調べてくれたが,やはり蛍石
の採掘はずいぶん昔のことのようで,行っても分からないだろうとのこと.
 一部の可能性に期待と夢を膨らませ,手で写した地図を持ち,約7kmほど先の蛍石の採掘跡
へ出かけることになった.しかし,すでに太陽は高く,地道の炎天下を歩くのはかなり厳しかった.
 12時半頃,漸く地図の産地付近に到着したが,暑くてめまいがするほどであった.
 松尾さんの記事を読んだときから,来てみたいと思っていた場所であったが,現場は草木が
生い茂って,やはり何も分からなくなっていた.
 少し藪こぎをするが,蚊に加えて蜘蛛の巣が多く,顔に付いて苦労することしきり.
 結局,近くの川原で蛍石の小さなカケラを2,3個拾っただけで,採掘跡を確認することさえ
できなかった.真夏に,炎天下で長距離を歩いての産地探索は厳しいものであった.
 尾小屋鉱山の寮のおばさんが作ってくれた弁当を食べて,一休みした後,地図に書き入れた
別の採掘場所へも行ってみたが,ここもすっかり地形が変わっていて,採掘跡を確認することは
できなかった.
 午後3時過ぎ,全く収穫のないまま引き揚げることになった.その日は宝達駅近くの旅館で泊.

  
長手島の長手石と岩牡蠣(1969年7月19日)

 6時起床.旅館を7時に出発.
 国鉄七尾線の宝達駅から羽咋駅まで行き,そこから北陸鉄道(現在は廃線)で柴垣まで.
柴垣の海岸には長手島という沖に向かって細長く延びた砂州でつながった小さな島がある.
ここにはペグマタイト脈を伴った花崗岩の巨礫が転がり,そのペグマタイト中に希元素鉱物が
見られる.
 「日本希元素鉱物」(1960)には,燐を含んだ褐簾石“長手石”のことが書かれていて,その他
にも,幾つかの希元素鉱物についての記載があり,長手島へは是非とも行ってみたいと思って
いた.
 8時半頃,柴垣駅着.駅を出るとすぐ前が長手島であった.長手島は柴垣海水浴場の一部に
なっていて,その日は「浜開き」ということでブルドーザーで砂州と島の先端までの道(写真2)
を付けて,早朝より大勢の地域の人達が,流木やゴミの掃除をしていた.
 丸くなった花崗岩の転石には“はちまき”のようになってペグマタイト脈が多数見られる.ペグ
マタイトはほとんどが10cm以下の細いもので,晶洞はほとんど見られない.
 ペグマタイトには,所々に赤く放射線の影響で長石が赤くなった“ハロ”が見られ,その中心
には希元素鉱が見られる.ほとんどが1mmほどの黒色の鉱物で,鉱物の種類を判別すること
は難しい.その中で,長手石だけは黒くて細長いので他の鉱物とは一目で区別ができる.
 ようやく長手石を探し出して割っていると,掃除をしていたおじさんから注意を受けた. その
人の話では「ここの花崗岩の丸い石は庭石や“水石”として高く売れる」のだそうで「採取が
禁止されているにもかかわらず,丸い石を持ち出す採石・水石業者がいて問題になっている」
ということであった.
 長手石の採集が目的であると,事情を話すと「それならかまわないが,今は地元の人が掃除
をしているから,皆が引き揚げてから採集した方が良い」とアドバイスしてくれた.
 現在,長手島ではペグマタイトの説明板などが設置(天然記念物?)されていて,鉱物採集も
禁止されているが,当時はブルドーザーで道を付けていたくらいで,鉱物採集に関しては全く
問題がなかった.
 このおじさんの意見に従って,少し待って掃除の人達が引き揚げた後,長手石の採集に取り
かかった.長手石らしき径1mm長さ5mmほどの黒色柱状の鉱物は結構見つかるが,丸くなっ
た花崗岩とペグマタイトは,簡単には割れない.
 やっと1個採っただけであったが,掃除の終わった所へは海水浴の人達がやってきてテント
を張り,着替えたりしている.中には岩陰で水着に着替えている女性などもいて,うさん臭そう
な目で見られることしきり.
 1時間ほどで採集は切り上げ,浜辺で休むことに.浜開きとはいってもその日は土曜日.砂浜
に建てられた板の床と屋根だけの休憩所“浜茶屋”に海水浴客は,ほとんどいなかった(当時,
土曜日は“休日”ではなかった).
 前日の“宝達山”探索の疲れもあり,数人しか人のいない広々とした板の間で潮風に吹かれ
ながら昼の12時頃まで横になっていた.
 2時間ほど寝ていただろうか,声で目が覚めると,そこに制服を着た25,6才の若い警察官が
立っていて筆者に何かを言っている.聞き返すと「交番所まで来て欲しい」とのことである.否応
なしに浜の近くに建てられた簡易の交番所へ連れて行かれると,その警官から「先ほど『山へ
行く格好をした不審な人がリュックを担いで浜辺をうろついている』との通報があった.事情を
聞きたい」と告げられた.要するに,早い話が痴漢と間違われたのである.
 学生証や周遊券などで身分を証して,鉱物採集に来たことを述べたが,なかなか信用して
もらえない.そこで,尾小屋鉱山の坑内で採集した立派な黄鉄鉱(径1〜1.5cmの立方体結晶)
と黄銅鉱(径1cmの結晶,表面を孔雀石が覆う)の結晶が付いた径20cmほどの標本をリュック
から取り出して見せてみた.
 この標本の威力は抜群で,これを見た途端その警官の態度は一変した.とりあえず事情聴取
とやらは終わり,濡れ衣は晴れて顛末書のようなものに署名したが,その後,その若い警官は
とても親切になった.
 採集物は小松駅から自宅に送っていたが,3個だけ,結晶のきれいな壊れそうなものを持ち
歩いていた.それが幸いしたのである.
 「このような美しいものは今まで見たことがない.鉱山でこのような鉱物が採れることは図鑑
などで知ってはいたが,見たのは初めて」と話が弾み,1時間ほどそのお巡りさんと雑談が続
いた.あまりにも欲しそうだったので,このうちの1個をあげることにした(今から思うと,ずいぶ
んもったいないことをした).
 その後「くれぐれも痴漢に間違われないように(笑い),注意して採集して下さい」と言われて,
交番を出た.
 もう,暑くて炎天下での採集は無理である.昼食の後,再び3時頃まで浜茶屋で休憩すること
にした.3時から4時まで,再度長手島へ採集に行ったが,長手石らしき柱状鉱物は合計で3個
採集できただけであった.
 さて,地元の人に聞くとこの付近には1軒も旅館が無いという.(民宿も?.あっても,すでに
満室だった?.記憶は定かでない).金沢などの都会からは,鉄道(国鉄,北陸鉄道)や,自動車
を使って簡単に来られるため,ほとんどが日帰り客だという.困って,先ほどのお巡りさんに
「今夜泊まるところがない!」というと,すぐに手配してくれることになった.
 標本の威力はすごい!.何と,浜茶屋の人に無理に頼んで,そこに“簡易の宿泊施設”を
作ることになった.
 夕方,近所の家(浜茶屋の人?)の風呂に入れてもらった.風呂あがり,日の沈んだ薄暮の
海岸の気持ちの良いこと.にぎやかだった浜も全く人の気配は無い.釣り人のいる防波堤の
上を散歩した.
 まもなく,夕食は明るいうちにと,浜茶屋の床の上に小さな台を置いて,その上に料理が運ば
れてきた.大きな皿にはキャベツと,ソースのかかった大きなフライが2個のっていた.おかず
はただそれだけであったが,そのフライのおいしかったこと.
 フライはどう考えても“牡蠣”としか思えない味である.しかし,牡蠣は夏場には毒があった
りして食べられないと聞いていたし,牡蠣にしては余りにも大きすぎる.そのフライは長径が
7,8cmもあった.疑問は消えなかった.
 食事の後,料理を作ったおばさんに聞いてみたが,笑いながら「おいしかったでしょう.これ
を食べたのは内緒ですよ」と言う返事が返ってきただけで,詳しくは教えてもらえず,そのフ
ライの正体は解らなかった.どうも,地元の漁師だけが内緒で食べている食材のようであった.
 そういえば,夕方,防波堤を散歩しているとき,浜茶屋の若いお兄さんが岩場に潜って何か
を採っていた.きっとあれだ!

    それから20年後,ある雑誌に“岩牡蠣”のことが書かれていた.これだ!と思った.
    その夏(1990年頃),妻と金沢,富山とあちこち捜し回り,遂に懐かしい“岩牡蠣”に出会うことができ
   積年の謎が解けたのであった.
    今では夏場,岩牡蠣は筆者の住む京都市内のレストランでも食べられるようになった.


 さて,夕食後,浜茶屋の床板に藁のムシロとゴザが敷かれ,その上に布団が敷かれた.
屋根の梁からはロープで蚊帳が吊られた.屋根はあるが,周囲は全く何もない砂浜の上の
“板の床”である.浜茶屋のおばさんやお兄さんも「こんなことは初めて」という.
 もう,あたりは暗く,ほとんど何も見えない.急いで蚊帳の中の布団に潜り込んだ.聞こえ
るのは波の音だけ.海岸にいるのは筆者ただ一人.風が爽やか.蚊も来ず,快適.すぐに
ぐっすりと寝てしまった.こんな経験は後にも先にも一回きりであった.
 朝方,風が少しきつくなった.布団に潜っても寒い.困ったことに,風で蚊帳が揺れるたび,
隙間から蚊が入ってくる.遂に何ヶ所も蚊にさされてしまった.
 朝7時,おばさんがまた昨夜と同じように朝食を運んでくれた.お弁当(おにぎり)まで作って
くれて宿泊費は何と1000円.有り難い.お世話になったみなさんに感謝感謝!.

   
北陸鉄道と沢口鉱山(1969年7月20日)

 今日は,ここ(柴垣)から10kmほど北にある沢口鉱山(廃坑)を訪ねることにした.沢口鉱山
は,かつて銅を目的に採掘された小さな鉱山で,羽咋郡志賀町の北部,米町駅の東方に
位置する.かなり以前に閉山しているため,ズリには孔雀石などの二次鉱物が期待できる.
 長手島に別れを告げ,北陸鉄道「柴垣駅」から,8時15分発の富来行き列車(電車,ディー
ゼル車?)で,「米町駅」まで.
 北陸鉄道・能登線はこの後まもなく廃線となり,二度と乗ることはできなくなったが,海岸と
山間の田園地域,約35kmを走るたいへん気持ちの良い鉄道であった.
 羽咋駅を出ると,まもなく海岸に出る.ここが最初の駅「能登一宮」で,一つ山を越えて再び
海岸に出たところが「柴垣」である.「柴垣」から「能登高浜」まで,線路は海岸線に沿って走る
が,その後は「富来」まで山の中を走る.
 早朝ということもあり,海の風,山間の風を受けてとても爽やか.列車は,たいへんゆっくり
走る.柴垣から米町まで7駅あるが,その間約15kmの距離を1時間半近くもかけて走ってい
た.急ぐ人には全く向かないが,ゆっくりした旅にはとても心地よい列車であった.
 9時40分頃,米町に到着.さっそく,かつての鉱山主・沢口さんの所へ詳しいことを聞きに
行った.沢口さんの話は「少し掘っただけだから,今はもう何もないよ.坑道にだけは絶対に
入らないように」ということだった.
 鉱山跡は沢口さんの家からすぐ近くの所で,わずか10分ほど.廃坑の跡には空き地が広
がっているが,ズリらしきものは見当たらない.建物跡のコンクリートの残骸付近には,孔雀
石,黄銅鉱,黄鉄鉱,磁硫鉄鉱などが少量確認できる程度であった.ズリが分からないのは,
上から土で覆ったのであろうか.早々に切り上げて再び「米町駅」へ.

 いよいよ次は石膏と方解石の「能登鉱山」(当時は稼動中).今度は期待が持てる.
 北陸鉄道で羽咋まで戻り,ここから国鉄七尾線で穴水まで(現在,能登鉄道七尾線).穴水
からは国鉄能登飯田線(現在,能登鉄道能登線)で,「珠洲飯田」まで行った.現在は「蛸島」
まで線路が続いているが,当時はまだ建設中で,「珠洲」が終点であった.
 宇出から珠洲までは非常に便数が少なかった.また,このとき乗ったのは国鉄の列車とは
思えないような古い木造の客車であった.ディーゼル機関車に引かれた,一両だけの車両
には,簡単な手摺だけの大きなデッキが付いていて,客室からはドアを開けて勝手に外の
デッキに出ることができた(落ちそう!).
 列車は,田圃や一面花の咲き乱れる原野を横切って進んでいく.デッキに立つと,そこを
渡る風を全身にうけることができた.
 ずいぶん前,NHKで「大草原の小さな家」というアメリカの映画ドラマを放送していたが,
なぜかあれを見ると,このときのことが重なって思い出される. (次号に続く)