ペグマタイト,72号(05-3),2005年6月

能 登 半 島 の 思 い 出 を 訪 ね て (その2)
           能登鉱山の方解石

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    珠洲市の能登鉱山へ

 1969年7月20日,沢口鉱山を早々に切り上げた後,午前10時過ぎ次の目的地,能登
鉱山に向けて出発した.
 能登半島の中央西側に位置する沢口鉱山から,先端に近い能登鉱山までは,直線距
離でわずか60kmほどしかないが,鉄道の接続は極めて悪く何時間かかるか分からない.
 北陸鉄道,国鉄七尾線,国鉄能登飯田線と乗り継いで,夕方には最寄り駅である国鉄
の「珠洲飯田」駅に着く予定であった.しかし,沢口鉱山を早く切り上げたため,珠洲飯田
駅(現.能登鉄道飯田駅)には予定よりも早く,午後4時過ぎに着いてしまった.
 珠洲飯田駅を降りると,駅前の通りには至る所に提灯が吊られ,笛や太鼓のお囃子が
聞こえてくる.改札口の駅員に聞くと,今日は“お祭り”とのこと.
 駅前の旅館では,開け放たれた二階で浴衣を着た大勢の人が宴会をして騒いでいる.
早く着いたので,今日はゆっくりと泊まる旅館を探せると思っていたが,これでは探せない.
宴会で大騒ぎをしている旅館へは足を向けることができなかった.
 飯田の街はとても小さい.少し歩くともうそこには水田が広がっていた.リュックを背負っ
て,あてもなく歩いていると,軽トラックで通りかかった親切な人が「どこまで行くのか.乗
せていってやるよ」と声をかけてくれた.筆者がどこかに泊まるところはないか,と訪ねて
みたがやはり駅前にしか旅館はないらしい.
 筆者が,能登鉱山に明日の早朝行くことになっていると話すと,その人は「能登鉱山は
大きな鉱山で,寮などもあるから,とにかく行ってみたら」とのこと.ありがたい.さっそく
鉱山まで送ってもらうことにした.
 珠洲飯田駅から,珠洲市若山町中田にある能登鉱山までは,約4〜5kmほどの道程.
軽トラックは10分ほどで着いた.教えてもらった通り能登鉱山の事務所へ行くと事務所は
閉まっていて誰もいない.しまった!すっかり忘れていたが,今日は日曜日だった!.
 まだ午後の5時前,仕方なく鉱山の近くの水田の畦道に座って,どうしようかと思案して
いた.空は晴れわたって,山の谷間を吹き下りてくる風が爽やかであった.
 こうなったら,田の横に置いてある稲藁の中に寝袋を突っ込んでその中で寝よう,と考
えていた.ただ,蚊取り線香は持っていたが,それで蚊が防げるかどうか,長手島でひど
い目に遭っているだけに不安が募る.
 しばらくすると,農作業を終えたおじさんが通りかかり「何をしているのか」と声をかけて
きた.事情を話すと,その人は親切にも「そりゃ大変だ.うちへ来て泊まりなさい」といって
すぐそばの自宅へ案内してくれた.
 その人は I さんという方で,大きな家に住んでおられた.広い庭の一角には泥鰌の養
殖池があって,農業の他にもいろいろなことをされているようだった.
 夕食は I さんの家族(6,7人) と一緒にいただいたが,筆者の話を皆が不思議そうに
感心して,熱心に聞いてくれた.筆者はこれまで,鉱山や鉱物のことを熱心に興味をもっ
て聞いてくれて,しかもこれほど親しく自然に接してくれる I さんのような“家族”に会った
ことがなかった.まるで,遠くの親戚の家に遊びにきたような感じだったので,このときの
ことは非常に印象深く記憶に残っている.
 翌日(7月21日),早朝4時頃,急にたたき起こされた.居間へ行くと,家族全員がテレビ
に見入っている.このとき,アポロ11号が月面に着陸して,アームストロング船長が,月面
を歩く姿が宇宙からの中継で映し出されていた.

   
能登鉱山の石膏と方解石

 かつて日本には多数の石膏鉱山があったが,硫化鉱物の精錬や,石油の精製,火力
発電などで生じる二酸化硫黄を原料にした安価な副産物の硫酸カルシウム(人工石膏)の
ため,すべて閉山してしまった.
 石川県珠洲市若山町中田にあった能登鉱山は,かつて日本一の生産量を誇った石膏
の鉱山で,記念碑の碑文(後述,写真8)によれば最盛期には従業員が 600人を越えて
いた.数多くあった石膏鉱山で,能登鉱山が鉱物愛好家の間で一躍有名になったのは,
劈開と同じ菱面体の形態をした方解石の結晶を産したことからである.
 筆者は,昭和43年(1968年)頃,益富壽之助先生のところへ行った折り,淡黄色・半透
明で径2〜3cmの見事な結晶を拝見した.そのとき益富先生は「方解石の結晶は珍しく
はないが,このように劈開と全く同じ形をした“r(10-11)面だけからできた単純な菱面体”
の結晶はかなり稀で,しかもこれだけ大きいものは珍しい」と話された.
 この方解石の結晶は,当時いくらか標本店にも出回っていて買うこともできたが,益富
先生が“珍しい”と言われるとなおさらその産状がどうしても見たくなり,能登鉱山へ行く
ことになった.

   
能登鉱山の坑内見学(1969年7月21日)

 朝8時半,I さんの家を出て,100mも離れていない鉱山の事務所へ行った.能登鉱山
は金属鉱山に比べると規模も小さく,人員も少なかった.(小さく見えたのはこのとき能登
鉱山は閉山直前で,規模を縮小していたことも一因であろう).
 しかし,鉱山には東京の某大学文学部の学生が数名,卒論のため取材に来ていて,
鉱山の寮(?)に泊まっていた.能登鉱山はこうした学生の受け入れもしていた.彼らは
間もなく午前中に帰っていった.
 事務所で坑内の見学と方解石の菱面体結晶を採集させて欲しいと申し出ると,鉱山長
が出てこられて「今は鉱山も忙しいので,坑内の案内はできかねる」との素っ気ない返事.
 京都から来たことや,1ヶ月ほど前に手紙で鉱山見学のお願いをしていたことなどを告
げると,バインダーに挟んであった筆者からの手紙を読み返し,しばらく思案されていた
が「坑内見学は少しだけ.しかし,方解石の採集はダメ.後は,選鉱場で鉱物の採集を
して下さい」ということになった.
 そしてその後,採鉱課の若い技術者を筆者の案内人として紹介してくれた.最初に,
事務所の応接室で能登鉱山の地質と鉱床についての説明を受けた.能登鉱山では,
石膏の鉱体はイモ状で,海緑石の層と凝灰岩の層との間に形成されているとのことで
ある.
 10時過ぎ,作業服に着替え,ヘルメット,ゴム長靴,軍手を着けて坑内へ向かった.
腰には重いヘッドランプの蓄電池を着けた.坑内へは,大きなリュックは目立つので,小
さなリュックと,先の尖った化石用のハンマーを持って行くことにした.
 少し坑道を歩いた後,立坑をハシゴを伝って降りる.坑内は最初涼しく感じたが,歩くと
すぐに暑く感じるようになった.案内人(若い鉱山技師)は,坑道を歩きながらいろいろな
ことを話してくれた.
 鉱石は,凝灰岩や黒色粘土中に生じている石膏で,石膏の種類は,雪花石膏,繊維石
膏,透石膏,それに一部,硬石膏が伴う.鉱石の用途は,ほとんどがセメント用で,石膏
の割合が75%を超えた鉱石は,選鉱せずにそのままセメントに混ぜるのだそうである.
 鉱山長から「坑内見学は短時間に」ということを言われていたが,案内人は親切で,時
間を気にせずいろいろな場所を案内してくれた.そして,筆者が“方解石”を採集したいと
申し出ると,そこへも案内してくれることになった.
 方解石の菱面体結晶が採れる場所は,けっこう遠く離れたところにあった.迷路のよう
な坑道を通って,そこへ行くだけでも30分近くかかったように記憶している.
 そこでは,繊維石膏・雪花石膏の鉱体の中に,真っ黒な粘土層が,ほぼ水平な数十cm
ほどの脈となって見られた.
 方解石の結晶はこの中に入っていた.この菱面体の方解石は淡褐黄色半透明で,径
数mm〜4cmほどの大きさである(写真2).不思議なことに,黒色粘土層の周囲はすべて
石膏で,この黒色粘土の中にだけ方解石の結晶が入っている.逆に,この粘土の中に
は,ほとんど石膏は見られない.
 この黒色粘土の層は,石膏鉱体の中に生じた裂罅を,後で充填したもののように思え
た.方解石と石膏は黒色粘土の中では共生していないが,黒色粘土と石膏の境界には
石膏に接して方解石が結晶している(写真3).
 黒い粘土といっても,少し固まった状態でかなり堅く,素手で採ることは無理.持って
いったツルハシ様の小さな化石用ハンマーは大いに役立った.方解石は,いくらでも黒
い粘土に入っているが,粘土をハンマーの尖った方で突き刺すようにして探ると,割れた
り,傷が付いてしまう.そのため,細心の注意が必要.割れた結晶は,内部が“鼈甲”色
のきれいな透明でその美しさに感動が伝わってくる.
 割れたり,傷の付いた結晶は,その場に捨てて,きれいな単結晶だけを選び新聞紙に
包んでリュックに詰めた.15分ほどで,およそ200〜300個ほどを採集して,そこを後にし
た.
   家に帰って洗って整理したら,2リットルほどの容積の箱にちょうど 一杯になった.
   筆者にしては,けっこうたくさん採集したつもりであったが,帰宅後,大勢の友人達がやってきて,
  あっという間に無くなってしまった.
   今では方解石の結晶は手元にわずか数個残っているだけとなった.当時はいくらでも,無限に
  採れたのに…,今となってはもう少し採集しておけば良かったと後悔している.


 鉱山長との約束では1時間ほど,ということであったが,もうすでに3時間以上は経って
いた.さらにその案内人は「二枚貝の化石が石膏に変わったもの」がある,と実際に標本
を見せてくれた(写真6)が,約束の時間が大幅に超えていたので,それを貰っただけで,
そこへ行くことは諦めることにした.
 事務所へ戻ると,すでに午後の2時を過ぎていた.服を着替えて応接室戻ると,そこに
は筆者のために昼食が用意してあった.
 すぐに鉱山長が入って来られたが,方解石を採集したことを話すと,鉱山長は「それは
約束が違う.せっかく採集したので,数個だけは持っていって良いが,あとはみな置いて
おくように」.「この方解石の結晶は標本業者に高く売れる鉱山の商品なので,少しくらい
ならいいが,沢山あげるわけにはいかない」と告げられてしまった.
 後でわかったことであるが,どうも,誰かがこの方解石を大量に持ち帰って標本屋さんに
売ったらしく,そのことが鉱山長の耳に入って,このような筆者への対応になったものと思
われる.
 鉱山長が応接室から出ていった後で,昼食を食べていると,案内してくれた人が来て
「鉱山長はあのように言っていたが,方解石のことは全く気にしなくて良い.どうせ鉱山
では,全く役に立たないものだから.昼食が済んだら,全部持ってそっと裏口から出て行
きなさい」と言ってくれた.
 3時過ぎ,その人の言ってくれた通り,誰も居ない事務所の裏口でそっと御辞儀をして,
裏口から能登鉱山を辞した.今になって思えば,能登鉱山の鉱山長にはずいぶん失礼で
申し訳ないことをした.
 お世話になった I さんの家に立ち寄って御礼を言った後,中田のバス停から3時49分発
の北鉄バスで,国鉄珠洲飯田駅まで戻ることにした.

   
昨年(2004年)の“能登鉱山跡地”訪問

 昨年の夏,能登鉱山の跡地を訪ねてみた. 跡地には,鉱山に関係したものはほとん
ど無くなっていて,筆者の記憶に残っているものを見つけることはできなかった.かつて,
事務所があった場所は生け垣で囲まれた小さな広場になっていて,石碑が建っている
(写真7,8).そこの石碑の裏には,以下のような内容が記されている.

   當地に於いて石膏の採掘が始められたのは大正七年頃とされている.
   能登鑛山は大正十二年九月,大寶弥男二氏により創業された.
   その後,本格的開発により昭和初期において既に本邦第一の生産量に達し,
  最盛期に従業員六百人を越える當地方最大の企業として繁栄した.
   昭和三十五年法人組織となり…(中略)
   昭和四十四年閉山.(後略)
         能登鑛山 所長 問谷正一郎

 ここに書かれていることが正確なら,筆者が訪問したその年に,能登鉱山は閉山した
ことになる.
 そこから,少し山道に入ると,鉱山施設の一部であったと思われる錆びたタンクのよう
なものが,生い茂った草木の間から姿を見せていた(写真9).少し小高い場所に空き地
があって,そこからは周囲が見渡せた.錆びて消えかかった看板には,農協の施設の
ような文字が書かれていたが,地元の人に聞けば,農協の施設になる前は能登鉱山の
事務所があった所だということであった.
 今となっては,全く分からないが,筆者が訪れた能登鉱山の事務所は,少し小高い所
にあったような記憶があるため,もしかするとここにあった事務所の応接室で鉱山長が
対応して下さったり,昼食をいただいたのかも知れない.
 かつてお世話になった I さんの家と思われる付近で,2人のおばさんに当時の話を聞
くことができた.おばさん達の話では,I さんはもうすでに,かなり前にお亡くなりになって
いた.
 このおばさん達は,能登鉱山が採掘を中止するときまで働いていたそうで,鉱山のこと
を懐かしく,詳しく話してくれた.2人のおばさんの話では,やはり,能登鉱山は石碑に刻
まれていた通り,筆者が訪問した1969年の秋に閉山したようであった.
 筆者は幸運にも,閉山の直前に能登鉱山を訪問して坑内を見学することができた.ただ,
少し残念だったのは,前述のような経緯から,選鉱場や貯鉱場での採集がまったくできな
かったことである.
 方解石以外の鉱物,硬石膏や,繊維石膏は坑内で見学・観察しながら1,2個採集した
だけであった.標本になるような透石膏や,雪花石膏は採集できなかった.そのため能登
鉱山の坑内の様子や方解石の産状は知ることができたが,能登鉱山で産出していた鉱物
の様子は十分に知ることができなかった.
 おばさん達の話では,当時の鉱山長であった問谷さんも,既にお亡くなりになったという
ことであった.                             (次号に続く)