先の望み(一二○二)

山中 照雄

 若葉緑の会のありようについて

 入会した人が会員として[長く続くかどうか]は[サークルの居心地がいいかどうか]にかかっている。少し続いてやめる人が多いのは「おもしろそうだ」と期待したものの、期待したほどでもなく、居場所もできなかったからである。

 [期待を持つ]という意味では会員としての歴史には関係ない。私が会員の募集を要求するのは新しい会員が夢を持ってきてくれることを[期待する]からである。だからすぐにやめられると、夢を運んできてくれなかったその人と、夢を与え得なかった自分とにがっかりする。

 サークルに求めるものは人によって色々である。恋人探しの人、友達作りの人、人間性の向上、見聞を広める、楽しみを見つける。などなど気になることはサークルではそれらが品揃えされていて、入会さえすればまるで店で買物をするように簡単に手にすることができると勘違いしているのではないかと思いたくなる人がいることだ。

 「友達になってくれ」と言われて、「なろう」と言う人がいれば、それで二人が真の友達になったと思う人はいないだろう。友達とはそれなりに時間をかけて友情を育て得た者同士の関係である。同じように、男性の場合、いい女性がいくら周りにいても愛を育てなければ恋人同士にはなれない。知性や感性を育てなければ人間性の向上もない。サークルは店屋ではない。望みは自分で時間をかけ、苦労をして手に入れるしかない。このことは職人が技[わざ]を身につけていくやり方に似ている職人わざはやり方を教えてもらったからといって、すぐに身につくものでない。先輩の仕草を見習い、教えを乞い、やってみて、うまくいったり、失敗したりしながら、時間をかけて覚えていく。サークルは人との付き合い方を習う職人の場である。そのことを知らずに[頼めばもらえるもの]と勘違いしている人を見かけることは悲しいことである。

 すべてはまず自分が周りの人に働きかけてのちに始まる。求めれば経験を教えてくれるが、眺めている人にはサークルは何も与えてくれない学校のような教科書もない。マニュアルもない。先生もいない。みんなでごちゃごちゃと求め合い、話し合った中から、自らの力で自分の欲しいものをつかみ取っていく。この方法がみんなの望みを同時にかなえる
一番よい方法なのだ。会内のもめごとも、会内がばらばらに見えるみんなの勝手な行動も[ごちゃごちゃと求め合う]よいチャンスとなる。

 サークルもまた社会の一部だからサークルで起きる様々なことは会社でも近所でも起きる。サークルで体験した[人との係わりの中で起きる出来事]は他の場所でも起きる。だからサークルでいろんなことを体験しておけば他で出会っても、戸惑うことなく対処できる。「サークルは社会生活の体験の場」であることを忘れないようにしたいそのことから会内のもめごともおおいに結構というわけだ。

 人によってはもめごとを嫌い、[なごやかさ]を求めてサークルに来る。この人にとってはもめることはゆるせない。[例会は計画通りに実行する]と決めている人は勝手な行動をする会員が許せない。かくして、不満が出て[会]を去っていく。
しかし、私は前の二例が[いつもはたせている]サークルをみたことがない。[そんなときもある]程度が普通だ。残念だが[絵に書いた餅]は食べられない。現実の餅は大きさも形も味も同じではないことを知って欲しい。その上で違いがあっても餅=会員であることを大切にして絵のようなサークルにしたいと願い、努力してきた。

 よく「若葉はばらばらだ」と批判される。それに対して次の二例を知っておいて欲しい以前、マイクロバスで六甲に行った時、運転手が「これはどうゆう集まりですか。今までたくさんのお客さんを見てきたけれどこんなにまとまりのある集まりは見たことがない」 以前、二○人程で一泊二日の海水浴に行った。夜民宿の主人が私に「このグループはどうゆう集まりですか。親戚にしては呼び合う名前や顔がばらばらだし、他人にしては仲が良すぎる」


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