思い出話(一三)

山中 照雄

 四年生だったか五年生だったかの体操の時間に軍事訓練が行われた。のちに映画やテレビで軍隊の映像でそれが軍事訓練であったことを知った。
 「・・・右へならえ」と号令がかかるといつもの順番に先生を前に横に二列に並ぶ。先頭の生徒は一番背の高い子で脊の高さの順に順番が決まっている。間隔は左手で敬礼してやっと肘が当たらない程度。敬礼して並んだようにも思う。「右向け右」との号令で右を向くと二列縦隊が出来、さらに「・・・一歩前へ」と号令がかかると複数番の子がななめ前に出て四列縦隊になる。「番号」と号令がかかると左端の子が先頭から「一、二、三・・・」と大声で叫ぶ。終わりまで行くと先頭の子だったか当番の子だったかが四倍して「総員・・名」と報告する。

 これに関して高校のとき数学の先生からおもしろい話を聞いた。
終戦で部隊がシベリアに連れて行かれ、ソ連軍の将校から人数の確認を求められたとき、この方法であっというまに人数を確認して報告したところ「そんなに早く数えられるはずがない。どうせ捕虜だからといいかげんに報告したのだろう」ということでソ連軍の方で数え直したそうでその方法は兵隊を一列に並ばせて「1、2、3、・・」と一人ずつ数えていったそうだ。

 話を元に戻す。
その日は校庭の中程にわらを巻きつけた棒杭が立てられ、それぞれにチャーチル[時のイギリス首相」とルーズベルト[時のアメリカ大統領]の顔を馬糞(バフン=馬のウンチ)紙に書いて張りつけてあった。[馬糞紙]とは今のダンボ−ル紙のこと。馬糞を見たことのない人にはわからないだろうが、ふんずけてぺったんこにすると、わら(米を収穫したあとの枯れた茎)がちらちらする薄茶色のせんべいができる。表面の色合いといい、わらの混ざり具合といい、馬糞紙のそれとそっくりだった。分かり易い命名だ。ちなみに昔は馬の餌には必ず切ったわらが入っていた。
 ついでだが、当時は馬は運搬の主役だったから京都の町中にもあちこちに黄色のまんじゅうがかたまって落ちていた。子供たちはそれを見つけると「脊が高くなる」と言ってふんずけた。ちなみに牛のそれだと背が低くなるらしかった。

 四列になった生徒は号令のもとに棒杭の前に並ぶ。先頭の生徒と棒杭までの距離はボール送りの競技のときの走る距離とおなじくらいと考えればいい。背丈より少し長い棒を横に構えて走っていって「やあっ」と掛け声をかけてわらを突く。突いたら走り戻って棒を次の者に渡す。そして列の後ろについて腰を下ろす。ボール運びの競技のルーツはこれかも知れない。
 聞いた話では大人たちも同じようなことをしていたらしい。棒ではなく竹槍だったようだが。なんでも敵兵=アメリカ兵がきたら竹槍でやっつける練習ということだったらしい。その頃にはアメリカ兵はマシンガンとピストルで武装していた。そのことは軍部は知っていたはずなのに国民には手作りの竹槍しか渡せないでいたことになる。もっとも、正規軍ですら明治時代とたいしてかわらない鉄砲で戦っていた。
 物陰からやればいいというかも知れないがその前に火炎放射機で物陰もろとも焼かれることになる。そのことは沖縄戦で軍部は知っていたはず。この頃には絶望のあまり、何かしていないと落ち着けなかったのではなかろうか。どこの学校もそうだったのかは知らないが兵隊さんが一人いた。軍事教練の教官だったと思う。あるいはそれは表向けで先生方の監視だったのかもしれない。

 四年生の八月に私は玉島に行った。京都では夏休みはなく[月月火水木金金]の時間割りで授業があった。これは軍歌から艦隊勤務だと知った。玉島に行ったら学校は夏休みだった。政府は都会は爆撃でいつ休校になるかわからないと考えて、出来るときにしておこうとしたのかも知れない


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