『火星人テキサスにあらわる』 Night of the Cooters (Ursus Imprints, 1990)
   ハワード・ウォルドロップ Howard Waldrop



 ヒューゴー賞、ネビュラ賞に何度もノミネートされていながら、この人ほど、日本ではマイナーな人も珍しいのではなかろうか。S−Fマガジン’93年1月号の山岸真氏のリストによれば、’82年から’91年のあいだのノミネート回数は、上位十人に入っているのだ。にもかかわらず、わが国では“ドードーの変な話の人”程度の認識しかされていないのは、少しさみしいものがある。
 さだめし翻訳に馴染まない文章なのだろうと覚悟して読みはじめたこの短編集、意外にもそんなに怪異な英語で書いてあるわけではなかった。文章はふつうに頭に流れ込んでくる――が、その文章が頭の中でなかなか意味の塊を作らないのだ。書いてあるのがなにかはわかるが、なにが書いてあるのかが、なかなか(あるいは、ついに)わからないのである。
 ははあ、これがハワード・ウォルドロップであるか。こいつは訳しにくいだろうなあ。SFの訳業というものは大半がそうらしいのだが、ウォルドロップの翻訳は、特に労多くして報いの少ないものであろうと想像される。語彙がどうの文体がどうのというレベルではない、異質の難しさがあるのだ。彼の作品の多く(少ないが)を本当に理解し、ましてや、翻訳するには、SFおたくやSFファンであるだけでは不十分で、なんらかの他のサブカルチャーのおたくであるか、作者と同じくらいの徹底的なリサーチが必要であるらしい。“らしい”というのは、正直言って、私自身どの程度理解できているのか不安なのである。「あっ、あそこはこういう意味だったのか!」なんて箇所が、掘れば掘るほどいくらでも出てきそうな気がして落ち着かない。けっして、ふつうのSFファンに話の筋すらわからないというようなものではない。むしろ、面白い。ただ、私のように、あまり雑学知識に自信のない方は、注釈が失われた『なんとなく、クリスタル』を読むアメリカ人のような残尿感(?)を、いつまでも感じることであろう。

 さて、収録作品をご紹介して行こう。訳題はできるかぎり既存のものを踏襲したが、そのほかは、ちょっと遊んでつけてみた。

「火星人テキサスにあらわる」 Night of the Cooters
  もうひとつの『宇宙戦争』である。H.G.ウェルズの火星人がロンドンを恐怖のどん底に陥れていたちょうどそのとき、のどかなテキサス州の田舎町にもあやしい物体が飛来した(ちなみに、そのころ日本では、梶尾真治の「清太郎出初式」が進行中である)。案のじょう現れたサンリオ文庫マークの火星人に、保安官リンドリーは隣近所の勇士を率いて立ち向かう。「アラモを忘れるな!」ってなわけで、どうもこの人たち、火星人もメキシコ人も心理的にはぜんぜん区別がついていない。人のいい“おらが町の保安官”の生真面目さが、独特のとぼけた味を出していて妙におかしい。
 ところで、 cooter っていったいなんぞや? S−Fマガジン(’89年1月号)のヒューゴー賞ノミネート作品リストでは、「まぬけの夜」という仮題がつけられていたが、これはきっと coot とかんちがいなさっているのであろう。研究社・新英和大辞典(にしか載ってなかったのだ)によると、米国南部・東部でカメ(特に、食用の淡水ガメ)を cooter と呼ぶのだそうで、作中では、田舎のおっちゃんが火星人を憎々しげに指して一度だけ使っている。まあ、たしかに、シリンダーの中からぬうっと顔を出しては西部劇風に熱線を射ってくる火星人、カメに見えないこともありません。

「仏映画がある風景」 French Scenes
 ウォルドロップの少年時代、両親はのべつまくなしに働いていて、ハワードは週に三夜は、保育所代わりの映画館にほうりこまれていたそうだ。’54年から’62年のアメリカ映画は「すべて観た」と、彼は豪語する。そんな映画少年にとっても、田舎の劇場にはやってこない外国映画の世界は未開の沃野であった。ヌーヴェル・ヴァーグなどの評判を雑誌で読むにつけ、漠然とした憧れを抱いていたウォルドロップは、自動車免許を取るやいなや行動範囲を広げ、今度は外国映画をむさぼり始める。
 この作品は、そんな彼のヌーヴェル・ヴァーグへのオマージュである。舞台は近未来、映画は撮るものではなくなっていた。コンピュータを使って、ひとりの人間が“作る”のだ(もう、未来の話じゃないなあ)。主人公の映画作者は大のオールド・ムーヴィーファン、機械に頼って計算どおりの映画を作ることに言い知れぬ苛立ちを感じている。ある日、業を煮やした彼は、映画製作用のコンピュータ・GAX−600を存分に独占使用すべく、食糧と自家発電機を持ち込んで制御室を乗っ取るのだが……。

「西部劇のうつりかわり」 The Passing of the Western
 この作品でも、ウォルドロップの映画おたくぶりは存分に発揮されている。一種のオルタネート・ワールドものだが、彼がただのウェスタンSF(?)を書くわけがない。ある架空の人気西部劇シリーズについて、撮影秘話、出演者のインタビュー、映画評論など、あくまで間接的なアーティクルのみを繰り出しながら、西部劇映画を支えた時代を活きいきと描き出すという離れ業をやってのけているのである。西部劇に疎い私でも、ついに直接には語られなかったこの映画、一度は観てみたいと思ったくらいだ。

「ハサミトギの口笛の冒険」 The Adventure of the Grinder's Whistle
 谷山浩子の歌とはまったく関係ない。シャーロック・ホームズものなのである。ただし、語り手はワトソンではない。エドワード・マローン(ドイルの『失われた世界』などの語り手)なる老作家が、少年のころに出会った事件を回想して書いたという体裁をとっている。キルゴア・トラウトの著書の出現に影響を受けて、’77年に発表した作品。書いたご本人は、「この作品が気に入らなかったら、(こういうことをやりだした)フィリップ・ホセ・ファーマーに文句を言ってくれ」などと、むちゃくちゃを言っている。
 切り裂きジャック事件に揺れるロンドン。愚連隊の少年たちを雇って捜査を進める名探偵ホームズは、切り裂き現場の近くにいた女性の「口笛のような音と、繰り返し何度も刃物を研ぐような音がした」という証言に、目を輝かせる。ホームズの指名で、利発な少年マローンは、ワトソンの補佐役として霧の夜の大捕物に立ち会うこととなった。さてさて、切り裂きジャックの正体は……!? シャーロキアンのためにネタばらしはやめておきましょう。

「ブロードウェイ上空30分 −ジェットボーイ最後の冒険−」 Thirty Minutes Over Broadway!
 やあ、助かった。この作品の翻訳(黒丸尚訳)は、現在好評発売中である。ご存知、『ワイルド・カード』シリーズの第一話だ。作品のほうは、『ワイルド・カード1 大いなる序章(上)』(G・R・R・マーティン編、黒丸尚・他訳/創元SF文庫)をお読みいただくとして、ここでは、ウォルドロップが本短編集に書き下ろしているイントロ部分から、こぼれ話をご紹介しておこう。
 ウォルドロップがこの短編をマーティンに送ってしばらくしたある日、ロジャー・ゼラズニイから彼に電話が入った――「1946年9月15日は何曜日だ?」
 ゼラズニイは、ウォルドロップの話に続けて第二話を書かなければならない。異星人のウィルス爆弾がマンハッタン上空で炸裂する運命の《ワイルド・カード・デイ》、1946年9月15日は、文庫解説の堺三保氏が紹介なさっているとおり、ウォルドロップが生まれた日なのだ。彼は自信たっぷりに、「火曜日だ」と答えた。
 ところがこれは、かんちがいだったのである。おせっかいなSFファンが、「あの日は日曜日ですよ」と、わざわざカレンダーを見せてゼラズニイに教えたため、彼は悪態をつきながら愛用のパイプを地面に叩きつけ破壊したという。ゼラズニイが悔しがるのも道理で、彼が書いた第二話は、子供たちが“学校の教室の窓から”上空の異変を目撃する場面で始まるのだ。そういうわけで、「ぼくはロジャーにパイプひとつの借りがある」とは、ウォルドロップの弁である。

「注釈:ジェットボーイ」 The Annotated Jetboy
 「ブロードウェイ上空30分」の随所に仕掛けられたおたく好みのお遊びを、作者本人が解説した貴重な資料である。両方読めば、楽しさ倍増――などと言いたいところだが、とんでもない。これを読んでようやく納得するような人は、ウォルドロップ読みとしてはまだまだ修行が足りないのである。私など自分の無知にどんどん気が滅入っていった。ちなみに、この注釈は読んでいなかったという堺三保氏に、「あの作品のいたずらがどのくらいわかったか?」と、NIFTY−Serveのチャットで遭ったついでに尋ねてみたら、彼が次々と指摘する箇所が、ことごとくここに出ているではないか……。こういう人がにやにやしながら読むのが、ウォルドロップの正しい読みかたなのだろう。

「フーヴァー長官の陰謀」 Hoover's Men
 フーヴァーが大統領になりそこなっていたら……というお話。1928年の大統領選で対立候補に敗れたフーヴァーは、翌年新設された連邦電波局の長官に就任、強引きわまりないやりかたで、ラジオ・テレビ放送の国家規格を民間に強要する。方法はともあれ、規格の模索段階が省略できてしまった合衆国のテレビ放送は、急速な発展を遂げる。そのことが、世界の歴史を意外な方向へと……。
 オムニ誌に載ったショートショートで、ペーパーバック10ページに満たない作品だが、相当な情報量を持っている。「短く書くほど、やるべきことは多い」と明言するウォルドロップは、この作品に一ケ月半をかけたそうだ。さすがのプロ根性と言おうか、プロにあるまじき原価意識の欠如と言おうか……好きだなあ、こういう人。

「さあ、踊らないか」 Do Ya, Do Ya, Wanna Dance?
 アメリカの’60年代とはなんだったのかを、ウォルドロップ流に総括したノスタルジー小説。’69年の高校のクラスが同窓会を開くことになり、あちこちから漏れ伝わってくる“あの人は今”に触発される一人称の語り手の回想が、ヴォネガット風の醒めた口調で淡々とメインストーリーに挿入されてゆく。いよいよ同窓会のクライマックス、久々に楽器をとった懐かしい顔ぶれのバンドが演奏を始め、会は熱狂的なダンスパーティーと化すが、やがて……。
 ’88年にアジモフス誌に発表された作品。彼の定義では、’60年代なるものは、1963年11月22日に始まり、1974年8月9日に終わったのだそうだ。ケネディ暗殺からニクソン辞任にいたる青年期を過ごしたアメリカ人にとっては、理想が永遠の現在として伝説化されてから、その虚飾が剥げ落ちるまでの残酷なありさまが、みずからの青春の蹉跌と重なってきてしまうのだろうか。

「野の荒馬たちよ」 Wild, Wild Horses
 ウォルドロップは大のファンタジー嫌いらしい。「ぼくのところに送ってくる本の97%は即刻古本屋行きだが、選びかたは簡単。カバーに“kingdom”か“Empire”と書いてあれば、それで十分だ」……とまあ、すさまじいものである。その彼が、どうしてもファンタジーの形式を使わねばならないアイディアを得てしまった、と書いた作品。
 ローマ帝国末期、背教者ユリアヌスの治世。コンスタンチノープル近郊に住むウェゲティウスなる学者は、いつの日かリビアへ行って、古式ゆかしいライオン狩りをしたいなどと、呑気なことを考えている。ある日、「ここいらでライオンを見たやつがいる」ってんでライオン狩りに出た彼とその一味、ひょんなことから人語を解する最後のケンタウルスに出会う。そのケンタウルスの言うことにゃ、幻の獣医学大全と交換に、老いた自分を故郷の“ヘラクレスの柱”(ジブラルタル海峡の東端)まで連れていってほしいときたもんだ。かくて、学者と人馬のヨーロッパ横断珍道中が始まる……。

「自転車世紀末」 Fin de Cycle(′)
 本短編集のための書き下ろしである。ヨコジュンのような駄洒落タイトル( sie(`)cle cycle )は、きっと、ストーリーより先に思いついたのにちがいない。
 舞台は19世紀末のフランス、のちに劇作家となるジャリは、フランス陸軍第11自転車歩兵連隊で専任トイレ掃除の任務についていた。兵隊としてはぱっとしない彼だが、本当は大の自転車好き、さっさと除隊になって趣味で自転車を楽しむべく、黄疸を装うためのドーピングに励んでいる。自転車と一口に言っても、当時は、あの前輪の大きい旧式のもの( high-wheeler )と、比較的現在の形に近い“速歩機”( velocipede )が混在していて、ジャリは軍が採用している前者のファン、後者なんて自転車じゃないと思っている。ある日、速歩機派のジャーナリスト・ノポワに侮辱された彼は、エッフェル塔上でノポワと決闘する羽目になった。武器はなんでもよし。ただし、双方愛用の自転車に乗ったまま闘うこと――メインストーリーは単純だが、ジャリが親交を持つ芸術家の一団の話がやたら面白い。『ドレフュス事件』を撮ろうとする物語映画の父・メリエスの周囲に集まったプルースト、ルソー、ピカソ、サティ、そしてジャリといった世紀末の天才たちが、あれこれ試行錯誤して映画作りに取り組む過程が笑える。これだけの面々が作った糾弾映画、あまりの出来のよさに、これを観たゾラが草稿段階の「私は糾弾する」を破棄してしまう。どこまでが史実でどこからが虚構か、調べながら読まないとだまされてしまいますぜ。

 ふーっ。今回のスキャナーは、短編集ということに加えて作者が曲者だったので、いつもの三倍は疲れた。教訓:「短編集の紹介はむずかしい」。博覧強記の読者諸氏におかれては、「こいつ、読めてねぇなあ」というご感想もあるにちがいないが、なにとぞご寛恕いただきたい。
 思わぬ情報がなに食わぬ顔で圧縮されているウォルドロップの作風は、ハードSFファンがあれこれの設定を自分で計算してみるような楽しみを、文科系のファンにも与えてくれると言えるかもしれない。われこそはと思う方は、ぜひ彼との“おたくくらべ”に挑戦してみてはいかがだろう。そういうファンが出てくれば、日本においても特異なニッチを獲得し得る作家ではないかと思う。もっとも――訳す人はたいへんですよ、これは!

Special Thanks to:堺三保氏、浜田玲氏、NIFTY-Serve・SFファンタジーフォーラム・深夜の常連のみなさま

[NOVA MONTHLY 25号, MARCH 1994]




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