『ヴォールの惑星』 Planet of the Voles (G.P.Putnam's Sons, 1971)
   チャールズ・プラット Charles Platt



 力不足を痛感しつつも続けさせていただいているこのコーナーも、はや五回を数える。「不定期連載」のくせに毎回載っているぞ、というご指摘があったのかどうかは知らないが、とうとう前号では「不不定期連載」という珍妙なタイトルがついてしまった。
 さて、このスキャナー、速報性や蘊蓄の深さではプロの方々にかなうわけもない。よって、なるべく地味ながらも捨てがたい佳作を武骨にフォローしてゆければと思っているのだけれど、今回ははっきり言って“いろもの”である。
 昨年のDAICON6会場でのこと。故山高昭氏私蔵の海外SFペーパーバックが即売されるなんて、私は参加当日に知った。これはすごい。歳末特売会場のようなありさまになるにちがいない。人ごみがなにより苦手な私が覚悟を決めて即売コーナーに行ってみると、意外にも売場は閑散としている。しまった、遅かったか。もうたいしたものは残ってないだろうなあ……あれあれ、そうでもないぞ。有名作家の未訳作品や、翻訳が絶版・品切れになってる古典がけっこうある。これはどうしたことだ。あの山高昭氏の持っていた、ひょっとして書込みとかしてあるかもしれない本なんだぞ! ちょっと、そこゆくにーちゃん、ねーちゃん、すでに読んでようが、多少英語が苦手だろうが、欲しいとは思わんのか!? 20,000円じゃないぞ、200円で売ってるんだぞ!
 そのとき入手したのが、今回ご紹介する作品である。当時は『バーチャライズド・マン』(大森望訳・ハヤカワ文庫)しか読んだことがなかったものだから、プラット名義のSF小説というだけで手に取ったのだ。カバーの惹句やあらすじからすると、なかなかハードな冒険譚らしい。イラストもシリアス調だ。水玉螢之丞じゃない。よし、とにかく買いだ!

 のっけから出てくる超光速宇宙戦艦の中で、ひとりもの思いに沈む乗組員トマス――「どうして、このぼくが、みんなとちがわなきゃならないんだ……」
 ヴォルヴェニアン( Volvanian 、略称 Vole )なる正体不明のエイリアンと闘う兵士は、いまや闘争本能の衰えた地球人が、遺伝子工学で作り出した理想的な兵士ばかり。ところが、トマスひとりは、なんのまちがいか、線が細い。内省的で藝術を解する彼は、やたら機能的で疑いを知らないマッチョ兵士たちとは、まったく波長が合わない。階級はほかの兵士たちよりは上とはいえ、前線には出ずに写真解析なんぞをしているトマスに、兵士たちの態度はよそよそしい。それでトマスはいつも落ち込んでいるわけである。
 この大戦艦の中には、異人がもうひとりいた。艦の推進管にもぐり込んで煤の掃除(おいおい)をする要員のジョンだ。この煤掃除は、どうしても人の手の特殊な熟練技術が必要で、ジョンはまさにそのためだけに小さな身体で成熟するように遺伝子操作されているのである。トマスとジョンとのあいだには、暗黙の排斥を受けている異人同士、なんとなく連帯感のようなものが生じているのだった。
 さて、やがて宇宙戦艦は“ジャンプ”に入る。やっぱり、超光速にはこの手を使うんですな。もっともプラットは、疑似科学的にでも理屈をつけてやろうとは毫も思っていない。まあ、聴いてください。この宇宙戦艦、一個の巨大な岩をくりぬいて作られている。銀河系中心付近の暗黒星を回る惑星で発見されたその岩は、既知のあらゆる物理法則を拒み、もちろん分析不可能。「然るべき強さの然るべき力場にさらされると、その岩は通常の時間・空間から“フェイズ・アウト”するのであった」ってんだから、無限不可能性ドライヴで銀河ヒッチハイクでもするほうが、まだなんぼか愛想というものがある。「いや、『バーチャライズド・マン』の作者のことだ。きっとこれはハードSFをメタに批判しようとかなんとか、ふかーい意図があってのことにちがいない」と思えばいいのか、「いや、『フリーゾーン大混戦』(大森望訳・ハヤカワ文庫)の作者のことだ。宇宙船はとにかく飛べばいいのだ」ということなのか……。
 それはさておき、ジャンプ中の超空間を乱舞する美しい色彩にアーティスト魂を刺激されたトマスは、写真を撮るため小型の探査艇でふらりと外に出る(おいおい)。なぜ超空間には色があるのか? それは「なぜ無時間の中を航行できるのかがさだかでないように」誰も知らないのであった(おいおいおーい)。
 それもさておき、超空間の中をトマス艇に近づいてくる巨大な物体があった。なんと、それは宿敵ヴォルヴェニアンの宇宙船。母船に緊急事態を告げようにも、超空間内で電磁波通信は使えない。もはやこれまでと腹をくくったトマスの目の前で、ヴォール船は地球艦に怪光線を浴びせただけで破壊もせずに悠々と去ってゆく。写真撮影用の機器を使い、至近距離から夢中で敵艦内を観察するトマス。巨大なエイを思わせるヴォール船の内部には蜂の巣のようなセルが並び、中にはヴォルヴェニアンたちが胎児の姿勢で眠っている。中央のやや大きなセルには、おそらく司令官であろう、この世のものならぬ美しい女性が……。ヒューマノイドだとは知っていたが、それゆえのいっそう妖しい美しさに魅せられたトマスは、女性司令官の姿をしっかりと写真に捉え、おくればせながら全速力で敵艦から離脱する。
 母船に戻ったトマスは、乗組員の全滅を目のあたりにする。全艦のハッチというハッチが開放されているのだ。どうやらヴォルヴェニアンの攻撃方法は、特殊な神経ガスを怪光線で敵艦内に送り込み、乗員を発狂させるというものらしい。だが、乗員の死に絶えた艦内で途方に暮れるトマスの前に、たったひとりの生存者が――ジョンだ! ちょうど推進管の掃除中だったジョンは、宇宙服を着ていたためだろうか、うまく難を逃れたらしい。
 だが、喜ぶのはまだ早い。基本的な技術訓練は一応受けているジョンには、なんとか艦を操ることができそうだとはいえ、艦の燃料( propellant じゃなく、 fuel と書いてあるんだってば)は空気と一緒にほとんど宇宙空間に放出されてしまっているのだ。
 やがて、艦は自動的に超空間から脱出する。だが、オートパイロットにプログラムされていたのはここまで。もはや眼前に浮かぶ惑星に着陸でもして、燃料の水を艦に吸い上げるしかない。この惑星、もともと人類の植民星だが、いまはヴォルヴェニアンに支配されているのだ。敵陣のまっただ中へ飛び込む腹を決めたトマスとジョンは、シミュレータ訓練の知識のみをたよりに、どうにか探査艇で惑星に軟着陸する。
 さてさて、ここから彼らの大冒険がはじまる。あざといばかりにめまぐるしいストーリー展開は、ほとんどページをめくり続けさせることだけを目的にしているかのようでもある。
 トマスたちはヴォルヴェニアンのガスによる奇襲を受け、偵察艇を奪われ離ればなれになってしまう。眠らされて囚われの身となったトマス。が、なぜか彼にはガスの効きめが弱く、ヴォールの計算を裏切って護送中に意識を取り戻し、あっさり脱出する。
 巨大な怪鳥が巣を構える大木の森で、トマスとジョンは都合よく合流。都市の偵察に赴いた彼らの傍らを、すっかり腑抜けにされた人間たちがなにかに操られるがごとく、集団で徘徊している。そこでトマスたちが遭遇したのは、人類のレジスタンスのリーダー・生化学者のスナイプだった。スナイプによると、ある日突然来襲したヴォルヴェニアンは、まず人間の食料入手手段を断ち、正体不明の催眠ガスを用いて、人々に奇妙な果実を食べるよう仕向けたのだという。その果実を食べた人間は意識レベルが低下し、ヴォールの操るがままになってしまうのだ。職業柄、さまざまな菌種を培養していたスナイプは、栄養物をなんとか合成して飢えをしのぎ、禁断の果実を食べずにすんだのだった。彼は運よく正気を保っているわずかな者たちを組織し反撃の機をうかがってはいたが、圧倒的な多勢に無勢で手も足も出ない。しかも、合成できない栄養素の不足で、レジスタンスのメンバーたちは徐々に弱ってゆく。トマスたちの出現に、ついに援軍が到着したかと小躍りするスナイプだったが、真相を知って大いに落胆するのであった。
 トマスたちの冒険譚を聞いたスナイプは、さすが科学者、即座に奇妙な点を指摘する。宇宙戦艦の船殻を透過しうるヴォールのガス攻撃を、たかが宇宙服のおかげでジョンが逃れえたのはおかしいというのだ。また、ガスで眠らされたトマスも、あまりに早く回復しすぎている。これはトマスとジョンが遺伝的に特殊な存在であることによるのではないか、というのがスナイプの説であった。
 トマスたちは、スナイプのアジトにひとまず腰を落ち着け、レジスタンスの集まりに出かけたり、都市を偵察したりしては、状況打開の作戦を練る。だが、トマスがヴォールの女性司令官の呼び声を夢うつつに聴いたある夜、ゾンビ人間たちになぜかアジトを発見され、彼らは命からがら地下道を通って脱出する。
 こうなればもう、殺るか殺られるかである。奪われた偵察艇を奪還し母船に戻ることが先決だと判断した彼らは、トマスの大胆な提案で、偵察艇が隠されているらしいヴォール要塞への潜入を図る。小型の催眠装置で例の巨鳥を調教したトマスたちは、ヒロイック・ファンタジーさながらのノリでヴォルヴェニアン要塞に空から迫ると、防備の手薄な主砲の砲身へ飛び移り、砲口を通ってまんまと要塞内部へ潜入……するのだが、なんと、中にはトマスの偵察艇があるばかり。厳重なハイテク防備は、堅固な要塞がじつはからっぽのダミーであることをカモフラージュするためのものだったのだ。
 偵察艇に乗り込んだトマスたちがひと息つく間もあらばこそ、突如、要塞のメインゲートが開きはじめ、彼らをすっかり包囲したヴォルヴェニアンの戦闘艇部隊が姿をあらわす。ええい、ままよと、高千穂遥風に包囲網を突破する偵察艇、一気に上昇し母船をめざす。しかし、背後からはヴォルヴェニアンのビーム兵器が……!
 トマスが意識を取り戻すと、すぐそばを母船が漂っていた。脱出に成功したのだ。だが、ジョンとスナイプの意識は戻らず、脈は異常に遅い。どうやら、ビーム攻撃で送り込まれたガスのため、冬眠状態にされているようだ。トマスにはガスは効かない。ところが、ガスが効かないはずのジョンが眠ったままだ。これはいったいどうしたことか! 通信機からは、トマスに投降を促すヴォールの声。写真以外の技術を持たないトマスが母船に戻ったとて、ジョンとスナイプがこのままずっと眠ったままでは、どうしようもない。
 ここからのトマスの推論が、たいへん科学的である。ジョンはガス攻撃を二度受けている。彼にはガスが効いたり効かなかったりする。なぜか? 一度目のときには、彼は宇宙服を着ていた。しかし、スナイプの指摘どおり、これではガスを避けえない。また、いまこうして眠っているからには、遺伝的特質のためジョンにガスが効かないという説も否定された。では、最初の攻撃のときにだけ成立していた条件は……ジョンは“煤で汚れた”宇宙服を着ていた! あの煤は、特殊な岩でできたこの宇宙船の船殻の粉なのだから(なのだそうだ)、なにか想像を超えた力があるのだ。ということは、船殻を削った粉を飲ませれば、ジョンたちは目を醒ますのではなかろうか!!
 水も漏らさぬ鉄壁の論理である。はたして、船殻のけずりぶしを飲んだ二人は、みごと意識を取り戻すのであった。してみると、蚊取り線香を粉にして蕎麦にふりかけて食えばアホが治るという吉本興業説も、まんざら嘘ではないらしい。
 まんまと母船に帰還した彼らは、地球に帰るのかと思いきや、今度はヴォルヴェニアンに逆襲すべく計画を練りはじめる。ゾンビ化された人間たちに魔法の粉(?)を飲ませて正気に戻すと(もう、なんでもありだ)、ヴォールの真の基地を発見、攻撃隊を組織して、これを殲滅する。
 優位に立った人間たちの野蛮な殺戮行為を目のあたりにして幻滅したトマスは、ひとり戦場を離れてヴォール基地の深部へ向かう。そこで出会ったのは、誰あろう、ヴォールの女性司令官・ギャヴィナ( Gavina なんと女らしい名前であろう)であった。彼女はトマスに驚くべき事実を告げる。ヴォールたちは、敵艦の人工子宮内の胚を念動力で操作し、外見は地球人兵士だが内面はヴォルヴェニアンの繊細な精神を持つ人間、すなわち、トマスを作ったというのだ。彼はヴォールの兵器だったのである。さまざまな偶然が積み重なって、ヴォールは皮肉にも自らの兵器に敗れたのだった。
 一緒に来いというギャヴィナの誘いを、トマスは毅然と断る。自分は地球の兵士でもないが、ヴォルヴェニアンでもない。「ぼくは、ぼくだ」と……(このあたりはよくも悪くも、いかにもプラットだ)。母船に戻ったトマスとジョンは、英雄として地球へ戻り退屈な余生を送るよりは……と、超空間に逃れたヴォール艦隊を追って、宇宙の彼方へと旅立つのであった。いつの日か、どこかの星系で、ふたたび彼らはあいまみえることであろう。チャンチャン!

 翻訳された二長編だけをもって、プラットのSF作家としての顔を思い描いていた私は、この作品を読んではなはだ混乱した。客観的に評価すれば完全に失敗作である。真面目な宇宙冒険SFにしては斜に構えた肩すかしが多すぎ、かといって、いわゆるバカSFにしては尻をまくりきれておらず、妙に正統派SFのツボを押さえようとして、全体としてずいぶんとチグハグなものになってしまっている。よく宴会などで、根っから真面目な人が無理に羽目をはずそうと自分で照れてしまい場がシラケることがあるが、ああいう感じに近い。幸か不幸かSFをよーく知ってしまっているがゆえに、リコウにもバカにもなりきれない中途半端なノリなのである。「評論家の書いた小説でございます」という臭いがぷんぷんするのだ。
 だが、よくよく考えてみると、これは現在のプラットにもある程度は当てはまることで、結局、これがこの人の味といえば味なんじゃないだろうか? 私は肯定的に評価したい。
 SF作家としては沈黙していたあいだに、プラットはなにかがふっ切れたのだろう。この作品のころの欠点をいまだに引きずっているとはいえ、最近のものを読むかぎりでは、正統派シリアス路線とドタバタコメディ路線とを、一応はトーンを統一して書き分けているのはご存知のとおりである。そんなことは作家ならあたりまえだ、という厳しいご意見もあろうけれど、どうしても照れて斜に構えたり、楽屋ネタに走ったりしてしまう欠点をこそ味に転じて、チャールズ・プラット・ブランドとして打ち出してしまうしたたかさは好きになれる。
 こういう作家の評価は私ごときの手にあまる。なぜなら、個々の作品をテクスト至上主義でもって切り刻んでも、下手をするとなにも出てこないかもしれないからだ。プラットは、その存在とキャラクター自体が作品なのであろう。額に入れた静物画の中に、チャールズ・プラットはいない。分厚い本の隅に戯れに描かれたパラパラマンガを動かしてみるときはじめて、「ぼくは、ぼくだ」と照れながら、跳んだり跳ねたりしてみせるトリックスターの哄笑が聞こえてくるのにちがいない。

[NOVA MONTHLY 26号, MAY 1994]




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