悪魔の飽食


冬樹 蛉


「ああ、困ったなあ……困った、困った」
 本人が宣言しているように、その若者は見るからに困っているようであった。
 突如なま暖かい風が吹いたかとおもうと、黒いスーツに身を包んだ怪しげな男が現れた。
「そこのあなた、お困りのようですね」
「大きなお世話――あっ、おまえ、悪魔だなっ?」
「え、ええっ!? いや、そんな――」
「わかってるよ。こういうときには必ず出てきやがることになってるんだ。まにあってるよ。帰った、帰った!」
「ううう……」
 呆気にとられた悪魔は、そのまま虚しく消えた。


「どうも最近やりにくくていかん」
「おまえもか? なんかこう、手の内を見透かされてるというか……」
「そうそう。徹夜で考えた誘惑方法で迫っても、『あ、わかった。これこれこういうオチになるんでしょ? どこかで読んだわ』などと、人間どもに馬鹿にされる始末だ。お、おれ、悔しくて悔しくて――」
「情けねえなあ」
「国が豊かになりすぎたのかなあ。連中、暇なもんだから、おれたちの手口をあれやこれやと考えては楽しんでいるとしか思えん」
「厭な趣味だなあ。小人閑居して不善を為すとはよく言ったもんだ」
「ばかやろう! 不善を為さしめるのがおれたちの仕事だ」
「あ、そうだっけ」
「おれにいい考えがある。この国を貧しくしてしまえばいいのだ。そうすれば、みんな日々の生活に追われてがつがつしはじめ、悪魔の手口なんか優雅に考えている余裕はなくなるだろう」
「いかにも悪魔らしい大胆かつ単純な発想だな。だが、どうやって貧しくする? 経済的に貧しくするだけでなく、精神的にも貧困にしてやらねば悪魔らしくないぞ」
「そうだな、高度成長期以前の時代に介入して、産業の発展を阻害してやるというのはどうだろう?」
「簡単に言うが、おまえ、時間旅行できたっけ?」
「おまえと同じようにできないよ。厭味なやつだ」
「じゃ、どうする?」
「任せておけ。いい男に目をつけてある」


「やったぞ! ついにミミペロルケをサバジョルテしてカラソペーニャを完成させたぞ!」
 白衣の男が小躍りしている研究室に、悪魔たちはノックもせず突如現れた。
「あの妙な人間が役に立つというのか? なにやらたったいま大発明をしたところらしいが……」
「なあに、あの男はいつ覗きにきても、たったいま大発明をしたところなのだ」
「その大発明の中にタイムマシンがあるというのだな?」
「そういうことだ。もっとも、あいつのことだから、自分がそんなものを発明したことをとっくに忘れているかもしれんがな」
 悪魔はまだ狂喜している白衣の男に歩み寄ると、遠慮がちに肩を叩いた。「もしもし。お取り込み中のようだが……」
「おや? 悪魔なんぞ発明した憶えはないぞ」
「おれたちだって発明された憶えはない。天然の悪魔だ」
 白衣の男はさほど驚いたふうでもなく、しばらく悪魔をしげしげと眺めると、やがてつまらなさそうに言った。
「……ははあ。おまえ、じつは看護婦なんだろう?」
「はあ?」
「看護婦じゃないとすれば……わかった、幽霊だな?」
「看護婦でも幽霊でもない。悪魔だ」
「なあるほど、これはよくできたロボットだ……さては、セックスをしにきたな? わしにはそういう趣味はないぞ」
「おれたちにもそういう趣味はない。単刀直入に言おう。じつは、タイムマ――」
「わっ――」男はあわてて悪魔の口を手で塞ぐと、おどおどとあたりを見まわした。「おまえ……なぜ、タのことを知っている?」
「タ?」
「そのつまり、あの、あれだ。通常の時間の流れに逆らって物体を移動させる装置の名前など、あまりに怖ろしくてとても全部口にすることなどできない」
 みな言うとるやないか――となぜか関西弁で思いながらも、悪魔は神妙に肯いた。「そうだ。そのタが借りたい」
「それはありがたい。借りるなどと言わず、持って行ってしまってくれ。わしはもう、怖ろしくて怖ろしくて……」
 さっきまで小躍りしとったやないか――とまたも関西弁で思いながらも、悪魔はほくそ笑んだ。ずいぶんと気前のいいやつだ。
 男は部屋の隅に転がっていたタイムマシンを持ってくると、汚らわしいものであるかのように悪魔に押しつけた。どう見てもゴミ箱にしか見えない。偉大な発明は一見単純な外見をしているものだ。
「では、ありがたくもらっておくことにするが、それにしても、なにがそんなに怖ろしいのだ?」
 白衣の男はちょっと恥ずかしそうに言った。「この部屋は不自然じゃろう?」
「……うむ、言われてみれば、ずいぶんとさっぱりしているな。塵ひとつ落ちていない。ふつう研究者の部屋というものは、もっと雑然としているものではないのか」
「いい着眼だ」男は得意気に人差し指を立てた。「たとえば、ここにある紙屑をだな――」
 なにやら数式が書きなぐってある紙片を手の中で丸めると、男はひょいとタイムマシンに投げ込んだ。
「なるほど、そういうわけだったのか」
「そういうわけだったのだ」
「たいしたものだ。こいつがあれば、さしあたりはゴミ捨て場に困らないな。悪魔のような知恵だ」
 男に最大級の賛辞を贈ると、悪魔たちはタイムマシンと共に霞のように消えた。
 ひとりぽつんと残された白衣の男は、なぜか天井を見上げてつぶやいた。
「そう……さしあたりは、な」


「いかがですか? お得な取引きだと思いますよ」
 悪魔は契約書を広げると、北斗工作機械の社長にサインを迫った。
「――ほんとうに、ここにサインすれば、久美子と結婚させてくれるんだな?」
 思い詰めた表情でペンを握った社長の手が顫えている。
「嘘は申しません。ただし、あなたが社長をやめて、この会社を畳んでくださるのが条件です。そうすれば、それ以外の道での成功は保証してさしあげましょう」
 北斗社長の目がすわった。一息で殴るようにサインをする。
「いよっ、社長、太っ腹っ! いや、もう社長ではないんでしたな。いひひひひ、いひひひひひひひひひ」
 契約書をアタッシェケースに収めると、悪魔は卑しい含み笑いを漏らしながら、社長室をあとにした。
「ひひひひひ、また一人……」
 悪魔は五十音順の企業リストを取り出すと、太めのサインペンで“北斗工作機械”の行をぐいっと塗り潰した。こうやって、ひとつひとつ会社を消してゆけば、日本の産業の発展は遅れ、将来にわたって仕事がやりやすくなるにちがいない。みな現実の生活にあくせくと追われるばかりで、悪魔の手口を先読みして楽しむような精神的なゆとりなどなくなってしまうことだろう。
「今日は調子がいいな。さてと、次なる獲物は……」
 悪魔はリストを繰って次のページの一行目に記された会社の所在地を確認するや、社長室にテレポートした。あいにく社長は不在のようだ。
「えーと、よしよし――」几帳面な悪魔は、デスクに置いてある便箋の社名とリストの社名を照会し、テレポート先にまちがいがないことを確認した。
「星製薬……か」

(了)

dedicated to the memory of Shin-ichi Hoshi

['95年 8月/'98年 1月加筆・改稿]



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