電子メールがやってきた


冬樹 蛉


「――あー、世の趨勢に鑑み、わが社も電子メールを導入することになった」社長が言った。「電子メールを導入すれば、どのようなメリットがあるかというと――」
 あの社長が珍しく具体的なことを言いはじめたので、大会議室に集まった全員が思わず身を乗り出した。「――あー、諸君もよく知っているだろうが、マスコミ等で報じられているとおりである」
 あちこちでパイプ椅子がひっくり返る音がした。
「あー、詳しいことは、専務から話してもらうことにする。これでわが社も先端企業の仲間入りをしたわけで、まことに喜ばしいことである。みな大いに先端技術を利用して、常に先端をリードするわが社の発展に貢献してもらいたい」
“常に先端をリードしている”はずの会社が、どうしていまごろ“先端企業の仲間入り”をしたのか、いまひとつよくわからない。
 専務がもったいぶって登壇する。
「えー、電子メールの導入がみなさんの日々の業務にどのような効果をもたらすかといいますと……」専務は言いにくそうにカタカナ語を連発し、それなりに抽象的なことを滔々と述べたが、おおかたは『日帝コンピュータ』の特集記事そのままであった。「――というわけです。それでは、より具体的な効果に関しましては、情報システム部長から話してもらいます」
 情報システム部長が登壇すると、なんと、最初の五分で専務の言ったことを要約しはじめた。あちこちで「ふむ」とか「ああ」とかいった、同意とも嘲りとも慨嘆ともとれる音がする。どうやら専務が言っていたことは、ここへ来てはじめて日本語として理解されたらしい。その点で、情報システム部長はなるほど有能な人物ではあるのだった。
 が、人の話を要領よくまとめるわりには、彼の残りの話は『日帝オープンシステム』の受け売りで、フラットなオーガニゼーションにオリエンティッドなインターセクショナリーがディシジョン・メイキングでスポンテイニアスなアイディアは“コミニュケーション”の“トラヒック”がエレクトロニック・コマースからCALSでDIPSとBPRがEUCでLANだWANだがわんさかわんさでモービルなコンピュータはガソリンで動くのですとかいうさっぱりわけのわからない話で、畢竟、つまるところ、ひとことで言うと、とにかくインターネットなんだそうであった。
 ようやくひと息ついた情報システム部長は、無意識に口を拭った手の甲に血がついているのを見て、しばし目を剥いた。何度か舌を噛んだらしい。
「ああ――というわけで」気を取り直した部長は、口の右端から血を滴らせながら言った。「より詳しいことは、課長の柳川君から話してもらうことにします」
 柳川課長はノートパソコンを携えて登壇した。用意してあったプロジェクタに接続する。にわかに会議室が暗くなると、演台横のスクリーン中央に峨々たる雪山がフェイドインで現れた。なにごとがはじまるのかと息を呑む社員たちの前で、雪山が溶けるようにゆらめいて摩天楼に変化する。このあいだ購入伝票を書いていたのは、このソフトだったのか――。
 やがて摩天楼は自由の女神に変身し、女神の顔がこれでもかとライオンに化けると、首を振りながら咆哮した。なんのつもりだ。
 そのとき、ノートパソコンがアラーム音を発した。あっというまもあらばこそ、カシュンというディスクヘッドのリトラクト音を残して、電源が落ちた。バッテリ切れだ。かすかに聞こえていたハードディスクの回転音がほわほわほわほわ……と萎えてゆき、気まずい沈黙が降りてきた。ハードディスクとはけっこうやかましいものだったのだ、と誰もが素直に感心した。
 柳川課長がおろおろしていると、総務部の気の利く若手が、延長用テーブルタップを持って跳んできた。パソコンのACアダプタをすばやく接続して、壁のコンセントへと走る。
――届かない。
 気は利くが詰めの甘い男であった。
 そこへ総務部のさらに気の利く若手が、どこからかデスクトップ・パソコンの本体だけを担いで跳んできた。彼はデスクトップ・パソコンの電源コードを壁のコンセントに差し込み、パソコン本体のAC電源出力コンセントにテーブルタップを繋ごうとした。なかなか頭のいい男である。
――繋がらない。
 総務部の若き俊英は、童貞の新郎のような顔(というのは見たことはないが)で、パソコンの裏とタップのプラグを交互に見比べて困惑した。あのテーブルタップのプラグは、ご丁寧にもアース付きの三本脚なのである。うちの社で標準的に使っているパソコンの出力コンセントには、穴はふたつしかない。
「……あー」観念した柳川課長は、そのまま口頭でプレゼンテーションを続けた。言うまでもなく、『日帝情報ストラテジー』と『プレジテンツ』のつぎはぎであった。
「――さて、それでは、実践的な注意を大西係長から話してもらいます」
 大西係長は開口一番、なにやら洒落たつもりの格言じみたことを言った。私は知っているが、それは『ファイアード』に載っていたマクルーハンの言葉であった。やがて、彼の話は電子メールからどんどん逸れてゆき、ニューウェーヴなワイドスクリーン・バロックがサイバーパンクでテクノゴシックにほかならないところで終わった。なんのことやら誰にもわからない。
「――では、操作法について、主任の冬樹君から説明してもらいます」
 私が登壇する。
 高機能電子手帳や携帯情報端末でメモを取るふりをしてゲームをしていた何人かが、ようやく顔を上げた。
 こういう連中にとっては、会社の設備だの意識だのというものは常に自分たちの私生活を数歩うしろからついてくるもので、いまさらのようにエライさんから御託を聞かされるのは、「どうやら世の中には電車という便利なものがあるらしい。ぜひ利用したまえ」などと、なぜか徒歩で会社に通っている酔狂な人に薦められるような片腹痛さがあるのにちがいない。彼らのあいだでは“メール”と言えば電子メールのことに決まっており、従来の物理的社内メールや郵便は“snail mail”(かたつむりメール)だの“原始メール”だのと呼ばれるのである。
「えー、では――」私はあっさりと言った。「操作法に関しましては、私からご説明するよりも、ノベレット社の今宮さんに直接ご説明いただいたほうがよろしいかと思います。それでは、今宮さん、どうぞ」
 会議室に呼んであった今宮氏は、柳川課長のとは比べものにならない高性能ノートパソコンを抱えて登壇し、手際よくプロジェクタに接続した。こうやって、あちこちの会社に自社のソフトを売り込んで来た猛者なのだろう。あのショルダーバッグの中には、予備のバッテリパックが二個は入っているにちがいない。
「さて、まずメールの出しかたでございますが……」
 惚れぼれするようなマウスさばきで、今宮氏はどの電子メールにもついているような機能をひととおり説明した。が、これだけなら、わが社がこの製品を採用するわけがないのである。
「――と、まあ、ここまでの機能は、卑しくも電子メールと名のつくものであれば、どこの製品でも似たり寄ったりなのでございます。しかし、わが社は考えました。電子メールなどというものは、基本的にはアメリカの企業風土に合わせて設計されております。残念ながらソフトウェアでは彼らに決定的に引き離されておるわけですから、これはある程度いたしかたない。とはいえ、彼らの製品を使うからといって、彼らのようにならねばならないのでしょうか? いや、そんなことはありません!
 日本の企業というものは、西欧とはまったくちがう独自の文化を育んで参りました。そして、それこそが戦後の日本の繁栄を築いたわけですね。われわれはこの素晴らしい日本の企業文化を捨てるわけには参りません。たしかにいまは少々下り坂になっておりますが、なあに、これはたまたま逆風が吹いておるだけでして、景気が回復すればまた持ち直すに決まっております。そのときになって、盲目的にアメリカの真似をしておった企業は、日本の魂を売り渡したことを後悔することになるでしょう――」
 私には“たまたま逆風が吹いている”だけだとは思えないのだが、まあいい、セールストークというやつだろう。彼だって本気でこんなことを信じているはずはない。
「――そこで、わが社はアメリカのホーカス・ポーカス社と技術提携を行い、日本の企業風土に適した独自の電子メールソフトを開発いたしました。たとえば、こんな機能があります」
 今宮氏がわけのわからない絵が描いてあるアイコンをクリックすると、新規メールの作成画面が現れた。余談だが、アイコンの図案というのは、まず十個に八個はわけがわからない。ソフトによっては、そんなわけのわからないアイコンが数十個も画面を占領していて、判じ物のようになっているやつがある。下手くそなプリンタの絵なんか描かずに、「印」とだけ書いたアイコンを作ったほうがよっぽどわかりやすいと思うのだがどうか。漢字というのは、それ自身がもともとアイコンなのだ。
「――画面のここにご注目ください」
 マウスカーソルが指しているところを見ると、葵の御紋があった。私は立場上このソフトのデモをすでに見ているので、そろそろ腹痛でも起こして会議室から立ち去ろうかという気になってきた。
「これが、わが社の電子メールが誇る“YH機能”、すなわち“よきにはからえ機能”です」
 今宮氏は満面の笑みを浮かべて説明を続ける。
「この機能は、自分より下位の者に対してメールを出すときにしか使えないようになっています。どういう機能かと申しますと、この“YHモード”で出した指示は、それがうまく行ったときは命令者の名前で、失敗したときには被命令者の名前で、命令者の直属上司に自動的に報告書が送られます」
 おお、とあちこちで声が上がった。見わたすと、感心しているのは中間管理職ばかりで、若いやつはみな憮然としている。それにしても、うまく行ったかどうかを誰がどうやって判断するのだろう?
「さらに、こんな機能もございます」
 あらかじめ作ってあったメールが画面に現れた。内容は稟議書になっている。
「この稟議書の内容を承認なさった場合、このアイコンをクリックしますと――」
 承認欄に朱色の印鑑がポンっという音と共に現れた。こんなのなら、ほかのソフトでも見たことがある。「そして、この印鑑のここにカーソルを合わせてゆっくりとドラッグしてみましょう――」
 印鑑が回転しはじめた。印鑑が逆さまになったところで、今宮氏はマウスから指を離した。
「このように、逆さ判を押すことができます。これは申し上げるまでもなく、“しかたないから次の人に回すけれども、私はこの件に反対だよ”という意思表示でございますね。この“HK機能”、すなわち“ハンコ回転機能”は、回転角度の微妙な調整も可能ですから、くだらない稟議に対する複雑な心理をユーザフレンドリーなインタフェースで表現できます」
 頭が痛くなってきた。このあとさらに、“WK(私は聞いてない)機能”、“SS(シークレット・セクハラ)機能”、“MH(村八分)機能”、“GB(学閥)機能”、“RSM(連帯責任は無責任)機能”、“DKU(出る杭を打つ)機能”、“SSKS(シャンシャン株主総会)機能”、“HDKK(報告だけの経営会議)機能”、“MGKDT(窓際も顔だけ立てる)機能”、“TSSHYGS(得意先の親類が社員にいた場合密かに優遇する)機能”、“TJJSTJIIJJSK(立場上自分だけが知っているつまらない情報を意図的に隠蔽して自分が重要な存在だと誇示する)機能”などなどが続くことになるのである。何度見ても赤面してしまうデモだが、今宮氏はプロに徹していて、彼の口から説明されると、なるほどいずれの機能も日本の企業に欠くべからざるものであり、ソフトウェア技術の粋を凝らした素晴らしい工夫であるかのように思えてもくるから不思議である。
「さて、最後にもうひとつ重要な機能をご紹介しましょう――」
 画面には、ほかの人から来たという想定の回覧文書が表示されている。
「このアイコンをクリックしますと――」画面中央にダイアログ・ボックスが現れた。


この文書を紛失したことにしますか?

[ OK ][キャンセル]



 おおおお、と社員たちはどよめいた。失笑が漏れるものと期待していた私の背筋を、冷たいものが這いのぼった。心底感嘆したようなどよめきだったからである。
「ここで“OK”を選んでいただきますと、この回覧文書は完全に消滅します。もちろん、誰が消したのかという痕跡はどこにも残りません。すでにこの文書を見た人のメールボックスからも、システム管理者用のログからも、跡形もなく抹消されます。どのみち、たいていの文書はろくろく中身も読まずに右から左に回してゆくだけですから、この“BF機能”、すなわち、“文書紛失機能”によって、ネットワークのトラフィックを大幅に低く抑えることができます。ピーター・ドラッカーは――」 今宮氏はここで初めて人名を口にした。やたら誰それ曰くと言わないところが、彼のプロたるところなのだろう。
「――企業、政府機関などのあらゆる活動について、“すでに行なっていなかったとして、いまこれをはじめるべきか”を常に問え、と繰り返し述べています。これはすなわち、文書に関して言えば、“この文書が存在しなかったとして、誰かが捜しはじめるだろうか”ということです。われわれがいくつかの会社で行なった実験によりますと、途中で消えてなくなっても誰も文句を言わない文書は、じつに全文書の64パーセントにのぼりました。しかも、そのうち72パーセントが“消えたことすら誰も気づかない”文書だったのです!」
 ほんまかいな、と私はなぜか関西弁で思ったが、うちの会社でその実験をやったらそんな数字は出ないと断言する自信はなかった。
「以上で、弊社が誇る電子メール“メンタル・メール”のご説明を終えさせていただきます。この製品が貴社のさらなるご発展のお役に立つことを願ってやみません」
 突然、社長が立ち上がって、大きな拍手をしはじめた。続いて専務、常務が立ち上がり、ヒラ取たちが椅子を蹴倒して立ち上がった。やがて大会議室は、初めてヘンデルのハレルヤ・コーラスを聴いたジョージ二世の宮廷のようなありさまになった。


 どっと疲れが出た私は席に戻ると、まずパソコンの電源を入れた。なにをしようというわけでもないのだが、とりあえず強迫的にスイッチを入れてしまうのだ。
 ふと妖しい気配を感じて振りむくと、パソコンにかじりついてなにやら懸命に仕事をしている同期の草井のうしろ姿があった。吉野屋で牛丼を食っているときのうしろ姿とまったく同じだった。
 草井はメンタル・メール導入のため、ここふた月ばかりどっぷりとこいつに浸りこんで機能や性能の評価をしている。彼の欠点は――いや、長所かもしれないのだが――どんなに使いにくい複雑怪奇なソフトやハードの操作にもあっというまに習熟してしまうため、普通人の忍耐力というものがまったく理解できないところなのだった。むしろ彼は、操作しにくい製品のほうに愛情を感じるらしい。メンタル・メールには(設計思想は別にしても)とくに理解しにくい点はないけれど、草井は珍しく気に入っているようだった。
 私は草井にうしろから歩み寄り、声をかけようとした――が、彼のようすにただならぬものを感じて、途中で足を止めた。
 草井の肩が小刻みに痙攣している。まるで鳴咽か笑いを堪えているかのようだ。
 見ると、草井はものすごいスピードでマウスを操作していた。その動きがあまりに高速かつ微妙なので、ちょっと見には痙攣しているとしか思えないのだった。
 そっと画面を覗きこむと、そこには“電子算盤”が表示されていた。
“電子算盤”というのは、メンタル・メールに標準添付されているソフトで、画面に表示される算盤の珠をマウスカーソルで弾いて計算をするという、“日本の企業文化を尊重した”ソフトである。たしかに思想の一貫性はある。
 草井は電子算盤の操作をすっかりわがものにしてしまっていた。目にも止まらぬスピードでマウスカーソルが画面上を走りまわり、算盤の珠が動きまわる。
 あっけに取られて見つめていると、ひとしきり計算を終えた草井は、電子算盤の珠の配置を見ながら、傍らに開いた別の表計算ソフトに計算結果をテンキーで打ち込んだ。
「――お、よう! 説明会終わったのか?」
 気配に気づいて振りむいた草井の、あまりにも屈託のない笑顔に、私の頬は引き攣った。
「……あ、ああ」
「そうか、いよいよ導入だな。いや、こいつはなかなかいいぜ。これを全員が使えば、生産性の向上まちがいなしだ!」
「……は、はは、そうだな、苦労の甲斐があったな」
 私は草井の肩を力なく叩くと、幽霊のような足取りで席に戻った。
 そのとき、卓上カレンダーの金髪女優の写真が、突如妻の顔になって言った。
「あなた、今夜遅いの?」
「いや、そろそろ終業だ。残業はしない」
「じゃ、早く帰ってらっしゃいよ。もうご飯できてるわよ」
「ああ、わかった」
 妻の顔が金髪女優に戻る。
「それでは部長、今日はこれで失礼させていただきます」
「うむ。お疲れさま」
 これから残業をするらしい同僚と部長に一礼し、私はゆっくりHMD(ヘッド・マウンテッド・ディスプレイ)を外して言った。「――ただいま」
 朝からパジャマを着たままの私は、ニューラル・センサーパッドを引きむしり、慌ただしくどてらを羽織ると、味噌汁と肉じゃがが湯気を立てている食卓についた。

(了)

['95年12月]



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