常套句


冬樹 蛉


 暗い、嵐の夜だった。
 おれはビルの街の滲んだ灯りに疲れた目を癒しながら、車軸を流すような雨の中、夜のハイウェイに愛車を駆っていた。ダダダダダと水飛沫が飛ぶ。
 苦虫を噛み潰したようなおれの顔がバックミラーに映っている。
(あいつが殺られるなんて……)
 おれたちの仕事に明日はない。涙隠して人を殺める。帰ればいいが帰らぬときは……。冥府魔道に生きるおれたちに人並みの暮しなど望むべくもないのだ。非情のライセンスを手にしたその日から、死して屍を拾う者もないことは覚悟の上である。
 だが、おれにもまだ人間らしい心が残っていたとでもいうのだろうか――ああ、またおれの心が乾く。
 あいつは、おれたちの組織でも腕利きと恐れられていた超A級のスナイパーだった。そんなあいつを、赤子の手をひねるように倒した謎の敵とはいったい――?
 あいつの華燭の典に呼ばれたときのことが、おれの脳裏を走馬灯のように駆けめぐった。海よりも深く山よりも高い両親の愛情を一身に受けて、一流女子大を優秀な成績で卒業したという新婦の花のようなあの日の笑顔――。その場がぱあっと明るくなるような花嫁の美しさに比べると、たしかにあいつは水もしたたるいい男とはお世辞にも言えなかった。はっきり言って、スタイルも悪かった。だが、その醜い身体の中には正義の血が隠されていたのを、無二の親友であるおれは知っている。
 変わり果てた姿で無言の帰宅をしたあいつの葬儀が、今日しめやかにとり行われた。まだこれからだというのに……。陽子さんのお腹にはあいつとの愛の結晶が宿っているというのに……。おれは断腸の思いだった。
 涙を拭うかのようなワイパーが悲しげな軋みをあげる。フロントグラスに滲む虹色の油膜の彼方に、あいつとの楽しかった日々が浮かび上がってくる。若かったあのころ……。なにも怖くなかった。連日連夜飲んで騒いでは、生硬な議論を闘わせた酒と薔薇の日々……。あのころは、此日や天気晴朗とくると必ず一瓢を携えて墨堤に遊んだものだった。
(――許さん!)
 おれは復讐を誓った。草の根を分けても捜し出して、このおれが息の根を止めてやる。あいつを倒すほどの腕前の持ち主だ。どこの誰かは知らなくとも、誰もがみな知っているにちがいない。
 おれは埠頭近くに並ぶ貸し倉庫のひとつに車をつけると、足音を忍ばせ二階のアジトへと鉄板階段を昇っていった。
「死ねっ!」
 扉の陰から人影がまろび出てきた。月明かりで匕首が鈍く光る。
 おれは手刀で匕首を叩き落とすと、扉に手をかけジャンプ、怪しい人影にうしろ蹴りをくれてやった。人影は階段を転げ落ちると思いきや、ましらのごとく手すりに飛びつき、空中でニ回転して見事に着地した。
「ちょこざいな小僧っ、名を、名をなのれっ!」
 問うて答える相手ではない。人影はそのまま脱兎のごとく、あやめもわかたぬ闇に溶けた。
「おのれ、逃したか……」
 おれのアジトを捜し当てるとは、敵の能力にも端倪すべからざるものがある。次にどんな奴を差し向けてくるか、刮目して待とう。
(――――!!)
 しまった。この煙は――!!
 おれはアジトに飛び込んだ。スチール机の下に隠した段ボール箱が燃え上がり、あたりに散乱した書類に燃え移った炎は、みるみる広がりはじめていた。
 即座に机をあきらめたおれは、奥の隠し部屋に通じるドアを蹴り倒した。
 紅蓮の炎が悪魔の舌のように襲いかかって来た。あやうく身をかわす。
「遅かったか――」
 世界征服を企む悪の秘密結社から奪ったマイクロフィルムが燃えている。
 おれは踵を返すと即座にアジトを捨て、愛車を発進させた。バックミラーに映った炎は、折りからの強風に煽られ、たちまち倉庫を包み込んでいった。
(こんどの敵は侮れないな……)
 おれは、なぜかダッシュボードのライターを使わず、愛用のジッポでダンヒルに火を点け、ゆっくりと鼻から煙を吐き出した。片方の鼻が詰まっていたので、助手席側にだけ煙が流れる。
 そのとき、おれは後頭部に冷たい金属の感触を覚えた。
「おっと、手荒な真似はしたくないんだよ――」
 マスク越しなのだろう。くぐもっただみ声が、含み笑いまじりに車内に響いた。
「――ほんもののマイクロフィルムのありかに案内してもらおうか」
 おれは、後部座席の男に向けて、ダンヒルを親指で弾き飛ばすと……


「――ううーむ。これって、SF?」
 吸い殻がてんこ盛りになった簡易応接コーナーの灰皿に、水性ボールペンをワイシャツの胸に差した編集者は、さらにもう一本吸い殻をねじこんだ。無風の応接コーナーに、吸い殻の山からつーーーっと一本、のろしのような煙が立ち昇る。傍らでは、青白い顔をして前髪を垂らし、ときどき音の悪い咳の発作に襲われる若者が、上目遣いに編集者の様子をうかがっている。
「もう少し読んでいただくと、SFだとおわかりいただけると思うんですが……」
「……うーん」
 編集者は持ち込み原稿の束をおもむろに二つに分けると、ばさばさと音を立てながら、しばらくものすごい速さで五枚めと十七枚めを交互に見比べていたが、やがて原稿をとんとんと揃えると、若者にマチ付き封筒ごと突き返して言った。
「どうもねえ……人間が書けてないんですよ、人間が」

(了)

['95年 8月]



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