読者からのお便り


冬樹 蛉


 こんにちわ。いつも『しょうせつべーた』をたのしくよんでいます。くがつごうで、ふくいまさたかせんせいがだんぴつをせんげんされたのには、しんそこびっくりするとどうじに、さもありなんともおもいました。ふくいせんせいのさくひんはわたしもだいすきですが、せんせいのさっかとしてのたちばやそのさくひんせかいのひょうげんほうほうには、ともするとおおくのひとのごかいをまねくてんがあるのではないかなと、まえからしんぱいはしていたのです。

 そこで、パーソナルなことをかくのはきがひけるのですが、こんかいのふくいせんせいのじけんには、こじんてきにもとてもかんがえさせられましたので、あえておたよりいたしました。

 よみにくいぶんしょうだなあ、とおもっておられることでしょう。でも、おゆるしください。じつは、わたしはちのうはまったくひとなみなのに、なぜかかんじだけがよめないし、かけないというハンディキャップをもっているのです。こどものころにかみなりにうたれていらい、こんなややこしいせいしんこうぞうになってしまったのです。

 わたしはSFがとてもすきで、SFをよくのせてくださるきしをたいへんたのしませていただいています。かんじがよめないのにSFなんてよめるのか、とおもわれるでしょうが、ボランティアのひとたちやうちのものにテキストデータにしてもらい、パソコンのテキストよみあげソフトでおとにしてよんでいます。それに、わたしは、えいごはなにふじゆうなくよめますので、おうべいのSFやえいごやくされたにほんのSFなら、まわりのひとのおせわになることなくよむことができるのです。

 さて、こんかいのふくいせんせいのじけんの、きんけつびょうきょうかいのかたがたのこうぎのないようは、たしかによくわかります。わたしも、こどものころから、ハンディキャップのためにいやなおもいをしてきました。いじわるなクラスメートたちが、わたしをからかうために、わざとかんじだけでわたしのわるくちをかいたメモをかいらんしたり、わたしのためにわざわざひらがなできゃくほんをつくるわけにはいかないというりゆうで、がくげいかいのげきにだしてもらえなかったりしました。こどもというのはざんこくなものです。どくしょかんそうぶんのかだいに「アルジャーノンにはなたばを」というSFがでたとき、よんだことのなかったわたしは、さいしょSFだときいておおよろこびしましたが、そのときから「○○は、チャーリー・ゴードンみたいだ」などと、くちさがないれんちゅうにからかわれるようになってしまい、このほんがきらいになったものでした(おとなになったいまでは、あいどくしょのひとつです)。

 いまでは、わたしのハンディキャップをしっているひとたちは、よほどしょうねのまがったひといがいは、ことさらにハンディキャップにつけこんだいじわるをしたりはしません。でも、わたしのことをしらないひとが、「こんなかんじもよめないのか」と、こころないことばをはいたりするときには、なれているとはいえ、とてもきずつきます。そんなひとには、できるだけ、「わたしはこういうハンディキャップをもっているのです」と、せつめいして、ごかいをとくようにしていますが、わたしのハンディキャップをしりながらも、わざとわたしがふかいになるようなことをするひとも、ほんのひとにぎりですがいることもたしかです。そんなひとたちにいやがらせをされてかなしくなったよるは、としょかんのほんも、しょてんでうられているほんも、しんぶんですら、みなわたしをからかっているかのようにおもえてくるのです。わたしもおとなですから、そんなことがあるわけがないことはよくわかっていますが、いちぶのひとがわたしをからかうことはじじつですし、わたしのこころのいたみも、またげんじつのものなのです。

 しかし、だからといって、わたしは、「かんじがかかれているほんは、ひらがなしかよめないハンディキャップをもっているひとへのさべつだ」と、さっかやしゅっぱんしゃにこうぎしようとはおもいません。わたしもかんじのべんりさはちしきとしてはよくりかいしています。わたしには、たしかに、こうぎをするせいとうなりゆうもけんりもありますが、わたしのためにかんじがつかえなくなったりしたら、わたしがかんじがよめないでこまるのとおなじように、こまるひとがたくさんでるとおもうからです。わたしはハンディキャップをもっているいがいは、まったくふつうの、ふんべつあるおとなです。わたしが、けんじょうしゃのかたがたをおもいやっていけないりゆうはなにもないでしょう? このかんがえがごうまんだとおっしゃるなら、それこそりっぱなさべつです。

 だから、もし、どなたかがこのぶんしょうをよんで(できれば、「どくしゃからのおたより」らんにとりあげていただければ、こんなにうれしいことはありません)、「こんなきのどくなひとがいるから、かんじをつかってはいけない」と、しゅっぱんしゃにこうぎなさろうとおっしゃるなら、おねがいですからやめてください。そのおこころだけうれしくちょうだいします。しかし、もし、あくいをもってわたしをからかおうとするひとがでてきたときには、そのときこそ、ぜひおうえんしてくださるよう、おねがいいたします。

 それでも、ひょっとしたら、わたしがこうぎしないのはえんりょをしているのだ、と、おもいやって、さっかやしゅっぱんしゃにこうぎをしてくださる、こころのやさしいかたもいらっしゃるかもしれません。そういうかたのおきもちを、わたしはとてもうれしくおもいます。そんなかたに、たのむからやめてくれ、と、いうことは、わたしにはとてもできないのです。

 ですから、もし、そんなやさしいかたがこうぎをなさったら、さっかのかたやしゅっぱんしゃのかたにおねがいします。そのかたのこうぎをききいれるかどうかを、よくかんがえてはんだんなさってください。というのは、ふくいせんせいや、きしのおたよりらんでごいけんをのべられたぶんぴつぎょうのかたがたのおっしゃることがじじつであるなら、ことによると、かんじをつかわなくなるしゅっぱんしゃがでないともかぎらないじょうきょうらしいからです。そんなことになっても、わたしはちっともうれしくありません。それはわたしにたいするおもいやりというよりも、たんなることなかれしゅぎいがいのなにものでもありません。「かんじをどんなふうにつかったら、わたしがきずつくかがわからないから、とにかくかんじをつかわないことにしておけばいいや」などというあんいなかんがえかただけは、くれぐれもなさらないでください。そんなこともはんだんできないひとが、ほんをかいたり、しゅっぱんしたりするというおしごとをなさるべきではありません。

 それでも、いくらちゅういをなさっても、うっかりわたしをきずつけるようなかんじのつかいかたをしてしまうこともあるかもしれません。しゅっぱんしゃのかたには、なるべくそういうことがないようには、おねがいしたいとおもいます。

 でも、さっかのかたは、ひょっとすると、あえてわたしをきずつけるようなかきかたをしないと、ごじぶんのせかいがこうちくできない、ごじぶんのかんがえがつたわらない、と、はんだんなさることもあるかもしれません。そのときは、どうぞ、そのようにかんじをつかってください。ただ、ごかいなさらないでほしいのは、わたしはけっしてそのようなかきかたをこころよくおもうわけでも、それをかいたかたをゆるすわけでもないのです。わたしじしんは、そのひょうげんをにくみますが、あえて、わたしをきずつけてでも、わたしにうらまれてでも、さっかとしてのそんざいをかけて、それがひつようだとはんだんなさったのなら、なすべきことをなさってください。そして、それをしゅっぱんなさるかたは、「こういうかんじのつかいかたはしないことになっています」などと、はれものにさわるようなルールをきかいてきにてきようするのではなく、それがひつようであるかどうかを、さっかのかたとよくはなしあってけつだんしてください。

 そうしてよにでたひょうげんは、それがぶんがくてきひつぜんであったのか、さっかのごいのひんこんだったのか、へんしゅうしゃのたいまんだったのかを、それをよむおおくのかたがはんだんしてくださることとおもいます。くりかえしますが、わたしこじんは、そのひょうげんをゆるしません。しかし、わたしも、しゃかいてきそんざいです。そのさくひんのそのひょうげんを、おおくのかたがおみとめになるのなら、こじんのすききらいとはべつに、そのさくひんのぶんみゃくにおけるそのひょうげんじたいはようにんせねばなりません。どのようなひょうげんがようにんされるかは、しゅっぱんしゃのかたがきめるのではなく、しゃかいがきめるのです。そして、どのようなひょうげんがいきのこるかに、そのしゃかいのちせいとひんかくがあらわれるものなのでしょう。

 あることばやひょうげんが、いやしいいみ、かなしいいみをもってしまうのは、しゃかいのなせるわざです。そのようなことばがそんざいすることじたいは、とてもかなしいことです。しかし、ふこうにしてかなしいいみをせおわされたことばに、しゃかいのなかであたらしいいのちをあたえてやるというのも、ことばをなりわいにするかたがたのやくめではないでしょうか?


「編集長、こんな投書が来てますが・・・・・・」
 若い編集者は、ちょっと困った顔で編集長の机の前に立ち、辞表でも提出するかのように、そっと机の上に封筒をすべらせた。
「ああ、それか――春山くんに言われて読んだよ」
「載せましょう。ほんとにこんな障害があるもんかどうか私にはよくわかりませんが、いたずらだとしても手が込んでて面白いですよ。お便り欄も活気づくでしょう」
「ねえ、君」編集長はおもむろに抽斗から一通の封書を取り出すと、辞令でも交付するかのように、両手で若い編集者に突きつけた。「なにも言わずに、これを読んでみてくれ」
 編集者は、その場で立ったままレポート用紙数枚の投書に目を走らせていたが、やがてゆっくりと投書を折り畳むときちんと封筒に収め、言われたとおり、なにも言わずに編集長に手渡した。
「どうするかね?」
「・・・・・・難しい問題ですね」
「そのとおり。難しい問題だ」編集長は煙草に火を点けた。「難しい問題というのは、軽々しく扱うべきではない――と、私は思うのだが」
「はあ、たしかに」
「君は新婚だね」
「はい」
「私は来年長男が受験だ」
「それはたいへんですね」
「では、いずれ、これらの投書は特集でも組むときに検討することにしないか?」
「そ、そうですね・・・・・・」
「それまでは私が預かっておこう」
「はい。よろしくお願いします」
 若い編集者は、とぼとぼと自席へ戻ると、小説ベータ新人賞の応募作品の山を取り崩しにかかった。なんのことやらわからない梗概と冒頭の五枚を二十秒でスキャンし“済”の箱に放り込んだところで、電話が鳴った。
「よお、本田か?」出張先の春山からだった。「あの投書、どうだった?」
「ああ、あれはいまひとつだな。第一、いたずらに決まっている。障害者の気持ちを弄んでいるふうに取れるな。いかん。あれはいかん」
「そうかぁ――? いや、おまえなら、乗ってくると思ったんだが・・・・・・」
「そんなことより、福井先生のインタビューはうまく行ったのか?」
「ああ、まあな。なんでも今後はプロレスに転向するそうだ。びっくりだよなあ。まあ、あの先生なら――」
「お疲れさま。じゃあな」

 その後、リングの福井雅貴は、当意即妙のマイク・パフォーマンスでたちまち人気者になった。彼が観客を罵倒すればするほど、彼の唾液と血しぶきが飛んでこない距離にいる観客は大喜びするのであった。
 小説ベータは、その冬休刊になった。
 そして、すべてひらがなと片仮名で書かれたあの手紙と、ことごとく漢字と絵文字だけで書かれていたもう一通の投書は、編集長の異動とともに行方不明になってしまったのである。

(了)

['94年12月]



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