或る老婆の大役


冬樹 蛉


 あなた――。
 わたくしは今、とても嬉しう思うてをります。
 わたくしが如き浅学菲才の者が、このやうな立派な式典の大役を仰せつかるなどとは、長生きはするものだと幸甚に存じてをるのですよ。よもやこの歳になつて無学な老婆にかかる誉れは巡つて参りますまいと思つてをりましたに、思へばわたくしもこの界隈では馬齢のみは徒に重ねてをりますゆゑ、かやうな年寄でも若い方々には古き習はしなどには通じてをらむと思はれるのでありませうか。
 いえいえ、実の処は、決して御近所の皆様がわたくしに信をお置きになつての事では御座居ますまい。生前のあなたの御人柄と、御國の為の御功労に優るとも劣らぬ御近所への御心遣ひが、あなたがお亡くなりになつて二十五年を経てもなほ、皆様方の敬愛の念となつて妻のわたくしに返つて来てをるのでありませう。勿体ないことで御座居ます。
 あなた――。
 さうとは申せ、わたくしのやうな世間不知の平凡な家庭婦人に、かやうな式典の大役を務め果せる事が叶ひませうや。御近所の皆様の御期待と御信頼が嬉しうも苦しうも感ぜられます。皆様はきつと御立派だつたあなたの妻を務めた女だといふ一事を以て、わたくしの人品をば甚だ買ひ被つていらつしやるに相違御座居ませぬ。
 あゝ、あなた――憶へておいででせうか。二丁目の坂本様の御宅にごろつきがやつてきた時の事で御座居ますよ。坂本様の御主人を國賊呼ばはりする、御近所中に響き渡る下卑た大声に暫し堪へて居らしたあなたは、やをら立ち上がるや床の間の日本刀を抜き放ち悠然と家をお出になると、やがて何事もなかつたかのやうに煙草屋に立寄つて帰つていらつしやいました。そして照れ臭げに武骨な笑顔を浮かべると「猫は追つぱらつた」とだけおつしやつた。抜身を提げた大男が着流しで煙草を買ひにやつて来たのですから、煙草屋の御主人はさぞや驚かれた事でせう。あなたは、まだ右手に握り締めたままの業物に漸く御気付きになると、目を丸くしたわたくしにわつはつはつはと御笑ひになりましたね。あの時のあなたの豪快な笑ひ声が今も忘れられないので御座居ます。あなた御自身が、坂本様の御主人の主義信条を必ずしも快く思つていらつしやらないのはわたくしも存じてをりましたけれども、だからこそなほさらに、あなたへの尊敬と思慕の念が増したもので御座居ます。この御方に嫁いでよかつたと、心の底から思つた事でした。
 あなたさへ御存命でいらつしやれば、このやうな式典の差配なども立派に御務めになり、益々御近所の尊敬をお集めになつた事でせうが、わたくしなど何かとんでもない粗相をしでかし、あなたの御名声にまで泥を塗る事になりはすまいかと、朝粥も喉を通らぬ始末なので御座居ます。
 と申しますのも、いくら世間不知のわたくしとは申せ、かかる式典に出没するといふ不埒な輩の事は、かうした冠婚葬祭の御経験豊かな方々から御伺ひしてをるからなので御座居ます。新聞の訃報などを頼りに現れては、遺族や御近所の方々の悲嘆と混乱に乗じ、御香典や金品を失敬するといふ外道の事を申してをるのです。
 わたくしとて此処に五十年も住んでをりますゆゑ、古顔の方々はよくよく存じ上げてをりますが、此処十年ばかりに越して居らしたやうな若い方々の御顔を悉く見知つてをるとはとても申せませぬ。同じアパートの隣人の死に十日も二十日も気付かなかつたなどといふ事件を新聞で読むにつけ、何といふ國になつたものだ、人情も地に堕ちたものかはと眉を顰めてをりましたこのわたくしですのに、あゝ、何と怠慢な事で御座居ませう。かような大役を務める次第になると知つてをりますれば、せめて近隣の一軒一軒に事前に御挨拶に伺ひ、新来の方々の御尊顔を拝しておくべきで御座居ました。さして物憶えのよいほうでは御座居ませぬが、さうした方々に一度でも御面識あらば、かかる外道も幾分かは付け入り難くなつた事でせうに――。後悔先に立たずとはよく申したもので御座居ます。こんな頼りなげなわたくしを、何卒御護り下さいますやう……。
 あつ――あなた、そちらから御覧になれますか。
 今、松木商店様の櫁の前に屯つてゐる三人の御婦人方に見憶へは御有りでせうか。どうもわたくしには心当りがないので御座居ます。さう思つて見れば見るほど、何やらこの御近所には相応しからぬ卑しげな口元をしてゐるやうにも見受けられはいたしませぬか――。
――あゝ、何といふ事でせう。
 きつと朝からかような外道出没の心配ばかりして居りますゆゑに、少しく見憶えの薄い方々を見やる度に、わたくしのほうこそ卑しい疑ひの籠つた厭な目付きをしてをるに相違御座居ませぬ。嘆かはしい限りに御座居ます。あの方々もきつとわたくしが御顔を存じ上げぬだけで、御多忙の中、衷心より故人を悼んで駆けつけて下さつた御知合ひなのやも知れませぬ。さやうに相違御座居ません。
 あなた――。わたくしがかかる疑心暗鬼に囚はれては直に取り乱すやうな人品の卑しい女である事に、きつと忸怩たる思ひを抱いていらつしやるでせうね。それはあなたの御生前より、わたくしも重々察してをつたので御座居ます。あなたのやうな仁義礼智信の権化が如き立派な御方の事ゆゑ、世事の常識や機微など何も判らぬわたくしにさぞや苛立つてをられた事も御座居ましたでせうに、あなたはこんなわたくしに手ひとつ上げずに添うて下さつたうへに、今はの際には「有難う」と一言おつしやつて下さつた。わたくしはそれだけで満足で御座居ました。
 そちらから御覧になれませうか。あそこに居るのが、猛志で御座居ますよ。あなたに似たのでせう、肩幅の広い雲つくやうな大男に育つてしまひました事ですよ。今でこそあゝして立派な背広なぞを着て御近所の方々にもきちんと御挨拶してをりますけれど、それはもう、手の着けられぬ腕白坊主に御座居ました。何しろ長男で御座居ますし、父親の居らぬ家庭の子だからと人様に指される事だけはないやうにと、人一倍厳しう育てて参つたのです。一度など、御近所の気の弱い子の玩具を卑劣な手段で取上げて参つた時などは、あなたの遺影の前に一晩中正座をさせては、我が子の余りの情なさに涙を流しながらも、女だてらにあなたの竹刀で何度も叩いたもので御座居ました。無能な者や弱い者は御許しになつても、卑劣な者にだけは、あなたはいつも容赦なき鉄槌を下される方で御座居ましたから――。
 あなたの御加護が大きかつたのでせう。さやうな腕白坊主も、殊にメリケン何やらといふ西洋の球技やら格闘技やら判然とせぬものに邁進するやうになつてからは、親のわたくしが見ても惚れぼれとするやうな快男子に成長し、勿体なくも京都の帝國大学にまで進ませていただいたもので御座居ます。一流の商社に勤めてをりまして、あなたも居られた独逸に屡々参りますのですよ。まだ舞姫を連れ返りをるやうな事はいつかな御座居ませぬけれども……。さういふ事には、とんと疎い朴念仁なので御座居ます。あなたのやうで御座居ますね。
 その隣に神妙な顔をして立つてをるのが、賢司に御座居ます。何やらハイカラな縁無し眼鏡を掛けてをりますゆゑ、赤子の頃しか御存じないあなたは、お見たがへになるやも知れませぬね。誰に似たのやら病弱な子で、何度も医者へ背負うて参つたものですが、やはり智慧だけはあなたに似たのでせう、東京の帝國大学の研究所に居りまして、滅多に親にも顔を見せぬほどに学究に勤しんでをる事ですよ。無学なわたくしには、もはやあの子のやつてをる事の片鱗すら理解できぬので御座居ますが、何でも那之魔人とやらを研究してをるさうで、あの子が面倒臭げに語りますには、それはそれは天眼鏡でも見えぬくらゐの小さな魔人で、将来電算機やら医術やら、凡そ万事に役立つ重要な研究なのださうで御座居ます。魔人が電算機や医術に如何な繋がりがあるのやら、わたくしに御尋ねにならないで下さいましね。
 をやをや、わたくしとした事が、こんな大役を御務めしてゐる最中だと申しますに、息子の自慢話ばかりしてをりますね。そろそろ御出棺の時間で御座居ますわ。どうやら何事もなく御役を全うできさうな気配に御座居ます。
 あらつ。
 あなた!
 やはり先程の三人組で御座居ますわ!
 今、高崎様の奥様が御棺の方を見やつてをられる間に、御香典の袋を鷲掴みにして――。
 あなた、あなた――!
 どうすればよろしいのでせう!? 非力なわたくしなどにはとても――。
 猛志! 猛志! 何をしてゐるのですか! あの外道どもを、おまへの怪力で取り押さへなさい!
 あゝ、参列の方々は、みな目を閉じて御棺に掌を合はせていらつしやるわ――さては、これが外道どもの常套手段なので御座居ますね。あゝ、もどかしいつたら、ありやしない! 外道どもが逃げて行きますわ!
 何といふ事でせう……。
 やはりわたくしのような粗忽者に、かような式典の大役が務まる筈がなかつたので御座居ます。最後の最後に外道に付け入られ、皆様の御心の籠つた御香典を奪はれてしまふなどとは――。
 あなた。
 あなた――?
 もうよい?
 もうよいとおつしやるのですか?
 あとは猛志達に任せておけと仰せですか?
――さうですか。あなたがさうおつしやるのなら……。さうですね。かような式典の大役を仰せつかつたとはいへ、所詮わたくしには如何ともし難い事では御座居ますね。御許しいただけませうか。
 あゝ、あなたと若き日を過ごした我が家が――先の阪神大震災(それは怖ろしう御座居ましたのですよ)にも耐へた我が家が、どんどん小さくなつて参りますわ……。あの萌葱色の門柱ももう見納めなのですね。
 もう思ひ残す事は御座居ません。
 参りませうか。
 わたくしは果報者で御座居ます。
 あちらへまで、かうしてあなたが御案内下さるのですから――。

(了)

 現代語の歴史的仮名遣い表記は、基本的には丸谷才一式表記に準じていますが、送り仮名の送りかたと漢字の選択については、作者の好みと作中の効果を尊重しています。)

['96年 3月/『ある老婆の大役』改題]



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