彗星の見えた夜


冬樹 蛉


 ほんとうは彗星を見に行くはずだった。
 いつまでも消えない「手術中」のランプを見上げながら、啓司は何度もそう思った。
 だけど、手術室の中で闘っているお爺ちゃんのことを思うと、彗星のことなどを気にしている自分がとてつもなく冷たい人間みたいで、やましさが募ってくる。星のすばらしさを教えてくれたのは、ほかならぬお爺ちゃんじゃないか。
 お爺ちゃんは、むかし理科の先生をしていた。
 啓司の父が科学になんの興味も示さないのが寂しかったのかもしれない。孫の啓司には、小さいころから星や虫の本を見せては、いろんな話をしてくれた。
 宇宙がどんなに広くて人間がどんなにちっぽけか、生きものがどんなに不思議ですばらしくお互いに繋がりあって生きているか、そして、その広さや不思議さやすばらしさを、ちっぽけで、だけど血の通った人間たちが、どんな愉快な失敗をし、どんな鋭い着想を得て、どんな苦労の末に見出してきたのかを、どんな作りものの物語よりも活きいきと話してくれた。
 最先端の科学や技術にはいまひとつ弱かったが、啓司が雑誌で読みかじったことを得意になって説明すると、お爺ちゃんはたちどころにその原理や仕組みを掴み、今度は啓司が思いもよらなかった角度から質問をしてくるのだった。お爺ちゃんの質問には、けっしてハイカラな(とお爺ちゃんはよく言う)横文字は出てこない。それどころか、小学生にだってわかる言葉で、ゆっくりと悪戯っぽい目で啓司を試すように訊いてくる。お爺ちゃんの訥々とした質問は、啓司の生半可な知識、いや、知識だと思っていたものを、いつもことごとく粉砕した。
 そんなお爺ちゃんのおかげだろう。いつしか啓司は、知らないということを、それほど恥だとは思わなくなっていた。知らないことなら知ればいい。ただ、それだけの些細なことだ。お爺ちゃんと話していると、なにかを“知らなかったこと”よりも、知ったつもりで“不思議に思わなかったこと”こそが、いちばん恥ずかしく思えてくるのだった。
 なんの論文も書かなかったし、定年まで小さな中学校の一教諭のままだったけれど、啓司はお爺ちゃんを、立派なほんとうの科学者だと思っている。
 そのお爺ちゃんが倒れたという知らせが入ったのは、六時間目の物理の時間だった。先生は教室の扉の陰で自分の財布から無造作に高額紙幣を抜き出し、啓司の手の中に押し込んだ。
「市民病院だ。タクシーは呼んでもらってある。すぐ行け」とだけ言った。「……あの先生のことだ。きっと大丈夫だよ」
 そうだった。この先生も啓司のお爺ちゃんの教え子なのだ。
 動転していた啓司は、礼も言わずぴょこりと頭だけ下げると、鞄を持って校門へと走った――。
「……まだか」
 父が缶コーヒーを三本抱えて、売店から戻ってきた。啓司と母に無言で手渡す。固くて冷たい病院の長椅子にうつむき加減に腰掛けた啓司と父母。慌ただしく車輪付きのストレッチャーを転がす音が遠くに聞こえる暗い廊下に、啓司と父が缶コーヒーをすする音だけがかわるがわる響く。
 やがて、啓司は黙って立ち上がった。
 脳の手術だ。時間がかかるにちがいない。すっかりうろたえて憔悴している母、「だめかもしれない」と顔に出しながらも母を力づけている父――このままこのふたりと何時間も座っていたのでは神経がまいってしまう。お爺ちゃんだって、あとでやつれたぼくらを見たくはないだろう。
 啓司は一般外来の待合ホールの片隅に居場所を見つけると、観るともなくテレビを見ていた。
 ふとあたりを見回す。誰もテレビなんか観ていなかった。テレビのほうを見ている人も、まるでその向こうがわにあるなにかを見ているような気のない目をしている。
 病院では、誰もが自分や家族のことで精一杯だ。ちょうど駅のように、いろんな病気や怪我や人生を抱えたひとりひとりが、ただ物理的にすれちがうだけの場所なのだ。
 松葉杖をついた若者がいる。スキーで骨でも折ったのか、いや、家計を助けるためのアルバイト中に暴走族にでも引っかけられたのか、いや、それともその暴走族のほうか――。
 ひとりで薬をもらいに来ている老婆がいる。家には長年苦楽を共にした夫がささやかな夕食を作って待っていて、言葉少なにいたわってくれるのだろうか。それとも、猫と小さなテレビだけの待つアパートの古い卓袱台でお茶漬けでも食べたあと、あの薬を飲むのだろうか――。
 小さな女の子が元気に走り回っている。弟か妹が生まれるのを父と一緒に待っているのだろうか。いや、ろくろく顔も見たこともない“お爺さん”か“お婆さん”と呼ばれている人が危ないというので、ファミコンから引き剥がされて連れてこられたのだろうか――。それとも、じつは彼女自身がついに小学校の門をくぐることもないだろうほどの病に冒されているのだろうか……。
 世界が容赦なく頭の中に流れ込んできて、啓司の心の許容量を超えた。自分の想像力のヴォリュームがどんどん大きくなり、やがて耳を聾さんばかりの大音響になる。
 啓司は感覚を遮断した。まわりを見ていては、余計に神経が疲れてくる。病院にテレビが置いてある理由がわかった気がした。
「ケイちゃん?」
 聞きおぼえのある声に振りむくと、制服姿の美加が立っていた。
「美加――彗星……行かなかったのか?」
「お爺ちゃん、気になったから……。みんなには山へ行ってもらったんだ」
「どうして、ここが――? あ、そか、ギュードンに訊いたんだな」
「お爺ちゃん、具合は?」
「まだ手術中」
「そう……」
「ギュードンは? 来るって?」
「佐竹くんの一件があるから来られないって。お爺ちゃんによろしく言っておいてくれ、だって」
「ギュードンらしい気の遣いかただよな……」
 身内でもない人間までがいっぺんに病院に押し寄せると、なんだか自分が死神にでもなったような気がするもんだな――前の教頭先生が倒れたとき、ギュードンがそう言っていたのを啓司は思い出した。「非科学的な物理教師だなあ」とからかった憶えがある。きっといまごろ、自宅で着替えもせずにやきもきしているにちがいない。
“ギュードン”というのは、なにかというとニュートンの話を引き合いに出し、同じくらい頻繁に職員室で牛丼ばかり食べていることからついたあだ名である。もちろん、独身だ。
「ニュートン、ニュートンとバカにするけどな――」誰もバカになんかしておらず、それどころか悩まされているくらいなのに、彼は中学生相手にいつも言うのである。「べつにニュートンはまちがっていたわけじゃないんだぞ。それどころか、細かいことを言わなければ、いまだにドンピシャリなんだ。ニュートンの生きていた時代のことを考えてみろ。これはものすごいことなんだぞ!」
 一度、その“細かいこと”というのがどういうことなのか、うっかり質問してしまったやつがいた。
 そのときのギュードンときたら、耳まで割けそうな笑みをゆっくりと浮かべると、黒板にエレベータやロケットの図を描き殴り、チョークを何本も折って真っ白になっては、往年の夢の遊眠社のように教壇狭しと跳ね回って喋り続けたものだ。背広というのは、どう考えても熱心な教師向きの服装ではない。
 水星の近日点がどうのこうのという話になったとき、唐突にチャイムが鳴った。彼は自分が中学校の教師だということをすっかり忘れているようだった。振り子の等時性がテストに出るのか出ないのかを気にしていた生徒にはいい迷惑だったが、啓司はそんなギュードンが好きだった。お爺ちゃんと同じ目をしていたからだ。
「みんな、彗星、見えるといいね」
「山のほうなら見えると思うよ。ここらでは、スモッグと街の灯りで難しいけどね」
 いまごろ、みんなは山へ向かっているだろう。
 クラスメイトの慎二の兄がキャンピングカーを持っていて、今夜、山へ彗星を見に行こうということになっていたのだ。あまり人数が多くても困るので、啓司や美加が“スジモノ”だと目を着けている者にだけこっそり声をかけたのだが、慎二兄弟を除いて全部で五人しか集まらなかった。上等かもしれない。
「あ、いけね。おれの天体望遠鏡も持ってくことになってたんだっけ?」
「人数が減ったからいいんじゃない? シンもでかいの持ってるし、肉眼でだって見えるって言うよ。オペラグラスでもオーケーだろうって」
「そうだね……」
「あ――」美加が指差す。
 テレビに当の彗星が現れたのだった。
 どこで撮影したものだろう。絵に描いたような彗星が画面いっぱいに映っている。いまここで表に出て行っても見えないものが、テレビにははっきりと映っているのが、なんだかとても妙な感じだった。
 あのときの交通事故みたいだ、と啓司は思った。
 啓司が六年生のときのことだった。下校中の小学生五人が、学校のすぐ近くで、こともあろうに横断歩道に突っ込んできたフェアレディに次々と跳ねられ、二人が死んだ。ドライバーは若葉マークの女性で、動転してアクセルとブレーキをまちがえたということだった。
 帰宅すると近所が騒がしいので、啓司は母やお爺ちゃんになにごとかを訊ねたのだが、「学校の近くで事故があったらしい」ということ以外、まったくわからない。
 そのうち、近所の奥さん連中の噂が伝わってきた――「飲酒運転らしい」「子供は全員助からなかった」「ヒールがアクセルに引っかかったそうだ」「新米ドライバーだった」「子供も信号無視をしていた」「姑に不妊をなじられた女性が、子供憎さに突っ込んだ」「一人は即死だったが、ほかの子はかすり傷ですんだ」などなど、ほんの徒歩十五分ほどのところで起こったことなのに、噂を聞けば聞くほど、なにが起こったのかわからなくなってくるのだ。
 結局、啓司が事件の全貌を掴むのには、ローカル局の「夕焼けニュースデスク」を待たねばならなかった。
 自分の通っている小学校の門がテレビに映っているのは、とても不思議な気がした。テレビの中の校門のほうがほんものっぽく見えたからだ。そのほんものっぽさが、啓司にはとてつもなく嘘くさいものにも思えた。あの校門は、少なくとも自分の知っている校門じゃない。桜の舞い散る中、美加と並んでお爺ちゃんに入学記念の写真を撮ってもらった校門じゃない。鉄扉のレールの溝に、桜の花びらと一緒にアメリカシロヒトリの幼虫が潰れてぐちゃぐちゃになっていた、あの校門じゃない――。
 その事件以来、啓司はふたつのものを信じなくなった。噂とテレビだ。だが、そのどちらにも、啓司はいっそう気を配るようになっていた。信じてはいけない。しかし、知らなくてはいけない――啓司は、この日から、真にお爺ちゃんと同じ道を歩みはじめたのだった。
 いまテレビに映っている彗星は、きっと絶好のロケーションを選び、高性能の機材を用いて撮影したものだろう。ある程度は光量やエッジをエンハンスしたりといったデジタル・エフェクトをかけてあるかもしれない。いずれにせよ、「彗星とはこんなふうに見えるにちがいないものだ」という視聴者の先入観に、映像のほうで媚びているかのような気がしてならないのだった。
 啓司は立ち上がると言った。「屋上へ行ってみよう。手術もまだまだかかるだろう」
「え? でも、たぶん見えないよ。曇ってるし、望遠鏡もないし」
「曇ってるのはいつものことだよ。肉眼でも見えるんだろう? 見えなきゃ見えないでもいいじゃないか」
「……うん、そうだね」

 もうすっかり暗くなった空には、月と金星、北極星だけがうすぼんやりと光っていた。
「やっぱり、だめみたいね」
 今晩彗星が見えるはずの位置を正確に見上げて、美加が言った。
「待ってみよう」
「……そうね。一瞬でも見えれば儲けものだもんね」
 星ぼしを遮っているものが雲ではなくスモッグであることを、しばしば夜空を見上げる啓司はよく知っていた。そしてまた、啓司はそんなことくらい百も承知だと、美加も知っていた。
 ふたりは病院の屋上に膝を抱えて座り込むと、西の空を黙って見上げ続けた。
 雲が流れてゆくようすは、月を見ていればわかった。
 だが、いくら雲が流れても、オリオン座の一部がかすかに現れただけで、空きチャンネル色どころか、壊れたテレビの画面色の空には、光る天体の数が増える気配はいっこうになかった。
「……寒くなってきたね」
 美加が言ったとき、カシャン……と、なにか金属がぶつかる音がした。
 暗さに慣れた啓司たちの目が、金網のフェンスにしがみついている黄色いカーディガンの少年と、母親らしい女性を捉えた。
「お母さん、見える?」
 少年に問われた母親は、目を細めて暗い空をあちこち見回すのだが、悲しいかな、まるで見当ちがいの方角を捜していた。少年はといえば、なぜか彗星探索はすっかり母親に任せて、じっと月の方角を見上げている。
「……見えないわねえ」
「そっかあ。やっぱりだめかあ。このへんからじゃ、やっぱり無理なのかなあ……」
「さ、風邪引くといけないから、これくらいにしましょう」
「……うん」
 幼い声と体格からすると小学校の一、二年生くらいだろうか。
 母親に手を曳かれてエレベータのほうへ向かう少年の探るような足取りに、啓司と美加はぽかんと口をあけて顔を見合わせた。
 少年は目が見えないのだ。
 いや、月を見上げていたことからすると、明るさくらいはかすかに感じることができるのかもしれない。いずれにせよ、この灯火とスモッグの中で彗星を見ることなどできるはずがなかった。
 呆気に取られた啓司たちが帰ってゆくふたりを目で追っていると、少年は見えない目で名残惜しげに空を振り仰いで、なにげなく言った。
「また次に来るとき、きっと見られるよね」
 それがどういう意味だったのかはわからない。
――また次に来るとき、きっと見られるよね
 それはたとえば、広場で遊んでいる子供たちが、別れ際に「じゃ、またあしたね」と言うのにも似た、屈託のない確信に満ちた言葉だった。
 少年は、あの彗星が次にやってくるのは二万年後だということを知らないのだろうか。それとも、また母親と病院の屋上に来るとき見られるかもしれないという意味だったのだろうか。それとも――。
 また次に来るとき――。
 啓司はしばし愕然と空を見上げていたが、やおら立ち上がるとフェンスに跳びつき、街の夜景を見下ろした。美加も啓司に続く。
 あの夜景の中に――。
 あの夜景の中に、啓司も美加も、松葉杖の若者も、薬をもらいにきた老婆も、駆け回っていた少女も、そして、あの目の不自由な少年も帰ってゆくのだ。あのひとつひとつの窓の灯りのむこうに、百年足らずの寿命しかないちっぽけな人間が、それぞれの喜びや悲しみを抱えて暮らしている。
 二万年……。
 二万年後にも、やっぱりあの夜景はあるのだろうか。軌道上の居住ステーションに、月面のドームに、テラフォームされた火星の平原に、ことによると別の恒星系に、あの夜景はあるのだろうか――いや――
 啓司のあらゆる知識が、そんなことは絵空事だと囁きかけてきた。地球は――人間はそれどころではないところまで来ていると……。だが、人間があと一世紀も保つまいなどとは、啓司はまだまだ考えたくはなかった。
 また次に来るとき――。
 そうだ。また次に来るとき、ぼくらの誰かが、きっとここで――どこかで――あの彗星を見るのだ。
 啓司はいま、二万年の時の流れを見下ろしているのだった。
「……彗星、見えなくてもいいかもね」美加がぽつりと言った。
 美加も啓司と同じものを見ているにちがいなかった。
 ふたりは一度顔を見合わせたきり、見えない彗星を、それぞれにいつまでもじっと見下ろし続けた。
 どんよりと濁った空のむこうでは、いま二万年に一度の来訪者が、啓司たちに手を振っているのだろう。ニュートンの言うとおりに、また来るよ、と。
 そして、あの少年は胸を張って答えるのだ。
 きっと見られるよね――と。

(了)

['96年 4月]



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