東海道戦争1995


冬樹 蛉


 今度当選した天皇が戦争をやめるというので、三千万の赤子は泡を食った。
 そもそも東日本の経済が破綻を免れているのは、ひとえに軍需産業のおかげであって、たとえどれほど戦況が悪化しようとも、まさか戦争をやめようというやつが天皇になるなどとは、主権が存するらしい国民自身、床屋政談の冗談くらいにしか考えていなかった。
 なるほど、今上天皇が選挙運動中そういうことをほざいていたかのような気がすると主張する者も、何人かいるにはいた。が、比較的記憶力に優れた彼らですら、十日前の夕餉の味噌汁が蜆だったか大根だったか問われるほうがまだ自信を持って答えることができるという程度であった。
 だいたい選挙の公約なんぞというものは、「やっしょー、まかしょー」だの「ででれこでん」だの「はぁーあ、すっちゃらぼっこいめけそぺそらりょん」だのといった意味不明の合いの手か、電器製品の段ボール箱に入っている発泡スチロールや“ぷちぷち”程度のものだというのが健全な成人の認識である。“公約違反罪”なんてものはないのだから、選挙運動中に誰がどんな嘘をわめこうが、立ち小便のほうがよほど重大な犯罪なのであった。
 とまれ、いかに健全な成人が常識を振りかざそうが、女性が立ち小便で罰金を食らおうが、天皇が「公約どおり戦争をやめる」と言い出したのは、厳然たる事実であるらしかった。
 偶然テレビで天皇の施政方針演説を垣間見た少数の帝都民は、「は?」と一瞬マルセル・マルソーのように声を上げ箸を止めたが、てっきりドラマの一シーンかバラエティー番組のおちゃらけだと思い、98パーセントがすぐさまチャンネルを換えてしまった。
 しかし、そういうことがたび重なり、さすがに東日本スポーツのトップを巨大な「!」や「?」に飾られた天皇の顔写真が飾るようになると、ようやくにして、荒唐無稽な公約を淡々と語る天皇の姿が、息切れしたジャック・マイヨールのように人々の忘却の深淵から浮上してきたのであった。

「何度も申し上げているとおり、朕は公約にしたがって西日本との戦争をやめるつもりです」
 なんとなく迫力のない話しかたをする天皇である。だが、下品な野次にも動じず穏やかに語るさまは、彼の決意の固さを感じさせた。
 帝都議会場は騒然となった。先日から何度も騒然となっており、今日も騒然となるのは五度目なのだが、天皇が同じことを繰り返し言っているにもかかわらず、なぜか帝都議会の議員たちはいま初めてけしからぬ言葉を聞いたかのように、繰り返し騒然となるのだった。それはあたかも、繰り返し白雪姫の名を答える魔法の鏡に繰り返し同じ質問を浴びせる、女裝趣味のフランケンシュタインのようであった。
「われわれは五十年も戦争を続けておるのだ。経済はもとより、国民生活のすべてが戦争の継続を前提に組み立てられている。こう申し上げては失礼だが、“ぽっと出”の天皇に青臭い公約とやらを馬鹿正直に掲げられても、片腹痛いというものですぞ」
「そうだ、そうだあ!」
「われわれのいままでの継戦努力をなんだと思ってるんだ!」
「議会の権威を示さなきゃだめだ!」
 天皇の立場は非常に弱い。法律上は行政に於いても強大な権力を与えられてはいるはずなのだが、議会を怒らせてまで強権を行使するだけの信念を持った者が久しく天皇になっていないため、すっかり議会になめられているのである。
 それも道理で、都政・国政の最高責任者たる天皇を、東日本の選民である東京都民が直接投票で選出するようになってから、天皇選挙の投票率は2パーセントを上回ったことがない。どうせなにもしないのだ、誰がなっても同じことである。
 あまりに投票率が低いものだから、面白がって“組織票”を集めては、とんでもないやつを天皇にしようというゲームすら行われていた。実際、雑誌でよく目にするというだけで天皇になってしまった漫画家もいたし、本人は政治にかかわったつもりがないのに、知らぬまに担ぎ出されて気がついたら天皇になっていたという獣医もいた。なんの手ちがいかどこからも正式な通知が来なかったため、自分が天皇だということをついに知らなかった天皇もいたくらいである。
 まあ、ときにこうした呆れた事態にはなったものの、さすがに都民にも常識のかけらというものがあり、だいたいはそこそこの人物が当たり障りなく天皇になり、当たり障りなく任期を全うするのが常であった。むろん、存在感などほとんどない。
 よって、東日本の国政は都議会の思うがままなのである。都議会の思うがままであるなら、それはとりもなおさず都民・国民の思うがままであるはずだと、そこそこ優秀な小学生なら思っていた。もっと優秀な小学生は、現実のありかたを鋭く批判しては、現実を変える気のない大人たちに褒められて喜んでいた。さらに優秀な小学生は、いじめ殺されるか、わけのわからぬ宗教に走って出家した。そして、適応能力に優れた大部分の凡庸な小学生は、虚実のカオスを泳ぎ回るための触角と水掻きを幼い心の中に発達させていった。
 野次や怒号の波がひとしきり過ぎたと見るや、天皇はやっぱり穏やかに言った。
「そこまでおっしゃるならお尋ねいたしますが、朕が戦争をやめるという公約を掲げて出馬したときに、あなたがたはなぜ戦争継続を公約に掲げて対抗しようとなさらなかったのですか? あなたがたが天皇になることを妨げる法律はありません。ただ議員を辞職なさるだけでよいのです。なぜ、あなたがたのどなたかが出馬なさらなかったのか、朕は非常に理解に苦しんでおります」
 一瞬、バツの悪そうな空気が都議会場に流れ、咳きさえもがぴたりとやんだ。先代の天皇が湯水のように金をつぎ込んで建てた都庁舎は、東日本では最新の制震設計と防火・防音設備を誇っている。が、なぜか遠くのほうから間の抜けた豆腐屋のラッパが聞こえてきたような気がした。
「詭弁だ!」
「われわれは、あくまで都議会議員として都民の意思を代行するのが務めだ。おいそれと天皇選に出馬することは、都民の信託を裏切ることになる」
「論点をそらすな!」
「議会の権威を示さなきゃだめだ!」
 今日も都議会は六度目に騒然となった。

「ねえ、おじいちゃん。戦争が終わったらどうなるの?」
 来年は幼稚園でいちばんの年長組になるという自覚があるのか、最近の麻耶は少し背伸びして見せたがる。
「ほぉ、麻耶もそんなことを心配するようになったかね。お姉さんになったのぉ」
 機械油の匂いのするおじいちゃんの掌が、麻耶のおかっぱ頭にやさしく乗ってきた。
 おじいちゃんがこうするときは髪の毛が汚れそうでちょっといやだったけれど、麻耶はおじいちゃんが大好きだった。顔を見るたび麻耶のことを叱ってばかりいるお母さんよりずっと好きだ。翔太くんより好きかもしれない。お父さんより好きかどうかはよく憶えてないからわからない。お母さんはお父さんのことをいつも悪く言ってばかりいるから、もしかしたらお父さんは麻耶と似ている人なのかもしれない……などと思いはじめる年頃の麻耶だった。
「戦争が終わったら、おじいちゃんは困るなあ……」
「どうして? おじいちゃん、戦争好きなの?」
 おじいちゃんは寂しそうに笑った。おじいちゃんは、どうしていつも寂しそうな目をしているのだろう。おばあちゃんが病気で死んじゃってから、おじいちゃんはとても疲れているように見える。
「うちの工場で作っているのはね、戦争の道具の部品なんだ。それから、ほら――」
 おじいちゃんは油で汚れた箱から、ちょっとひしゃげたメダルのようなものを取り出すと、胼胝だらけの掌に乗せた。
「これ、誰の顔?」
「零戦の英雄、久保山愛都だよ。若いお姉ちゃんたちに人気があるんだ。これがたくさん売れたら、おじいちゃんのところにも仕事がいっぱい来て、お金もたくさんもらえるんだよ」
「ふーん」
 そういえば、テレビで見たことがある。不潔なくらい目をきらきら輝かせて、はきはきと喋るお兄ちゃんだ。そのへんに歩いているお兄ちゃんたちとは全然ちがう。もっとも、そんなにたくさんお兄ちゃんがそのへんを歩いていたりはしないけれど……。
「じゃあ、戦争が終わっちゃったら、お金もらえないの?」
「まあ、そうだね」おじいちゃんは、顎で倉庫のほうを示した。「それどころか、もう作っちゃったメダルの分だけ、うちは大損だよ」
 べつに戦争が終わったってお姉ちゃんたちに売ればいいのに、と麻耶は思ったが、難しい話になりそうなので、さりげなく話題を変えることにした。
「ねえ、おじいちゃん」お姉さんぶりはそんなには続かない。麻耶はおじいちゃんにしなだれかかって言った。「……麻耶、ほしいものがあるんだけど」
「おや、またかい?」
 甘やかすのはよくないとおじいちゃんも思ってはいる。だが、娘の彰子は父親役もこなそうと意識するがあまり、孫に厳しく接しすぎるのだ。おじいちゃんは、いわば母親役なのだった。
「で、なにがほしいんだね?」
「自転車――翔太くんも買ってもらったんだよ」
 そういえば、このあいだ酒井さんちの翔太くんが、迷彩色の自転車で麻耶を誘いにきたっけ。子供用の自転車に前照灯カバーまでついているのには複雑な気持ちになったものだ。夜乗り回すわけでもなかろうに……。
「そうか、翔太くんたちと遊びに行くのに、麻耶も自転車がないと困るなあ」
「うん」“翔太くんたち”じゃないよ。“翔太くん”と遊びに行くのに困るんだよ。
「よし、買ってあげよう。ただし、来月このメダルのお金が入ってからだ。そのかわり、ちゃんとお母さんのお手伝いもするんだよ」
「うんっ」
 戦争が終わらないといいなあ、と麻耶は思った。

「何度同じことを言えばよろしいのですか!!」
 右利きの天皇は、左手で思いきりテーブルを叩いた。
 が、利き腕でないためなんとなく迫力に欠ける音だった。右手は痛々しく包帯でぐるぐる巻きにされている。先日、書籍を装って郵送されてきた爆発物のために、すんでのところで命を落としかけたのだ。
「どうしてもご理解が得られないのであれば、朕も天皇としての権力を行使せざるを得ません。明日にでも、朕が西日本大統領に講和を申し入れます。よろしいですね?」
 じつのところ、西日本大統領は以前から戦争をやめたがっていた。東日本と戦争と続けているのは、西日本にとっては、いわば“おつきあい”以上のなにものでもなかったのだから、いつでもやめる用意があったのである。
 五十年前の七月、西日本は大日本帝国に叛旗を翻して独立し、あっさりアメリカと単独講和条約を締結した。「ミカドがなんぼのもんやねん」というのが革命の合言葉であった。やがて、東日本から大量の亡命者が西日本に流入、東日本の国力はガタ落ちになった。
 連合国側も日本との戦争は終わったも同然と考え、その後もあえて東日本にとどめを刺すようなことはしなかった。そんなことをすれば、めきめき経済力をつけてきた西日本との外交に支障をきたすやもしれぬからである。
 国力に差がついてくると、東日本はますます戦争をやめるわけにいかなくなってきた。いまさら西日本に併合でもされた日には、進んだ暮らしをしている西日本の連中にどんな扱いを受けるかわかったものではない――と、東日本人は勝手に妄想を膨らませていった。納豆も食えないようなガサツな大阪商人に馬鹿にされるくらいなら、鬼畜米英に蹂躪されるほうがまだましだと思っていたのである。外国人に馬鹿にされるぶんには屁とも思わないが、同じ民族に馬鹿にされることには耐えられないという妙な国民性には、西も東もないのであった。
 現在の西日本にしてみれば、東日本を一気に叩き潰すことなどわけのないことだった。しかし、そもそも東日本と袂を分かったのは、太平洋戦争をさっさとやめてしまうためだけだったのであり、とっくのむかしに主目的が果たされたいまとなっては、東日本と本気で戦争を続ける意味などなくなっているのである。
「いつまでも意地張っとらんと、さっさとやめたらどないや?」と、西日本大統領は外出先からたまに東日本の天皇に電話を入れる。「ま、考えといてんか。さあて、次のホールはバーディーで決めたるでえ! ほな、よろしゅう」
 西日本大統領のだみ声を思い出して、天皇はため息をついた。さきほどテーブルを叩いた左手がじーんと痺れてきて、ますますアホらしさを募らせる。
 西日本からの情報が入らない東日本国民は、お互い血みどろの総力戦を続けていると思い込んでいる。西日本が“本土”に攻め込んでこないのは、こちらの“近代兵器”を恐れているからだと、おめでたくも信じ込んでいる。そのじつ、西日本は東日本のことを“厄介な宗教団体”くらいにしか思っていないのである。
「そんなことは許さん!」
 ひときわ大声の議員が叫んだ。
「やつらも弱ってきているからこそ、講和をちらつかせたりしているのだ。もうひと息なのだ!」
「そうだ、いまこそやつらを叩くべきだ!」二番目に大声の議員が、我が意を得たりと立ち上がった。「先日も帝都軍の偵察機が、名古屋市上空で敵のレーザー兵器を見事にかいくぐって帰還している。報告によれば、照準はめちゃくちゃだったそうだ。やつらの技術もたいしたことはないのだ!」
「すると、名古屋駅前の新型レーダーと思われる漏斗型の建造物は――」と、縁なし眼鏡の議員。
「そうだ、おそらく機能しておらん」二番目に大声の議員は、なぜか胸を張る。
「ついでに言えば、京都駅前のICBMも、ただの張りぼてだという信頼すべき情報もある」
 おお、とあちこちで声があがる。
 天皇は目を剥いた。
 都議会議員ともなれば、西日本のテレビ放送にも十分触れているはずである。どこをどう解釈したら、こういうふうになるのだ!?
「西日本を叩け!」
「機は熟した!」
「いよいよ、例の兵器を使うときだ!」
「そういうわけなのです、陛下」いちばん大声の議員は不敵な笑みを浮かべると、出入口を固めていた黒服の男たちに目配せした。「ここで陛下の不信任案を提出したりしては、また選挙ということになり、貴重な時間を失うばかりです。しばらくのあいだ、ラッパの稽古かミジンコの研究でもしていていただきましょうか」
 虚空から湧いて出たかのような屈強な男たちが、すでに天皇の腕をがっちりと封じていた。
「こんなことをして、ただですむと思うのですか!? 朕は、国民によって選ばれた天皇ですぞ!」
「そのとおり。ですから、陛下には天皇のままでいていただかなくてはなりません――」大声議員は冷ややかに言った。「わが国民は、いかなる理由があろうと、一度決めたこと、いや、決まったことが覆るのを好みませんからな」
 天皇は大声議員をじっと見据えると、かすかに口元を歪めた。
「……朕もたしかにそう思う」

 1995年8月15日、新宿上空で原子爆弾が炸裂、東日本の国家中枢は瞬時にして跡形もなく消滅したため、自動的に即日終戦となった。

「ひどいもんやなあ……」
 爆心地を訪れた西日本軍兵士は眉をひそめた。
「ここまでやる必要あったんかいな」
「とうとう連中が毒ガスの使用に踏み切りおるらしいちゅうのを諜報部が掴んだからやそうや。あればっかりは、なんぼヒガシ製でも被害が大きいからなあ。しゃあないやろ」
「しゃあないかあ? それにしてもなあ……核兵器ちゅうのは――こないになるもんなんか……」
 兵士が驚くのも無理はない。実戦で使用された核兵器は、これが人類史上初めてなのである。
 町工場かなにかの跡なのだろうか。瓦礫を縫って流れる溶けた金属の小川が涙の形に固まっている。飴でできた墓標のようにねじ曲がった工作機械が、西陽に長細い影を曳いて静かに佇んでいる。
「おい、見てみぃ」
 ぽっかりと焼け残った灰色の石塀の前で、兵士たちは歩みを止めた。
 それは小さな自転車に乗った子供だった。子供のころ縁日でせがんだ走馬灯のひとこまのようだ。
 いまにもこちらへ向かって走って来そうな、笑い声が聞こえてきそうなシルエットが、核爆発の強烈な熱線でくっきりと塀に焼き付いていた。かすかにかすかに判別できる着衣や髪型からすると、どうやら女の子らしい。
 切り紙細工の名人がものしたかのような活きいきとした影絵に時間を忘れて見入っていた兵士たちは、しわがれた声をかけられてようやく我に返った。
「ひどいもんじゃ」
 兵士たちが振り向くと、襤褸を纏った老人が地面から生えていた。性別もさだかでない。ひん曲がった金属棒を杖にして立っている姿は、できの悪い盆栽のようだ。
「ひどいもんやな」
 とくに返す言葉も思いつかず、兵士はとりあえず繰り返した。そして、誰に尋ねるともなく言った。
「誰のせいやろな、こんな――」
「誰のせい……か。わしらは戦争なんぞ早う終わりゃええと思っとったんじゃ」
 老人の目は、なにかを捜すように、紫色に染まった空をしばらく泳いでいた。
 やがて、いまはもうなにもない――いや、もとからなにもなかったのかもしれぬ千代田区のほうを眺めて、ぽつりと言った。
「そりゃあ、やっぱり天皇陛下のせいじゃろう」

(了)

['95年 7月/'96年10月一部改稿]



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