霊性・差し迫ったとき


 私たちには夢があります。それが実現するのは不可能に近いと思っていてもです。

 そして、差し迫ったように感じる望みがあります。

 その望みは、自分の、また家族の、幸せや喜びにつながるものだと信じています。

 私たちの関心事と言えば、日々の暮らしの中で起きてくるさまざまな出来事や、それらにたいする自分の感情からくる反応なのです。

 怒りや、不満や、不安や、心配や・・・・。

 人間関係であったり、金銭にかかわるものや健康にかかわるものであったりします。

 それは、目に見えるもの、具体的なもの・・・・。

 みなそうです。

 目に見えるものに望みを置いているのですから。


 さて、そこに「宗教」や「信仰」や「信心」が入ってくればどうなるでしょうか。

 心に抱いている夢や望みが具体的になるように、

 神社でとか、寺でとか、教会とかで神に仏に、その実現を願い、祈り求めます。

 ある特定の場所に行かなければ、その願いは聞き入れてもらえないかのように・・。


 私たちは、ふだんの暮らしの中で神や仏を意識しないで生活しているはずです。

 ひとりで悩み、ひとりで苦しみ、ひとりで悲しみ・・・。

 ですから、何かのっぴきならぬ事でも起きれば、

 大きな心配ごとや、深く重い不安にとらわれれば、

 あわてて、神だの仏だのということになるわけです。

 つまり、暮らしの外に、神や仏はあって、

 言いかえれば、自分の存在の外に、神や仏を見つけようとするわけです。


 では、キリスト教の場合はどうなのでしょうか。

 キリスト教では、暮らしの外に神を見いだそうとはしません。

 自分の暮らしの中に神を見いだします。

 言いかえれば、自分の存在と共に、神はいつも共におられるのです。


 しかし、そう言われても、

 仕事のときや、家事のときや、教会奉仕のときであっても、

 忙しいとき、とても忙しいとき、

 神がいなかったように、その忙しさの中で過ごしてしまうことがあります。


 キリスト教では、時間や、目に見えるものに、心や身体を持って行かれそうになったなら、

 そく、静まることを勧めます。

 とりあえず、何事も止めて、心を落ち着かせ、静まり、

 自分の中に神を見つけるように勧めるわけです。

 そして聖書を開き、その言葉を味わうのです。


 何を悠長なことを・・・・と、思われるでしょうね、

 この忙しい現代にあって、1秒を争う時代なのに何をのんびりしたことを言っている・・・。


 なぜかと言えば、

 人生というものは、私だけの人生ではなく、

 「神と私の人生」であると考えるからなのです。


 心を静めるとは。

 心の深いところにあるものを、それが何だか分からなくとも、

 分からずとも触れたいと思っている存在に、心を向けることなのです。


 バイブル・聖書は、そのすべてを語っています。

 人間の奥深く隠れた事柄まで明らかにしているからなのです。

 つまり、聖書の言葉は、万物を人間を造られた「神の言葉」そのものだと考えます。


 「聖書はすべての神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」

 (新約聖書・テモテへの第2の手紙3章16節・新共同訳)


 神の言葉を味わうということは、

 この世の調子に流されず、

 私たちが、神の言葉によって整えられ、まっすぐな生活をしていくことができるようになるためなのです。


北白川 スー

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Wrote up: August 30 2006.