霊性・「あるとき」と「ないとき」


 関西ではお馴染みのコマーシャル・シーンに、「あるとき」と「ないとき」・・・というものがあります。

 食卓いっぱいに大盛りに盛られた好みの食べ物が目の前にあったら、空腹であっても食べる前から気持ちも大きくなりますね、満たされたという感覚でしょうか。


 「あるとき」とは、心が満たされて底抜けに明るく・・・幸せ〜〜・・・。

 「ないとき」とは、あの元気はどこへ行ってしまったのでしょうか、喜びもなく、暗く沈んでいる・・・暗〜〜・・。


 それは「心の触れ合い?」のあるときとないときの違いなのかもしれません。

 「ないとき」は、心は孤独感でいっぱいでしょう。

 「あるとき」とは、ひとりぼっちではなく、心の通いあう相手がいるときではないでしょうか。


 また「あるとき」と「ないとき」の違いは次のように言えるかもしれません。


 今のことでせいいっぱいなときと、希望に満ちた明日に向かって生きて行こうとしているときとの違いだとも言えます。


 人は、今日のうちに済んでしまったことを、すでに過去のものとなったことでも、

 先ほどのことのようにあれやこれやと心を痛めます。

 済んでしまったことに心をうばわれ、

 それが高じて、まだ来ぬことにも気をまどわせ、わずらうのです。

 心の中は不安や怒りでいっぱいです。

 喜びとか感謝とか平安という状態はどこかへ行ってしまっています。

 つまり、不安で心はいっぱいでも、心の中はカラッポなのです。

 つまり「ないとき」です。


 では、「あるとき」は。

 先に、心の触れ合いがあるときと表現しましたが、

 私たちは日々の暮らしを何気なく・・・、

 つまり、はっきりした意図とか存在感とかビジョンとかモチベーションとか言うものを抱いて生きていることは、まず少ないでしょう。

 でも、何気なく生きていても、ある瞬間、瞬間に理解しがたい何かによって生かされているという感覚に気づくことがあると思います。

 それは、言いようのない喜びをともなったもののはずです。

 キリスト教では、そのような状態のことを、

 天地を万物を造られた神、「主」なる神と、自分との個人的な関係を意識した瞬間というふうに理解しています。

 何か、現実的なものをはるかに超えた存在から、

 語りかけられている、生かされている、手を差し伸べられている・・・。

 何か、「神」とでもいうべき至高の存在からの働きかけを意識するときでしょうか。

 それは何ものにも変えがたい喜びが、心にわき上がってくる瞬間なのです。

 それは、スピリチュアルなもの「霊的」なものと言えるものなのでしょう。


 私たちは、目に見えるものに関わりを意識して生きています。

 人間関係がその最たるものです。

 しかし、そこには様々に問題がおきてきます。

 喜びや悲しみ、苦しみやいきどおりや、分裂やいさかい・・・・。


 しかし目には見えなくても、その存在を意識するとき、

 人間の存在と共に在るものを、

 つまり、「主」なる神の働きを強く心に意識するとき、

 喜びと幸せを感じ取るときではないでしょうか。


 「わたしは、あなたとともにいる。」

 「わたしは、『わたしはある』という者である。」

 (旧約聖書・出エジプト記3章12節14節・新改訳)


北白川 スー

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Wrote up: August 21 2006.