霊性・どこかに忘れてきたもの


 どこかに置き忘れてきたもの、今は忘れてしまってはいるが、本来的に持ち合わせているものです。

 現代の暮らしは、たしかに便利になりました。

 その便利さの中で、あわただしく忙しい暮らしに慣れてしまった私たちです。

 しかし、私たちは、本来的なものを、どこかに置き忘れてきたようです。

 それが「霊性」というものです。

 ひとことで言いあらわすとすれば、「神と私との個人的な関係」と言えます。

 絶えず神に心を向け、いつも神の霊に満たされ、

 それによって、自然なかたちであふれ出てくる神への感謝と、

 神をほめたたえる心の動きと言えます。

 それは「神とともに生きる」ということです。

 神を感じとるということは、神と私たちとのかかわりにおいて、日常生活のなかに、神の働きを見いだし、その呼びかけに答えていくということなのです。

 しかし、

 現代の私たちにとって、日常生活の中で、神との交わりを、神を意識するということは、とても難しく理解しがたいことなのです。

 近代社会は合理的なものを重要視しますから、理性で割り切れないものには拒否反応を示すものなのです。


 では、信仰というものから神とのかかわりを見てみましょう。

 クリスチャンであっても、教会生活と日常生活とは別物だととらえている方もおられます。

 信仰というものを、わざとして行為として行動や活動としてとらえている方もおられます。

 からだを使った教会奉仕であったりボランティアであったり、奉仕の精神が信仰だと思っておられるわけです。

 しかし、

 本来的に言えば、信仰生活というものの中心には、父なる神が、主なるイエスが、聖霊なる神が、私たちとかかわりを持って存在しているはずです。

 神は「生きている者」の神であり、人間が生きている過程に人間の存在とともにあるものなのです。

 人間が「神とのかかわりにおいて生きる」それが霊性そのものなのです。

 キリストの教会は、まさしくその神への礼拝をささげるところなのです。


 どうでしょうか、多くの人は、教会にどのようなイメージを描いておられることでしょうか。

 心に病を負った人たちを受け入れるところでしょうか。

 暮らしに、人間関係につまづいた人たちを受け入れるところでしょうか。

 もちろん、決して教会はそのような人たちを拒絶するところではありません。

 しかし、いつしか日本の社会が、

 自分には、行く必要のないところ・・・、

 多くの人が、自分の生活にとって宗教や信仰というものが重要な役割を果たすものではないと思っているところから、

 教会とはそのような働きをするところだと勝手に決めつけてしまったのではないでしょうか。

 教会というところは、決してそのようなところではありません。


 「わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、

 わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。

 わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」

  (旧約聖書・イザヤ書56章7節・新改訳)

 教会は神を礼拝するところ、神に祈り、神に感謝し、神をたたえるところだということです。


 ですから、教会だけが特別なところ、教会だけが霊的なところ、信仰の場所だけではありません。

 信仰とは、日常生活の中で、毎日の生活の場で、

 神とのかかわりというものを、どのように意識し、

 また、神の語りかけに耳を傾け、

 すなわち、心の奥底に語りかける聖書の言葉に耳をかたむけ、その言葉の意味を理解し、その声に聞き従って行こうと・・・・、

 その意識のもとで、どのように生活を見直していくかということなのです。

 いうなれば、魂の食べ物と言っていいものです。

 つまり、知性と信仰とは両立するものだと言っていいのです。

 毎日の暮らしの中にも、喜びがあり悲しみがあり不安があるでしょう、

 しかし、神であられる「主」イエス・キリストとともにあるという意識があれば、

 それが自然な営みならば、そこに平安があるはずなのです。

 それが霊的な暮らしなのです。


 「主の名を呼ぶ者は、みな救われる。」

 (旧約聖書・ヨエル書2章22節・新改訳)


北白川 スー

表紙にもどります。

エッセイの部屋へもどります。


http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/
Wrote up: August 23 2006.