教会で語られる福音とは



教会で語られる福音とは、
神のひとり子イエス・キリストの十字架の死による贖いの業、
(あがないのわざ)という出来事以外の何ものでもないのです。

しかし、イエスの十字架の出来事の内容と意味とが、
常に説かれ解き明かされているとは限りません。
それが日本のキリスト教の教会の現実なのです。

教会が人間の所有と処理によって、
人間がさまざまに必要としているものを、提供するところが教会であるなら、
それは救いでも福音でもないのです。

何ものかを期待して、
それが経済や富にかかわることであっても、
健康にかかわることであっても、
地位や名誉やプライドにかかわることであっても、
人間どうしの和にかかわることであっても、
心の健康にかかわることであっても、
それらを求めて期待して教会にやって来るのだけれど、
それらを満たし、手に入れることが救いでも福音でもないのです。

「福音」とは、
 ” 神の恵み ” のほか何ものでもありません。
その神の恵みとは、
私たちが考える富や健康や人間同士の和というようなものでは決してありません。

神の恵みとは、
 ” 神の言葉が肉となった ” という出来事なのです。

・・神によってあらかじめ立てられていた契約によって・・
私たちにたいする神の約束が、人として、神のひとり子イエス・キリストという形となって、
私たちひとりひとりの前に現われたという出来事なのです。

人間が生まれながらに負っている罪によって、
それを ” 原罪 ” と言いますが、
心がにぶくなり暗くなり、さ迷っている私たち人間の前に、
私たちと同じ人間として、
その姿をあらわされた、” 神の恵み ” なのです。
イエス・キリストこそ神の恵みそのものなのです。

「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、
すべて信じる人に与えられるものである。
そこにはなんらの差別もない。
すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
彼らは、価なしに、神の恵みにより、
キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章22~24節・口語訳聖書)

日々を暮らすにも困るような、
生活を維持していくためのもろもろの条件や必要が満たされていない現実にあって、
自分自身を信頼し、自分の持てる知恵と能力とによって、
自分の可能性を活かして、そこから抜け出そうと、
自分に言い聞かせることが福音でも救いでもありません。
それらの知恵や技術を提供するところが教会ではありません。

私たち人間は、
私たちの人間的存在、人間的な存在である限り、
絶えず自分にたいして人にたいして神にたいして罪を犯しつづけているのです。

すべての人間は、その罪によって裁かれるのです・・・審判を受ける存在なのです。
つまり滅びへとひた走っているのです。

イエス・キリストが、私たちの罪深い人間的存在を、
すべてその身に負い、父なる神によって裁かれたのです。
それが十字架による死刑という出来事なのです。
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事なのです。
イエス・キリストの十字架の死による贖いの業という出来事なのです。

そして、葬られ、三日の後に死人のうちから復活されたという出来事は、
その出来事におけるイエス・キリストを信じる信仰によって、
死人からの復活という出来事は、
イエス・キリストを信じる信仰によって、
罪の状態からの復活という扱いを受けられるようになるということなのです。

イエス・キリストが、私たちが神から受けるはずの刑罰を、
代わって担ってくださったという出来事こそが、
福音の内容なのです。

キリストへの信仰とは、
人間の、混沌とした、混乱したその姿の原因を、
人間性の致命的な欠陥にまでさかのぼって突き止めようとするものなのです。
そして、そこからの脱出の方法を明らかにするものなのです。
イエス・キリストに聞き従うしか脱出の道はないのです。

「 口でイエスは主であると公に言い表し、
心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章9節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on July 06, 2009.