霊性という自分さがし


 「霊性」という言葉がキリスト教の中だけでなく、広く一般にまで脚光をあびてきたようです。

 霊性というものを、自己啓発とか自己開発のための方法のひとつのように捕らえている傾向にあるように見えます。

 今日を充実して生きるために、

 人生の方向づけと言えるものを見いだし、

 生き方というものを、どのようにして自分の人生を歩んで行くのか、

 その具体的な道筋を求めていくもの、

 そのために、人間としての自分の中に眠っている可能性を見いだし活かすもの・・・・。


 それが、人それぞれに持っている「霊性」を見いだし活かすことなのだと。

 その中心には「人生いかに生きるべきか」という命題があるはずです。


 「霊性」と言う言葉の意味や内容についても、キリスト教界と一般社会とでは解釈も向いている方向も異なるように見えます。

 どちらにせよ前向きで積極的なポジィティブなものです。

 自分を探り、まだ活かされていない可能性を見いだし深めたいのですから。


 キリスト教では、その可能性というものを、

 はっきり言って、人間と神との関係にあると見ます。


 神だ、宗教だ、信仰だ、キリスト教だと言えば、それだけで拒否反応をあらわす方も多いものですが、

 「神を信じない」と言う人であっても、

 人間なら、心の内になるもの、自分の中に隠れているもの、

 それが「神」と言い表すものでなくても、

 また「祈り」という言葉でなくても、

 それが何だか説明できなくても、

 心の深いところで、求めているもの、触れたいと思っているものがあるはずです。


 教会には実に多くの心に弱さを覚えておられる方や、暮らしに疲れた方や、人間関係につまづいてしまった方たちがやって来られます。

 そのような方たちは、教会に何を求めてやって来られるのでしょうか。

 胸につかえたもの、心にうずくまっているもろもろのものを吐き出すために、

 少しでも重荷をおろしたいからでしょうか、

 信徒や牧師をつかまえて、ここぞとばかりに胸につかえていたものを吐き出したつもりでも、心につかえたものは消え去ってはいません。

 それどころ新たなしこりが心の中に生まれていることに気づくはずです。

 わだかまりを吐き出したつもりでも自由にはほど遠いのです。


 なぜでしょうか。

 その方は、キリストの教会にやって来たものの、

 「神」を「キリスト」を見つけようとはしていないからです。

 また、「自分の本当の姿」というものをも見つけようとはしていないからです。

 つまり「霊性」が整っていないのです。

 「答を」を見いだすには、まず自分の本当の姿を見つけなければならないはずです。

 自分を知るには、心を整え静かに自分を見つめ直すこと、心を働かせることです。

 自分をコントロールして心を静めることから始まります。

 そうしてこそ、至高の存在にたいして、心の目、心の耳が開かれるのです。


 「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。」

  (旧約聖書・エレミヤ書1章5節・新共同訳)

 私たちの人生というものは、

 ただ私だけの人生でなく、神と共にある人生なのです。

 「わたしは、あなたとともにいる。」

 「わたしは、『わたしはある』という者である。」

 (旧約聖書・出エジプト記3章12節14節・新改訳)


北白川 スー

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Wrote up: August 25 2006.