ストレスからの解放


 キリストへの信仰を持つということは、

 それは、すべてのストレスから解き放されたことを意味しています。

 つまり、心の平安を得たということです。

 信仰を持つまでに経験してきたすべてのストレスから解放され、

 また、信仰を持った後も、あらゆるストレスから解放されているのです。

 しかし、どういうわけか、

 日本のクリスチャンは、

 キリストへの信仰を持った後も、

 あえて新たなストレスを進んで背負うことをします。


 イエスは言われた。

 「 疲れた者、重荷を負う者は、

 だれでもわたしのもとに来なさい。

 休ませてあげよう。」

 (新約聖書・マタイによる福音書・11章28節・親共同訳聖書)


 聖書・バイブルは次のように語っているのですが。

 「 なぜなら、わたしたちは、

 人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、

 信仰によると考えるからです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章28節・新共同訳聖書)


 しかしながら、どうしてか、

 行為や行動によって信仰を全うしようとするクリスチャンの多いのが日本です。

 負わなくてもよい重荷を、再び負うことを選ぶのです。

 私たちは、自由の身になったはずなのに。


 「 そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、

 一人の正しい行為によって、

 すべての人が義とされて命を得ることになったのです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章18節・新共同訳聖書)


 イエス・キリストは、なぜ十字架に死なれたのでしょうか。

 私たちを罪の奴隷から解き放つためにその命を捧げられたはずです。


 「 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、

 キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、

 神はわたしたちに対する愛を示されました。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章8節・新共同訳聖書)


 豊かさや快適さや心地良さを求めて苦しんできたことからも、

 人間関係にともなうストレスからも解放されたはずです。

 さまざまな感情の起伏もなくなったはずです。

 それがキリストにある平安ではなかったのでしょうか。

 キリストの福音は、

 人間の罪を明らかにすることにあります。

 罪の性質が明らかにならなければ、

 罪の赦しもありませんし、生の方向転換もありません。

 なぜ、イエス・キリストは神から出て、

 人として、罪の世に生まれ来られたのでしようか。

 創造主なる神は、

 被造物としての人間の誤った、

 また、欲しいままな生のただ中に、

 その私たちのために、

 愛された神のひとり子を、

 救い主として立てられたのではないのですか。

 イエスはその命を私たちのためにささげてくださったのではないのですか。

 いま日本のクリスチャンに求められているのは、

 再びストレスを負うことをしないで、

 信仰を働かせることではないでしょうか・・・・。

 ”信仰を働かせる ”・・ことこそ、

 聖書の言うところの ”行ないの意味 ”であることを忘れないでください。

 行ないのない信仰はむなしいのです。


北白川 スー

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Wrote up on 03 June, 2012.