スピリチュアル・エクササイズ


 カトリックの教会では昔から信者の「霊性」を重んじて、「日々の霊操・スピリチュアル・エクササイズ」という「霊的」なトレーニングを奨励しています。

 キリスト教会の外におられる一般の方にとって「霊性」とか「霊的」という言葉は、あまり馴染みのないものですが、「精神性」とか「魂」とか「心」というふうに考えれば理解できると思います。

 日常の暮らしの経験から、日ごとの生活における「神の恵み・神によって導かれ、神によって生かされていること」に気がつくようにトレーニングしているわけです。

 私たちはただ単に一人で生きているのではありません。さまざまな人たちとの関わりの中で暮らしています。

 そのさまざまな人たちとの関わりの中では、いきどおりもあれば争いもあります。さらには、苦しみや悲しみ、喜びや幸せを感じるものです。

 現代日本の社会では、喜びや幸せよりも、争いやいきどおりのほうが多いかもしれません。

 そのような人間との関わりの中で起きてくる事柄を通して、

 「神の働き」を見いだし、その問いかけに、その呼びかけに応えていくことが「霊操」すなわちスピリチュアル・エクササイズなのです。


 「神の働き」と言わないまでも、現代日本に生きる私たちは、

 あまりの忙しさからか、「静まって振り返る」ということをどこかに置き忘れて来てしまったようです。

 忙しい現代人にとって「神からの語りかけがある」なんてもってのほかでしょう。

 しかし、「今の自分というものに問題意識を持つこと」は、自分を活かすこと、今日を充実して生きていくこと、なおさら、明日をよりよく生きていくことにつながるはずです。

 自分を振り返るにしても、何か基準となるものやガイドがなければ測ることはできません。

 その基準を自分に置くのではなく、「キリストなる神」に置くのがキリスト信仰なのです。

 日々の暮らしの中での経験を通して「キリストなる神」は、自分に何を伝えようとされているのかを知るには、

 静かな時間と場所を必要とします。

 それが「祈りの時」「祈りの場」なのです。

 「祈り」という時間と場を用いて、キリストからの語りかけを確かめ深めるのです。

 そしてその祈りに欠かせないのが聖書・バイブルです。

 聖書の言葉、すなわち「神の言葉」をもって黙想するものなのです。

 それが何よりも基本となるものなのです。


 私たちは一人で生きているのではなく、神はつねに暮らしのなかにかかわりを持たれています。

 神はいつも共におられるということに気付きますと、それは、「生かされている」という喜びと感謝という形になってあらわれてきます。

 この宇宙、この地球、この自然の中に私たちは生きています。

 いや、「生かされている」のです。

 調和に富んだこの素晴らしい自然を造られた方がおられると思えば、それはなにものにも変え難い喜びですし感謝です。


 現代の日本の社会は、「自分の思い通りに生きれば幸せになれる」というスローガンが、もっともすぐれたものとして受け入れられ、もてはやされています。

 しかし自分の思う通りに生きれば、そこに待っているのは混乱であることを、私たち自身が明らかにしているのではないでしょうか。

 「生かされている」という意識なくして感謝も平安はないはずです。

 「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」

 (旧約聖書・創世記1章31節・新共同訳)


 スピリチュアル・エクササイズ・「霊操」はカトリックの専売のように受けとめられているかもしれませんが、プロテスタントであってもおおいに学ぶべきものがあると思います。

 キリスト教の信徒でなくてもスピリチュアル・エクササイズには有意義な内容が含まれているのではないでしょうか。

 決してクリスチャンだけのものではないと思います。

 静かなひととき、心を静めて静かに自分をふり返ってみる・・・・。


北白川 スー

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Wrote up: September 04 2006.