キリスト教などに信仰しません



・・・クリスチャンになったなら・・・と過去形で書きましたが。
大抵の人は、とくに働き盛りの男性は、
何があっても自分はキリスト教になど入らないと思っているはずです。
キリストになんて信仰しない・・・・と。
宗教などしたら仕事にならない・・・・と。

何を好んで、うっとうしい宗教なんかに入るものか・・・と思っているはずてす。
あれはいけない、これはいけないと、自由のない、
不自由きわまりない宗教なんかに入るものかと。

日曜日には必ず教会に行かなければならないし、うっとうしい。
たまの日曜日、朝から寝ていたいよ。
それが普通の人の常識だとするのが一般的でしょう。

だれしも、キリスト教というものを知る機会や材料はそんなにあるわけではありません。
限られた断片的な情報から判断しているでしょう。
聞きかじった情報でしょうし、
出どころのはっきりしない情報もあるでしょう。

教会のさまざまな活動や、信徒さんの動きを、
ただぼんやりと外から見ているだけです。
だからそれがうっとうしく見えるのです。
しかたがないことなのです。

キリスト教のイメージが、本質的なことや原理的なことなどが、
あざやかに映し出されているのなら、そうでもないはずですから。

キリスト教や教会について部分的に見聞きすることから受けるイメージから、
それが禁欲的な道徳観や倫理観のように思えるからでしょうか、
酒はいけないタバコはいけない、ギャンブルはいけない、
あれはだめ、こうしてはいけない・・・・・と。
まして不倫なんてもってのほか。
・・・人は、それでは自由がまったく無いと言うでしょう。

だれしも、自分はなにものにも捕らわれたくないと思っています。

キリスト教的に言えば。
自分に栄光を帰そうと思っている人にとって、
神に栄光を帰すという意味はとうてい理解できないでしょう。

万物を創造された、人間をも造られた創造主なる神に、
栄光を返すことは、被造物として理にかなったことなのです。
作品は作者に栄光を返すために造られたのですから。

神に栄光を帰すことによって、
実は、自分に栄光が帰ってくるのだということが分かれば・・・、
と説明しても、なんのこっちゃと言われそうです。

キリスト教の信仰は、決して物質的な繁栄を約束したものではありません。
しかし、信仰による熱心さは、決して経済的な活動に対立するものではないのです。
むしろ、信仰者の内面に相互関係を生み出すものなのです。

神と人間との関係を考えてみましょう。
たとえて、まるや円、・・○・・サークルを考えていただきたい。
自分は、その円の中心にいるのか、
それとも円周のひとつの点に過ぎないのか、
さてどちらでしょう。

自分の位置の認識の仕方によって、ことは白くもなれば黒くにもなるのです。

イエス・キリストに出会うという経験は、
自分は、実はその「円」の円周のただひとつの点に過ぎないことを知るという経験なのです。

イエス・キリストを見上げるのか、
それとも、イエス・キリストに見守られている・・・・のか。
主なのか従なのか・・・・・。

今までは、自分は円の中心にいると思っていたのです。
すべてが自分というものを中心に存在し動いていると思っていたのです。

自分の意識というものは、実際に自分が見たもの聞いたものから作られてきます。
自分自身が、ものを見、聞き、触れ、感じているからです。

円の周囲のただひとつの点に過ぎないことを知るということは、
言いかえれば、人間は基本的に十分にものが見えず、
それゆえに愚かで弱い存在であることを認識することができるということです。

かりに人間が物事をよく見ることができ、かしこく、正しくよく物事の道理が分かるものであるとすれば、
現実にさまざまに直面し抱えている難題というものが説明できなくなります。
まずは人間とは弱く愚かしい存在なのだという認識に立つということ、
それは決して人間のみじめさを知るということではなく、
人間を、明るい希望へと導くことにつながるのです。

たいてい人は、自分の弱さや愚かさを知ったとき、
その事実に打ちのめされ立ち上がれなくなるものです。
だから弱さ愚かさを認めたくないのです。

しかし、自分は愚かで弱い存在だと思えば楽かもしれません。
まだ先がありますし、そこから抜け出すこともできます。
前方に希望もあるわけですから。

キリストの弟子パウロは、
コリントの信徒への手紙で次のように語っています。
「十字架のことばは、滅びにいたる人々には愚かであっても、
救いを受ける私たちには、神の力です。」

(新約聖書・コリントの信徒への第1の手紙・1章18節・新改訳聖書)

キリストへの信仰というものがたとえ愚かに見えても、
その信仰というものを明日への希望として抱いている人にとっては、
勇気と励ましになるのです。

人間が欲してやまない勇気も愛も希望も平安も、
空しい努力を重ねて自らが作り出すものではなく、
キリストによって与えられるものであることを知ったとき、
それがキリストとの出会いの始まりなのです。


北白川 スー

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Wrote up on October 29, 2015.