キリスト教の神・福音の神・救いの神



「神」という言葉には、実に多くの物事や考えが思い浮かびます。
人は意識しながら、また意識しないまでも、自分自身の信頼の対象として、
自分の感覚、見たり聞いたり触れたりして感じ取るものを支える、
自分のものの見方や考え方を支える根拠として、
自分の存在を支える枠組みを強く持っているものです。
それらが口から出る言葉として、また行為として表にあらわれるものなのです。
それらも、自分自身が思い描く神々なのです。

では、キリストの教会が言う、
また聖書・バイブルがあらわそうとしている神とはどのようなものなのでしょうか。

それを「福音の神」と言います。
「救いの神」とも言います。

救いの神・福音の神は、
神ご自身の言葉によって具体的にさし示された方法により、
見分け、とらえることにより、
わたしたちの心を開かしめ、理解し、言い表すことを求めておられます。
それが聖書・バイブルに言い表された言葉なのです。

この神とは、イエス・キリストの十字架の出来事において、ご自身をあらわされ、
ご自身について人間に語られ、
人間のあいだで、人間にたいして行為される神なのです。

救いの神・福音の神は、ご自身にほうから、
すべての人間の生や命にたいして、
あわれみをもってご自身の身を向けてくださり、
わたしたちにたいして常に新しくご自身を明らかにされ、
つねに新しく見いだされる、
今も生きて働いておられる神なのです。

救いの神・福音の神が、
わたしたちが描きまた考えだそうとする神々に勝るご自身の栄光を、
イエス・キリストの十字架の死による贖いの業(あがないのわざ)という、
究極の選択と決断と行為とによって、
わたしたちにたいして明らかにされたことによってのみ、
わたしたちは考え、また語ることができるのです。

しかし、わたしたちが常に判断を誤るのは、
イエス・キリストの十字架の死による贖いの業という出来事は、
決して人間の側からの提案でも要求でもないということなのです。

救いの神・福音の神への信仰を呼びおこさせ、
信仰にめざめさせるのは、
決して人間の能力ではないのです。

「神は、みこころのままに、
あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。
すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。」

(新約聖書・ピリピの信徒への手紙・2章13~14節・新改訳聖書)

福音の神・救いの神は、
人の心に触れ、そして働かれて、願いを与えられ、人を動かし用いられるのです。
決して個人的な願いをかなえてくださる神ではない。

神は霊なのです。

「ここでいう主とは、”霊 ”のことですが、
主の霊のおられるところには自由があります。」

(新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・3章17節・新共同訳聖書)

主の霊は、人がそれまで捕らえて離さなかったものから、
心の自由を失い捕らわれていたものから、
自分が頼りにしていたものから、その人を解きはなつのです。

福音の神、救いの神は、
人間の手によって形作られ、祭られ、仕えられるものではありません。

「何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。
すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。」

(新約聖書・使徒言行録・使徒の働き・17章25節・新共同訳聖書)

福音の神・救いの神は、生ける神なのです。
クリスチャンであっても無かっても、次のように問われなければなりません。
あなたには、イエス・キリストの十字架の出来事は、見えていますか?。
イエス・キリストの十字架の死による贖いの業という出来事を見ていますか。

多くのクリスチャンが信仰に疲れ傷つき悩んでいるのは、
イエス・キリストの十字架の出来事が見えていないからではありませんか。

現代社会の中で多くの人たちが苦しみ傷み悩んでいるのは、
イエス・キリストの十字架の死による贖いの業という出来事が見えていないからではありませんか。


北白川 スー

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Wrote up on June 11, 2007.