心の平安


 キリスト教の信仰の神髄が、

 キリスト教の信仰でなければ味わえない独特の良さが、

 イエス・キリストへの信仰による、

 心の平安にあるとするなら。

 心の平安とは、いったいどういう状態のことを言うのでしょうか。

 得たいと願っていた豊かさや地位や名誉や経済や評価や健康などを手に入れたことによるものなのでしょうか。

 それでは私たちの常々の暮らしの一部分と何一つとして変わりはありません。

 では、信仰による心の平安とは、どういうことなのでしょうか。

 聖書・バイブルは、最初の人間が創造主なる神に背いて、

 罪と定められ、楽園から追放され、

 地上を労苦してさ迷い歩かなければならなくなったと語っています。

 この神への背きの罪が、私たち人間の根本的な性質として、

 最初の人間に続く全ての人類の根本的な性質となったのです。

 それを”原罪・ゲンザイ”と言います。

 その原罪が、人の思いとなり、言葉となり、行為や行動となり、

 自分にたいして、人にたいして、神にたいして罪を犯し続けているのです。

 しかし、多くの人は、そうだとは気付いていません。

 だからキリスト教の布教が意味を持つものとなったのです。

 神への罪には必ず裁きのときが待っています。

 その神の裁きからの救いが、

 キリスト教の言うところの”救い”そのものなのです。

 罪の赦しなくして、つまり神との和解なくして、

 救いはやってはきません。

 その神との和解の出来事こそ、

 神のひとり子イエス・キリストが、

 十字架にかけられ罪人として、

 私たちの罪をその身に負って、

 私たちの罪を贖って(あがなって)、

 罪の代価をご自身の命を捧げることによって支払ってくださったのです。

 自分のためにその命を捧げてくださったイエス・キリストを受け入れることこそ、

 神との和解であり、神の恵みとしての、

 神の裁きからの救いなのです。


 「 口でイエスは主であると公に言い表し、

 心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、

 あなたは救われるからです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章9節・新共同訳聖書)


 神との和解を得て、救われたときにこそ、

 その結果として、心の平安がやってくるわけです。

 罪の性質の中にどっぷりと浸っている私たちは、

 何事においても、

 それが正しいか間違ってるかを判断します。

 良いか悪いか、

 自分にとって心地よいか悪いか・・・・。

 最初の人間が創造主なる神に背いて、

 取って食べると必ず死ぬから、

 取って食べてはいけないと命じられていた、

 禁断の果実・善悪の知識の木の実を、取って食べた結果として、

 私たち人間が、生まれながらに負っている性質なのです。

 これでは、心の平安は、いつまでたってもやっては来ません。

 心の平安とは、

 今そこにあるものすへてを、

 あるがままに受け取り、

 あるがままに受け入れ事実として認めることです。

 自分にとって心地よいか悪いかではありません。

 心地悪ければ、それはストレスとして自分を苦しめます。

 分析し、批判し、どちらか一方に考え方が偏るなら、

 それは、心の平安から遠いものになります。

 心の平安とは、何事も・良し・悪し、

 正しい・間違っている・という判断をしません。

 あるがままに事実として受け入れることにあります。

 エデンの園の中央には、

 ”命の木”と”善悪の知識の木”の二本の木がたっていました。

 最初の人間が、善悪の知識の木の実を取って食べていらい、

 忘れてしまった心の平安・・・・。

 自分の人生と、

 自分にかかわるすべての人たち・・・、

 とかく多くの人は、そのことで頭がいっぱいです。

 それがストレスの原因となり、心を苦しめているのです。

 なにごとにも気を留めないこと、

 あるがままに受け入れること、

 そこに、心の平安が隠されています。


 「 だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。

 あなたは、他人を裁きながら、

 実は自分自身を罪に定めている。

 あなたも人を裁いて、

 同じことをしているからです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・2章1節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on 06 June, 2012.