第一章 日本におけるコンピュータの発達

第一節 コンピュータとコンピュータ産業の誕生

 現在、日本は世界でも数少ない、高い国産コンピュータのシェアーをもつ国であるが、世界で初めての実用的なコンピュータができたのが1946年にペンシルバニア大学のエッカート(J.P.Eckert)とモークリ(J.Mauchly)が作ったENIACに対し、日本では1956年に完成した富士フイルムのFUJICとスタート時で約10年の開きがあった。

世界最初のコンピュータと言われるENIACは弾道計算をするために作られたもので、およそ18800本の真空管、1500個のリレー、70000個の抵抗といった膨大な数の部品を使用し、計算機に計算の手順を指示するためのスイッチが6000個も使われていた。

この様な機械に対し高橋秀俊は「当時のわれわれからみると、エニアックは、いささか現実離れのした機械であった。なにしろ日本ではラジオでも五球スーパーがようやく普及しはじめたころの話であるから、十進法で10桁の数をあらわすのに真空管を900本も使うなどという話を聞けば、アメリカという国の物量の力に、むしろあきれるというほうが先だった。とにかく、どこか違う世界のことのようで、なるほどたしかにそうやれば計算機ができるとはわかっても、とくにうらやしいとか、それに心をひかれるとかの思いはあまりしなかった。」(1)と書いている。

確かに高橋の言うとうりENIACは物量で完成させた面があるが、それだけでなく、やはり技術面でも優れたものを多くもっていた、特にその信頼性は特筆に値するものであった。ENIACの計算速度は、当時としては驚異的であったが、新しいプログラムを入れ替えるには多数のスイッチと配電盤のセットが必要であったため容易ではなかった。この欠点はフォン・ノイマン( von Neumann)が考えたといわれるプログラム内蔵方式により解決された。ノイマンはこの考えを1945年に発表し、EDVACを開発しはじめたが、実際に完成させたのは1949年イギリス、ケンブリッジ大学のウィルクス(M.V.Wilkes)らによって試作されたEDSACが初めてであった。

プログラム内蔵方式では、プログラムを電子的に記憶装置のなかに記憶させ、必要によりこれを読み出してプログラムを実行する。この方式により、プログラムの入れ替えが容易となった、現在ではこの方式をとっているコンピュータがほとんどである。EDSACが作られた翌年、1950年には世界最初の商用コンピュータUNIVAC―1が開発された。これはENIACを開発したエッカートとモークリがコンピュータを企業化するため設立したエッカート・モークリ・コントロール社が業績不振になったのを買収したレミントンランド社(Remington Rand Inc.)で開発され、統計調査局をはじめとしUSスティール、メトロポリタン生命保険会社、レミントンランド本社などに設置された。

この成功がコンピュータが産業として成り立った最初であった、またこのUNIVAC―1はそれまでの計算機としての機能だけでなく、鋼鉄製の磁気テープを備えておりデータ処理においてもつかえた。

さて、現在世界のコンピュータ市場の巨大企業IBM社はどうであったのだろうか。IBMは1944年にハーバード大学と共同で世界最初の電気機械式自動逐次制御計算機であるMARK―1を開発するなどを行っていた。しかし、当時コンピュータには商品化するほどの市場があるとは思わなかったのか、その商品化には力をいれていなかった。

レミントンランド社がUNIVAC―1を出したころIBMはすでにPCS市場で独占的な地位を確保しており、電子計算穿孔機械IBM604、605、607の市場は非常に好調であった。しかし、UNIVAC―1がPSCユーザーをとりはじめるとIBMもコンピュータの開発を急ぎ、1953年には科学用の大型機IBM701を原子力委員会へ納入している。またIBMは自社のPCSユーザーがコンピュータへ移行しやすいように入出力にパンチカード利用するようにしたりして、PCSにおける80パーセント以上のシェアーを武器にコンピュータ事業は急成長し1956年には、先駆者のスペリーランド社(1955年レミントンランドはSuperry Corporationと合併してSperry Rand Corporationとなった)を出荷台数で抜いた。

第二節 日本におけるコンピュータ開発の始り

日本においてはUNIVAC―1やIBM701、702のような真空管を利用した商用のコンピュータが作られることはなかった。しかし、基礎研究は1947年に大阪大学の城憲三を中心に開始され。1949年には富士フイルムの岡崎文次が研究に着手した。岡崎はレンズの設計に必要な光跡、反射率、屈折率などの膨大な計算を高速でおこなわすためにコンピュータ作りを始めた。このコンピュータは配線、調整に二、三名使っただけで殆ど独力で作りあげられた。使用した真空管は二極管が500本、その他の真空管が1200本であった。しかも周辺機器に至るまで手づくりであった。そうして、1956年に完成し、FUJICと呼ばれたこのコンピュータは、真空管式の常で動かすまでに時間がかかり、また水銀槽記憶装置の調整には手がかかったようだが、動きだしたらそれまでのリレー式の計算機とは桁違いの速度で、たいていの計算は数秒ですんだ。

このFUJICが日本最初のコンピュータになったが、当時もう一つコンピュータが作られつつあった。東京大学と東京芝浦電気の共同開発で1952年に着手したTAC(東大オートマティックコンピュータ)である。TACは東大の山下英男などが推進役となり東大では主にソフトウェア、実際の試作は東芝でおこなわれた。設計はEDSACにならったものに浮動小数点命令を付け加えたもので、EDSACのプログラムは少しの修正で走った。記憶装置はブラウン管の蛍光面にたまる電荷を利用したもので、16本のブラウン管で1024語記憶できた。

しかし、開発は非常に遅れ「動かざる電子計算機」などともよばれた。高橋秀俊が「計画はけっして順調には進まなかった。論理回路も、ブラウン管記憶装置も思ったように作動してくれなかった。結局それは、当初の設計にさいして、信頼性ということの重要さが十分に認識されていなかったことに帰着する」(2)と書いているがこの信頼性ということに関してはENIACの慎重さとは対象的だった。結局、TACが動き始めたのは1959年で、すでに先に述べたFUJICは勿論、電気試験所のトランジスタ機マークV、マークWやパラメトロンを素子とする実用機にすら先を越されてしまっていた。日本ではついに真空管式のコンピュータはこのFUJICとTACだけしか作られなかった。

日本で本格的にコンピュータの開発に取り組み始めたのは1955年である。この年、財団法人・電波技術協会に山下英男を委員長とする「電子計算機調査委員会」が設けられた。この委員会は、1962年に「電子工業振興臨時措置法」が制定され、翌年、その実行機関である社団法人・日本電子工業振興協会が設立されてから、同協会に引き継がれたが、日本の初期のコンピュータの開発に大きな影響を与えた。そして、当時この委員会では主に次の様なことが問題とされた。まず、真空管方式から出発するべきか、直接パラメトロンやトランジスタから始めるべきかということ。次に、入出力にパンチカードを使うか、それとも電信テープを使うか。そして、国策的レンタル代行機関を設置するべきかということがらであった。

結論は、一番目の問題については、真空管方式は飛ばして、新素子トランジスタ、パラメトロンから始めることになった。この決定には、なかなか開発が進まないTACの影響やアメリカとの10年近いギャップがトランジスタ方式から始めればアメリカとほぼ同じ出発点に立てるとの考えがあったようだ。

次の問題については、パンチカードが経済的に引き合わないということと、将来性に問題があるという考えから、電信テープを使うことになった。しかし、アメリカのIBM、レミントンランドといった主力メーカがPCS出身でコンピュータでパンチカードがつかえるというのをセールスポイントの一つにしており、また、コンピュータのユーザーがPCSのユーザーであることが多く、実際には無視できなくなった。そして、このパンチカードはこれだけTSSなどが進歩した現在でも使われ続けている。とはいえ、基本的には前世紀の遺物ともいえるパンチカードは使いにくく、またカードや装置自体高価でありコンピュータにとって特に利点はない。それに対して電信テープを利用することは現在の通信とコンピュータとの結合を見ても発想としては先見の明があった、合理性だけの面から見ればこの判断は正しかったといえよう。

第三の問題は「電子計算機調査委員会」の中でただ一人事務畑であった南澤宣郎の主張した事柄であった。南澤は著書に次の様に書いている、「最初筆者がいい出した時は、政府出資(民間との共同出資でもよい)による国策会社案であった。というのは、膨大な開発費をかけてコンピュータをつくっても、売れなければどしようもない。しかもIBMは豊富な自己資金によって、当時はレンタルのみで売っていた。わが国のメーカーはそんな資金的余裕もなく、レンタル機がいつ返却されるかわからない危険を負担する力もない そこでもしIBMに対抗して国産メーカーを育成し、国産機を普及させようというのであれば、どうしても国が国策レンタル機関をつくるべきだと考えたわけである。」(3)

結果としては、1961年に、日立製作所、日本電気、富士通信機、東芝、三菱電機、沖電気、松下通信工業の国産メーカー7社によって、「日本電子計算機株式会社(JECC:Japan Electronic Computer Company)」が設立された。南澤の主張と違い国の出資ではなかったが、世界でも類のない相互協力機関となった。

この「電子計算機調査委員会」の意向にしたがって、通産省電気試験所の和田弘のもとでトランジスタ式の計算機の研究試作、電電公社電気通信研究所の喜安善市の方ではパラメトロン式の開発を担当した。

トランジスタ式は1956年にELTマークVが完成した。これはトランジスタ式計算機としてはベル研究所、IBMについで世界で第三番目のもので、プログラム内蔵方式のものとしては世界で最初のものであったといわれている。使用されたトランジスタは東京通信工業(現在のソニー)製のT1698という点接触形のトランジスタが130本、ゲルマニウムダイオードが1800本使われた。しかし、このコンピュータは作動はしたものの、非常に故障が多かった。この原因は、使用したトランジスタの性能、信頼性の悪さにあった。当時すでにより安定性の高い接合形トランジスタも市販されていたが、点接触形のほうが速度が速く、高周波用には点接触形でなければだめだとの考えからこのトランジスタが選ばれたが、信頼性を無視したこの選択は失策だったとおもわれる。

このマークVは先に述べたTACと同じように命令構成はEDSACに倣ったものであった。日本の初期のプログラム内蔵方式のコンピュータの命令構成にEDSACに準じたものが多いのは、世界最初のプログラム内蔵方式だけあって比較的ソフトウェアが多かったことと、IBMやレミントンランドといったメーカーがあまり内容を公開しなかったのに対して、英国ケンブリッジ大学で作られたEDSACは一般に良く公開され情報が手に入り易かったためと考えられる。

次に完成したETLマークWはマークVの経験を踏まえて、接合形トランジスタ日立製作所のHJ23を470本使用していた。この製作は順調に進み1957年に稼働しはじめた。このマークWは実用機をめざして開発され、マークVよりずっと高い信頼性と大容量をもっていた。そのため、主記憶装置には高速磁気ドラムを採用して、記憶容量は24000ビットであった。そして、そのノウハウは各メーカーに公開され、基本回路は当時の日本のトランジスタ計算機の一つの標準となった。

一方、パラメトロンを利用した計算機は1957年に武蔵野1号(MUSASHINO―1)という世界最初のパラメトロンコンピュータが完成した。ところで、このパラメトロンというのは、1954年に東京大学の高橋研究室に所属していた大学院生の後藤英一が発明した素子である。これはパラメーター励振という現象を利用して作られた共振回路で計算機の素子として必要な三つの機能である記憶、増幅、論理演算の各機能を果たすことのできるもので、構造はフェライトの磁心にコイルを巻いてコンデンサーに並列につないだものであった。パラメトロンの特徴について高橋は「計算機の素子としてのパラメトロンの特色は、何といっても、構造が簡単で、そのため値段が廉くまた丈夫であるという点にある。 パラメトロン素子はまず日本電子測器が製作し、つづいてTDKが素子を商品として売り出したが、どちらも一素子当たり約五百円であった。同じだけのものを真空管でつくれば、廉く見積って一万円はしただろう。トランジスターにいたっては一個が数千円もしたから、とてもわれわれの手に負えるものではなかった。」(4)と書いている。

 このパラメトロンはエレクトロニクスの分野における、数少ない日本独自の発明の一つであろう。であるから武蔵野1号が世界最初のパラメトロンコンピュータであるのは当然ともいえる。それにしてもパラメトロン発明からわずか3年でそれを利用したコンピュータを完成させたというのは非常に早い対応であった。この武蔵野1号の論理的な外部仕様は、フォン・ノイマンの設計をもとにしてつくられたイリノイ大学のILLIACをコピ―したものである。そしてこの武蔵野1号でパラメトロンの稼働試験、例えば24時間運転などが行われ、様々なデータを提供した。

パラメトロン計算機はつづいて同年、日立製作所がHIPAC―1を完成、翌1958年には日本電気のNEAC―1101、東大の高橋研究室がPC―1を完成させている。

そして商用機も1958年11月に日立製作所によってHIPAC―101という機種が発表された。このHIPAC―101は翌年1959年にパリで開かれた第一回国際情報処理会議にパラメトロン計算機の代表として出品された。HIPAC―101は、航空輸送後に現地で梱包を解いて電源を入れると直ぐに動きだした。この安定性は当時、普通コンピュータは稼働前に調整などに時間が相当かかるものであったから、このことは世界的にも驚異的なことであったらしい。しかも、それが日本独自の開発であるパラメトロンよるということは、ある面において日本は計算機技術の先端にあったといえよう。なにしろIBMでさえトランジスタ式のコンピュータを出すのは1960年になってからのことであった。

しかし、この日本独自のパラメトロンはのちにだんだん使われなくなり、トランジスタに取って変わられてしまった。安く、安定性の高かったパラメトロンは何故トランジスタに勝てなかったのであろうか。高橋は「結局、パラメトロンのクロック周波数が毎秒数万回で遅いこと(トランジスターでは当時でも毎秒百万回程度)、電力消費が大きいことこの二つがパラメトロンの敗北の決定的な要因であった。(中略)こうした点から、トランジスター技術が一定のレベルまで進歩すれば、パラメトロンが第一線から退場せざるをえなくなるのは、当然のことであった。そのことは当初からある程度は予期してきたことであったが、IC,LSIの時代がこれほど早くくるとはおそらく誰も予想しなかっただろう。」(5)と理由を上げている。ほかにはトランジスタよりおおきく、重いことも要因であった。また技術以外の面では、その技術公開がおそすぎたことが原因とされている。パラメトロンは発明された年(1954年)の10月から、東大高橋研究室、電電公社電気通信研究所、国際電電の三者による共同研究体制が敷かれ、その研究内容はその後2年間も公開されなかった。これは外国からの侵害を極度に恐れたことなどが理由であるが、このことはかえって広い範囲での研究を妨げ、また当然、外国でのパラメトロン採用の道も閉ざしてしまい、その普及を妨げてしまったとおもわれる。このことは、せっかくの日本独自の技術を世界に広めるいい機会だっただけにそれを失してしまったことになる。

第三節 技術提携の時代

日本のコンピュータ産業は、真空管を飛び越して、トランジスタ・パラメトロンからスタートしたため素子の面から見るとアメリカのレベルに追いついた。しかし、真空管方式を抜かして、トランジスタ機を開発したことは、その設計やソフトウェアの充分な開発・研究をも飛ばしてしまうこととなった。日本のコンピュータの基本的な設計は主にイギリス・ケンブリッジ大学のEDSAC、アメリカ・イリノイ大学のILLIACなどの研究機を参考にしたものであった。このような研究機は確かに様々なノウハウの参考になったが商用のコンピュータ、特に事務機器としての機能には欠けていたと思われる。また、周辺機器の工作には非常に苦労することになった。例えば、磁気テープで事故なく分類でき、ラインプリンタでミスなく打て、カード読み取り穿孔機がうまく孔をあけた、などそれだけで喜んだ時代であった。このため各社ともその保守、修理で悩まされたという。このような機械工作技術については、IBMやレミントンランドに代表されるアメリカのメーカーとは大きな隔たりがあった。

しかも、日本がコンピュータを生産しようとすると、いたるところでIBMがもつ基本特許に触れてしまった。当初はその特許を調べて、日本独自にある技術などについては異義を申し立てる方針であった。しかし、その基本特許は非常に広い範囲にわたり、数も多かった、そのため日本の各メーカーはこのことでも行き詰まってしまった。

そこで、この問題については、通産省が中心になってIBMに対して基本特許使用について一括交渉が行われた。この交渉は難航したが、当時は日本などIBMにとってはたいした存在ではなく、また日本側はIBM本社の孫会社に当たる日本アイ・ビー・エムが子会社に当たるIBM・WTC(World Trade Corporation)との技術提携を通産省に認可されないと、当時の厳しい外国為替管理法のためにノウハウ料などを本国に送金できないということをかけひきに使うことで、結局、IBMも妥協することになった.

「その結果、1960年に日本のメーカー(日本電気、東芝、富士通、日立、三菱電機、松下電器、横河電機、シャープ、北辰電機、島津製作所、谷村新興、ティアック、東京重機、田中精機)はIBMに対して、システム及びマシンについては5パーセント、構成部品については1パーセントの基本特許使用に関するロイヤリティを支払うとともに、クロスライセンス契約を結んだ。このIBMとの契約は5年毎に更改され現在まで続いているのである。」(6)

1957年、BENDIX―G15という真空管式の技術計算用の本格的なコンピュータが輸入された、これが日本最初の輸入コンピュータで国鉄の鉄道技術研究所と三菱電機に納入された。その後、IBMやレミントンランドなどの外国製のコンピュータが続々と輸入されてきた。その中で日本製のコンピュータはパラメトロンを使った小型のものは値段も比較的安く、パラメトロンの安定性も手伝って、一応外国製に対抗できる要素をもっていたが、それより大きな中・大型コンピュータでは外国機には周辺装置、ソフトウェアを中心にとてもかなわなかった。特に、IBMが1960年に第二世代と呼ぶ大型のトランジスタ機7000シリーズ、中型の1400シリーズを発表すると、日本はCPUを含めてほとんどあらゆる点で差がはっきりしてしまった。

そこで、日本の各メーカーはこの技術格差を縮めるために、他の工業分野で盛んに行われていたように外国のメーカーから技術導入をすることにした。各社ともすでにコンピュータ業界で世界的に圧倒的なシェアーをもち、技術でも一番とみられたIBMからの技術導入を望み交渉をした。しかし、それに対するIBMの回答は、何れの会社にも、「下請けとしてなら考えるが、技術供与はお断り」、「IBM100パーセント出資以外のところに技術トランスファーはしない」(7)、「特許は出すがノウハウはダメ」などでIBMからの技術導入はあきらめなければならなかった。

結局、1961年日立とRCA(Radio Corp. of America)が技術提携したのをかわきりに、翌年には三菱電機とTRW(Thompson Ramo Wooldridge Inc.)、日本電気とミネアポリス・ハネウエル(MinneapolisHoneywell Regulator Co.)が技術提携、1963年には沖電気とスペリーランドが提携し、同年合弁会社「沖ユニバック」を設立。1964年、東芝とGE(General Electric Co.)が提携と技術提携が相次ぎ、主力メーカーでは富士通と松下通信工業を除いてほとんどがコンピュータの分野で外国企業と包括的な技術提携を結んだ。

さて、この技術提携は各社にどのような影響を与えただろうか。まず、国産コンピュータのハード、ソフトが急速に発達した。各社が提携した先の企業は、スペリーランドを除きIBMより後発で、主にトランジスタ機からコンピュータビジネスに参入した企業であった、そのためIBMよりはハード・ソフト共に遅れている分野が多かった、それでも日本の各社よりはかなり進んでいたのである。最初は提携先のコンピュータを完成した形で導入する。そして、年々部品の国産化率を高め、最後にはすべての部分を国産化する。この間に、提携先の工作技術やソフトウェア技術を取得した.

例えば、日本電気では、「ハネウエルとの提携で得た最大の収穫はソフトウェア開発のノウハウでした。MODE1というソフトの勉強をしたが、この方面ではむこうは非常に進んでいるな、という感じだった。しかしこの分野でもわれわれは急速に力をつけていった」(8)といっている。

そして、この提携でとりあえず、国産メーカーが目標にしていたIBM1401に対抗できる機種をもつことができたのである。

しかし、これらの提携にも幾らかの問題があった。まず、価格であるが組立て国産機と外国機との差は、はじめて設備するとき、レンタル料以外に、通関手数料や輸入税、運賃などの費用を別に払うか、それともこれらの費用が最初からレンタル料におり込みずみかということで、あまり差がなかった。これではまだ信頼できる外国のコンピュータの方が安心して使えるということになりがちだった。

このほかに、提携先の意向その他によって開発が制約されたり、日本に合った機種やソフトウェアがタイミングよく開発できなかったりした。また、提携先が後発メーカーであったこともあって、ソフト技術が期待したほどでなかったため、自社で開発せざるをえなくなったことや、また当時想像もつかなかったであろうが、提携先であるRCAやGEといった世界的な大企業が汎用コンピュータから撤退することも起こったのである。

第四節 IBM360とコンピュータブーム

1964年4月8日、IBMは新システムIBM360シリーズを発表した。第2世代コンピュータ(トランジスタ機)までのコンピュータは、各社とも大型、中型、小型を開発するにあたってはそれぞれまったく異なるアーキテクチャをもって開発していた。

当時はまだハード、ソフト共に規模が小さくコンピュータを有効に活用するためには、機種ごとにその規模に合ったハード、ソフトを開発する必要があった。そのことはIBMも例外ではなく、1962年の時点において可変語長の小型機として1401、1410、大型機で7080、2進法の7090、7094、十進法の7070、そして今日のスーパーコンピュータにもあたるストレッチ(7030)など様々なアーキテクチャをもつコンピュータが製作されていた。このような野放図ともいえる機種の増殖はハード、ソフトの大規模化の傾向のなかでは、機種間の重複、混乱が拡大する可能性があった。

このためIBMでは新開発計画においてこの混乱を避けるためにアーキテチャを一本にまとめた。これがIBMシステム/360である。 このIBMシステム/360の発表にあたり、設計者のブル―クス(F.P.Brooks)は、「アーキテクチャにはもはや革命はなく、IBMシステム/360のアーキテクチャは今後の標準にするに足るように充分検討された」(9)と述べた。このことは20年を経た現在のコンピュータにおいても続いているのである。IBM産業スパイ事件で有名になった3081において採用されている370/XAも様々な新しい機能が付け加わっているものの、基本的にはこのシステム/360の系譜なのである。その意味でシステム/360はIBMのコンピュータにおいてきわめて重要な位置を占めているといえる。

勿論、システム/360の新しいところはこのアーキテクチャだけではない。その他の特徴を要約すると次のようになる。まず、新しい固体論理素子、SLT回路の採用とそれによる高速化。シリーズ間のプログラム、入出力機器、周辺機器などの互換性。そして、360という名の由来になった、360度すべての分野をカバーする本格的な汎用コンピュータであるということであった。そしてIBMはこの研究と開発の為に50億ドル以上を費やしたといわれる。まさにIBMシステム/360はIBMの自信作であり、やがて33000台という出荷数を記録しコンピュータ業界での地位を不動にしたのである。

このIBMシステム/360は日本においても大変な人気であった。この1964年は東京オリンピックの行われた年であり、日本は高度成長の軌道に乗り始めたときであったこともあり、大型コンピュータのユーザーはもちろん、1401の能力に限界を感じていた企業、そしてそれまでコンピュータの導入を見合わしていた中堅企業までがシステム/360の導入をしていった。

また、このコンピュータ導入を助長した事柄にMIS(経営情報システム)ブームがあった。MISは現在のOAの前身のようなもので、日常業務活動の個々のデータを刻々処理し、これをデータプールとして必要に応じて計画管理のために資料を提供し経営の戦略的意思決定に役立てるための経営情報システムをコンピュータによって構築しようというものだった。それをブームにしたのは、1967年に日本生産性本部と日本電子計算機開発協会がアメリカのコンピュータの利用状況を視察して発表した「MISの開発および利用に関する提言」による。そこには、「コンピュータを使いこなし、経営のやり方を変えていくことが、もう空論の段階ではなく、具体化の時代にはいっている。コンピュータを利用面から見ると日本は10年も遅れており、アメリカではMISという見えざる革命が進んでいる。このまま放っておいては、日本は取り返しのつかないことになりかねない」(10)というようなことが報告されていた。この報告はコンピュータの過大評価ぎみで誤解も産んだが、人々のコンピュータへの関心を高めたのは確かだった。

このような、コンピュータ熱のなかで国産メーカーはIBMシステム/360シリーズに対して、追従せざるえを得なかった。当時日本のメーカーとしては業界一位の日本電気は技術提携先であるミネアポリス・ハネウエルのH200シリーズを国産化したNEAC2200シリーズを発表した。

日立製作所もRCAのスペクトラ70を国産化したHITAC8000シリーズを発表した。その他、東芝はGE400、三菱はWH―PRODUC550などを国産化して発表したのであった。

このような傾向のなかで、外国のメーカーと提携しなかった富士通は独自の技術で開発を行なった。富士通は最初の頃、リレー式の計算機に力をいれていたため、コンピュータに関しては他社にやや遅れをとっていた。しかし、一歩間違えば富士通の命取りになるほどの開発費をかけて、1961年にIBM7070を目標に開発したFACOM222を発表して以来コンピュータメーカーとしての地位を得た。そして、1965年には国民的電子計算機と呼ばれたFACOM230モデル10を発表した、これはFACOM230シリーズの最小型で、当時のコンピュータとしては非常に安くまたIBM1401のようにメモリーの小さいものではなく、73KBのメモリーがあった。このためCOBOL,FORTRANなどの高級言語もつかえた。この低価格は主記憶装置に磁気ドラムを利用することで実現していた。現在はメモリがLSI化され安いのが常識になっているが当時は磁気コアを用いるのが普通で非常に高価であった。そこでモデル10では高速を必要とするところだけコアメモリを用い、比較的遅くていいところは磁気ドラムにしたのである。こうして処理速度はやや遅かったが安いということで、このFACOM230モデル10は当時のベストセラーになり、富士通は1968年に売り上げ高で日本電気を抜き、国産機メーカーのトップとなった。この成功はIBM360には手が届かないというというような中小企業の多い日本の事情に合致した機種であったという所に適合性があったと思われる。これは提携先にとらわれない独自の開発ができたメリットであった。

 さて、もう一つの外国メーカーと提携しなかった、メーカーである松下電器はMADICというコンピュータを商品化していたが、1964年に汎用コンピュータから撤退した。主な理由はコンピュータが利益の上がらない事業ということであったらしい。

注記

(1)高橋秀俊「電子計算機の誕生」中央公論社、1972年、20頁

(2)高橋秀俊、同上書、36頁

(3)南澤宣郎「日本コンピュータ発達史」、日本経済新聞社、1978年、90頁

(電子計算機調査委員会については主に本書の記述による)

(4)高橋秀俊、前掲書(1)、62頁

(5)高橋秀俊、前掲書(1)、83頁

(6)那野比古「コンピュータ王国」大陸書房、1983年、38頁

(7)下田博次「IBMとの10年戦争」PHP研究所、1984年、28頁

(8)下田博次、同上書、76頁

(9)山田博「コンピューター・アーキテクチャ」産業図書、1976年、5頁

(10)野村電子計算機センター編「コンピュータ辞典」コンピュータ・エージ社、

    1968年、170頁