第二章 日本のコンピュ―タの発展

第一節 コンピュータ業界の再編

1970年、GEがコンピュータ事業から撤退、コンピュータ部門をハネウエルに売却すると突如発表した。GEはIBMシステム/360の弱点の一つであるタイムシェアリングシステム機能を備えたGE600などではかなり好調であり、フランスのマシンブル社(Machines-Bull)やイタリアのオリベッティー(Olivetti)のコンピュータ部門を買収するなどの世界戦略を広げていた。しかし、1969年にはコンピュータ部門の赤字は1億5800万ドルにもおよび、しかも今後GEがIBMと対決していくためには、78年までに5億3800万ドルの赤字が見込まれたのである。コンピュータ事業は巨大企業GEですら資金負担に耐えられないほどのものだったのである。

 一方、IBMの方は新シリーズIBMシステム/370を発表した。これは従来の360シリーズに比べ数倍のコストパフォーマンスをもっていた。また370は他に幾つかの特徴があった、LSIの使用、仮想記憶システムのサポート、マルチプロセシングシステムの導入などがそれである。

RCAはこのIBMの新機種に対抗すべく製品開発をしていたが、システム/370がRCAの予想以上のコストパフォーマンスであり、またRCA自身のずさんな事業計画等も重なり、1971年にコンピュータ事業から撤退せざるを得なくなった。

 わが国のコンピュータメーカーは、このIBMの新機種のほかにもう一つ問題をもっていた。それはコンピュータ産業における輸入、資本の自由化の問題である。この背景にはアメリカ経済がECや日本の追い上げを受け、またベトナム戦争による軍事支出などの増大により国際収支が非常に悪化してきたことがある。そこでアメリカはその改善策として、日本には繊維の輸出自主規制やそれまでの貿易自由化、資本自由化で除外されていたコンピュータについても自由化を要求してきたのである。その結果、1971年7月に、コンピュータの製造、販売、賃貸業に関して50パーセント資本自由化が1974年8月4日から実施と決定された。また、記憶機、端末機を除く周辺装置の輸入自由化については1972年2月1日から実施されることとなった。

この自由化で、他に何の保護策も講じられなければ、IBMをはじめとする外国機が国産機を駆逐する可能性すら予想された。

そこで、その対抗策が、外国には悪名高い通産省の「行政指導」による、コンピュータ業界の再編制とそれを支える「電子計算機等開発促進費補助金制度」であった。

 この業界再編は1971年に、富士通と日立製作所、三菱電機と沖電気、日本電気と東芝という組合わせで、IBM370シリーズの対抗機種を共同開発するというもので、この3グループに鉱工業技術研究組合法に基づく組合をつくらせ、これに補助金を与えた。 日立と富士通のグループはMシリーズと呼ばれるモデルを作ることになったが、それはその設計をIBMコンパチブルにして開発するというものであった。

日本電気と東芝は、東芝の提携先であったGEがコンピュータより撤退し、GEのコンピュータ部門が日本電気と提携関係のあったハネウエルのコンピュータ部門の子会社HIS(Honeywell Information Systems,Inc.)に吸収されたことで、東芝はHISと提携したことから、両社ともGE・ハネウエル系の技術をベースにすることになった。このため日本電気と東芝の組合わせは当然の成行きであった。

三菱電機と沖電気は共にスペリーランドと近い関係にあったことからこの組合わせになったものと思われる。

第二節 IBMコンパチブルを巡って

さて、日立・富士通がめざすIBMコンパチブルとは、どのようなものであったのであろうか。

単にIBMコンパチブルというだけならば、以前にもIBM1401のソフトがかかるハネウエルのH200やIBMシステム/360のインストラクションセットを使うRCAのスペクトラシリーズなどがあった、しかし日立・富士通がめざしたのはIBM製コンピュータ用に開発されたすべてのアプリケーションソフトウェア、システムソフトウェアを実行でき、またIBM用のすべての周辺機器が接続できるメインフレームであった。

これにより、世界で約80パーセントを占めるとも言われるIBM用の膨大に蓄積されたソフトウェアを利用することが出来るため、非常に大きなマンパワーを必要とするソフトウェア開発の負担を軽くすることが出来ると共に、IBMが開拓した市場を奪うことが出来る。

このような完全互換性の機械を一般にプラグコンパチブル(Plug-Compatible)といっている。このプラグコンパチブルは1960年代の後半に周辺機器においてIBM製品より高いコストパフォーマンスをセールスポイントに登場した。最初、これをCPUにおいて開発しようとしたのが、360シリーズの主任設計者であったジーン・アムダール(Gene M.Amdahl)で、彼はIBMを退社し自分でアムダール社(Amdahl Corporation)を1970年に興した。アムダールは最新のLSIの技術と彼自身のアイデアで360シリーズや370シリーズより小型、単純、高速なコストパフォーマンスの高いIBMコンパチブルのコンピュータを設計、製造することにした。アムダールはIBMの技術面での保守性につけこんでそのような機種を作ることができた。IBMの保守性とは、例えば360シリーズでは当時すでに時代遅れのハイブリッドICを使用しているところなどにみられた。そして、1975年アムダールは470V/6を発表をした、この機械はアムダールの公約どうりIBMの同種の機械に比べて、性能が優れ、安価で、故障がすくなかった。そのため市場でもこの評判はよかった、例えばヒューズエアクラフト社のデータ処理担当部長は「わが社が入れたV/6は信じられないほど信頼性が高い。私はこの仕事を20年もやっているが、こんな驚くべき技術の粋を集めた立派な機械にはお目にかかったことがない」(11)という具合いだった。1977年の春までには、アムダールの納入実績は約50台に達し、大型コンピュータ市場におけるIBMのシェアーを食いはじめた。

 このアムダールにならってプラグコンパチブルの市場に参入した企業はアメリカでは、リース会社のアイテル社(Itel Corporation)がナショナルセミコンダクタ(National Semiconductor Corporation)のOEMで市場に出したほかは、マグナソン(Magnuson Computer Systems Ins.)、ナノデータ(Nanodata Corporation)などほとんど無名に近い小会社であった。

そして日本では、日立と富士通がこの市場に参入したのであった。このために、富士通は今迄の純国産路線を変え、アムダール社に資本参加したほか、技術提携もした。日立は提携先であったRCAが1971年にコンピュータ部門を撤退してしまったため、その代わりにIBMの情報を得るために1973年にペイリンアソシエーツ社との間で大型機開発のコンサルティング契約を結んだ他、77年にはアイテル社と提携した。

富士通がMシリーズを出荷したのは1975年のM190からであるが、実はこのM190は先に述べたアムダール社の470/V6とほぼ同じ機械であった。富士通はアムダールの情報をもとに、Mシリーズを作るとともに470/V6をも同じ生産ラインでOEM生産していたのである。つまりアムダール社のコンピュータは富士通が製作したものだったのである。

 このMシリーズはIBM370シリーズの各機種に対応すべく大型のM190、M180から小型のM130まで富士通と日立の分担で開発され、それらは1976年までにほぼ出揃った。Mシリーズは、アムダールがアメリカで成功しIBMのシェアーを食っていったように、日本でもそのシェアーを伸ばしていった。

Mシリーズがユーザーに受け入れられた理由は、IBM機との互換性、ハード性能が良く故障が少ない、安い、サービスが良いなどがあった。中でも、評価の高かったのは互換性であった、コンピュートピア誌のユーザー調査によると『IBMマシン上で正しく動いていたプログラムがMマシンでも動くかどうか』(12)が最大の関心であった。このことは今迄IBMのコンピュータを使っていたユーザーが一番Mシリーズに関心をもっていたともいえる。コンピュータは「ソフトなければただの箱」といわれるように、ソフトウェアが重要である。しかし一般にコンピュータは、アーキテクチャが異なればソフトウェアも違ったものを使用しなければならない。逆にアーキテクチャが同じならば原則としてソフトはそのままもしくは若干の修正で走らすことができる。世界で圧倒的なシェアーをもつIBMのコンピュータのユーザーを変えさせるには、Mシリーズのようなコンパチブルを作ることが早道であった。しかし、この逆も真である、つまりIBMのユーザーをMシリーズに変えさせることもできる代わりに、IBMがコンパチブル機より魅力的な機種を出せばまたIBMに戻ってしまうということである。

このコンパチブル機は、IBMの設計情報をもとに新機種を開発することが必要であり、自主的に製品発表ができない。もしIBMの市場陽動作戦にかかればRCAのように大損害を受けることになる。このことを富士通の幹部をして「コンパチブルは攻めに強いが守りに弱い」(13)と要約している。

 第三節 IBMスパイ事件

IBMは1979年1月に従来の中・小型コンピュータの5倍から6倍という抜群のコストパフォーマンスのIBM4330を発表した。これはプラグコンパチブル機に対抗してそれらに致命症を与えるに充分な価格設定とおもわれた。事実、このために有力なコンパチブルメーカーであったアイテル社は痛手を負い、関連部門をナショナルセミコンダクタへ売却した。そればかりかIBMとコンパチブルでないイギリスのICL(International Computers Ltd.)も主力工場であったウインズフォールド工場を閉鎖する事態においこまれた。ところが、日本のメーカーは、わずか1ヶ月遅れで対抗機種FACOM130Fを出荷した富士通をはじめとして、各社ともIBMに追随してきたのである。しかも、IBMの特に強い超大型コンピュータの分野でも、1980年11月にIBM3081D(9.5MIPS)を発表した時すでに、日立は10.2MIPSのM200Hを、そしてIBMのコンパチブルではないが日本電気のACOS1000は15MIPSという当時の最速の機種を発表しており、IBMは国産コンピュータに先を越されていたのである。

このように日本のメーカーは、すくなくともハードウェアについては、IBMの技術に追い着き、半導体チップでは日本の方が信頼性などの点で優れいるとも言われるにまでに至った。

そこで、IBMは日本のコンパチブル機を振り切る決め手として、基本ソフトウェアであるOS(オペレーティング・システム)を解析しにくくすることにした。それまで磁気テープで供給してきたOSの機能を一部ファームウェア化してしまったのである。こうすればコンパチブルメーカーはOSを解析するまでに相当時間を必要とする。そうして1981年12月この8000語ほどファームウェア化されたOSをもつIBM3081Kを発表すると共に、3081が31ビットアドレッシングを採用している新しいアーキテクチャであること明らかにしたのであった。

そしてIBMはアーキテクチャが変わっても360シリーズ以来のアプリケションソフトを実行できる新しいOS、MVS/SPを提供した。この31ビットアドレッシングと新OSの高度なファームウェア化はコンパチブルメーカー対策としては強力で富士通、日立がこのファームウェアを解明するには2年はかかるとみられた。

そのため、あせった日立が新OSのソースリストを中心としたIBMの技術情報を入手しようとしたのをFBIのおとり捜査にひっかかり摘発されたのが、1982年6月23日のいわゆるIBMスパイ事件である。

この結果、IBMは日立に多大な賠償金とIBMの技術情報が使用されているかどうかの製品検査権を認めさせた。これによりIBMは日立の動向を掌握することができ、いざとなれば日立にコンパチブル機を作らせないこともできるはずである。

またIBMはこの事件に直接関係なかった富士通に対してもOSの酷似をもって、富士通を訴え、実質的に著作権を認めさせている。

このような事件にもかかわらず、日立や富士通はIBMコンパチブルビジネスは正道、且つ最良のコンピュータビジネスとして今後もIBMコンパチブルの路線をとっていくと表明した。

第四節 パーソナルコンピュータ

 これまでは、主に大型の汎用コンピュータの発達を見てきた、これはコンピュータの発達初期の段階では大型の物しかなく、それ以後もしばらくの間コンピュータの技術の指標になるようなものは汎用コンピュータしか無かったからである。しかし、1965年にDEC(Digital Equipment Corporation)がPDP―8という小型のコンピュータを発表して以来、“コンピュータ=大型計算機”という図式は当てはまらなくなった。そのような状況を更に促進したのがマイクロコンピュータとその応用品であるパーソナルコンピュータである。

1975年に80パーセント以上のシェアーを誇った汎用コンピュータも80年には60パーセントまで下がり、現在では50パーセント以下になっているとおもわれている。そこでこの小型のコンピュータをその主力であるパーソナルコンピュータを例にとり、日本における開発の現状をみておく。

日本に初めてパーソナルコンピュータがもたらされたのは1977年頃で、当時は殆どがアメリカからの輸入品であり、アップル社(Apple Computer,Inc)のAPPLEU、コモドール社(Commodore International Ltd.)のPET−2001、タンディー(Tandy Radio Shack Corporation)のTRS−80などが圧倒的なシェアーを握っており、国産でパーソナルコンピュータとよべるようなものはベンチャー企業であるソード計算機のM200ぐらいであった。しかし、翌年になると国内の大企業である日立がベーシックマスターLTを発表、次いでシャープもMZ−80Kをだすなどしてきたため、瞬く間に国産のパーソナルコンピュータがシェアーをのばした。特に79年に日本電気が発表したPC−8001はベストセラーになり、日本のパーソナルコンピュータの標準ともなり、我が国におけるパソコンブームの火付け役になった。以後、現在に至るまで日本電気は常に40〜50パーセントのシェアーを誇る寡占状態を築いている。

このパーソナルコンピュータに関していえば、汎用コンピュータでは日本においても相当な力をもつIBMも、日本電気・富士通・シャープといった日本のメーカーに大きく引き離されている。

しかし、このパーソナルコンピュータもその中身を見ると日本のオリジナルとは言い難いものであることが分かる。

まずその一つはパーソナルコンピュータの心臓部といえるマイクロプロセッサである。これを先にベストセラー機として挙げた日本電気のPC−8001を例に挙げると、このパソコンではCPUとして同社の製品であるμPD780―1というマイクロプロセッサが使われているが、このCPUは米ザイログ社(Zilog Inc.)のZ80Aというマイクロプロセッサと全く同じ機能をもつものである。普通、マイクロプロセッサなどの複雑な半導体製品は新製品の市場を拡大し安定供給をするために、他のメーカーに回路のマスクパターンを供与しコピーを生産させることが多い。実際このZ80Aもザイログ社は日本のシャープ、東芝と契約してマスクを供与しセカンドソースとしてきた。しかし、日本電気はザイログ社とセカンドリース契約を結ばずにμPD780を開発していた。このため、日本電気はザイログ社から特許権・著作権が侵害されたとして訴えられた。また、現在の主力パソコンであるPC−9801シリーズのCPUもインテル社(Intel Corp.)のiAPX86相当とされるものが搭載されておりこれについても83年に特許権の侵害ということでかなりの特許料を払ったと言われている。

つぎに基本ソフトウェアであるがPC−8001においては米マイクロソフト社(Microsoft Inc.)のBASICが載せられている。PC−8001の開発当時対抗機種であったシャープのMZシリーズや日立のベーシックマスターは各社自身の組んだベーシックを載せていた、ところが日本電気は自社開発のベーシックを採用しなかった。このマイクロソフトBASICの採用経過について日本電気の渡部和也は「プログラム言語については、自社開発による独自のものを使うか、外部から導入したものを使うか択一を迫られたのであるが、とりあえず両面作戦で進行した。私(渡部)としては、当時は社員も十数名という無名に近いマイクロソフト社のBASICが、機能としては最も優れているような感じをもっていた。プログラム言語選択の基準は、言語学的な評価でなく、いわゆる「使い勝手」の優劣である」(14)とのべている。確かにマイクロソフト社のBASICはシャープのS―BASICや日立のBASICに比べて機能、使い勝手ともに一日の長があった。先に述べたようにPC−8001は大変成功を収めたわけであるがその原因として優れたコストパフォーマンスと共に、このマイクロソフトBASICの採用がその重要な理由にあげられている。

このため先に自社開発のBASICを採用していた日立もベーシックマスターLVからはマイクロソフト社のBASICを採用したのはじめとして、遅れてパソコンに参入してきた富士通もこれを採用している。またシャープもマイクロソフトBASICこそ採用していないがCZシリーズにおいてマイクロソフトBASICとコマンドやステートメントを似せたハドソン社のHu―BASICを採用している。

実は、PC−8001のあとでも国産のBASICを採用したメーカーもある、例えばソニーのSMC―70/777、カシオのFPシリーズ、松下のJrシリーズ、東芝のOA―BASIC、そしてソードなどである、それぞれのBASICはマイクロソフトBASICにはない様々な特徴を供えたものであり、それなりに優秀なものであったがこれらの機種はほとんど売れないという結果になっている。この原因はよく分からないが、一つにはマイクロソフトBASICにない特徴をセールスポイントとしたため計算の正確なBCD演算をするなどBASICを肥大化させすぎコンピュータの一つの命ともいえる計算の速度を犠牲にしてしまい非常に遅くしてしまったことと、やはりまだ「使い勝手」にもう一歩という感じがあることも確かである。

参考文献(注記掲載のものを除く)

1.  日本情報処理開発協会編「’83世界コンピュータ年鑑」コンピュータ・エージ社、 1983年

2.  小田徹「コンピュータ史」オーム社、1983年 (第1章のコンピュータの素子数等については主に本書の記述による。)

3.  坂本和一「IBM社の組織変革」立命館大学経済学会、  第31巻第4・5・6号,第32巻2・4・5・6号,第33巻第1・2号

4.  北原正夫・青木良三「コンピュータ業界」教育社、1982年

5.  那野比古「コンピュータビジネス最前線」アスキー出版、1981年

6.  南澤宣郎「電子計算機」光文社、1964年

7.  尾賀聡一郎 他「OA化に伴う経営管理の変貌と社会的影響」第31回日本学生経済ゼミナール京都大会提出論文、1984年

8.  相磯秀夫 他編「国産コンピュータはこうして作られた」『bit9月号別冊』 共立出版、1985年

9.  日本アイ・ビー・エム株式会社「広がるコンピューターの世界」、1985年

10.  北正満「IBMとの攻防」共立出版、1980年

11.  北正満「IBMの挑戦」共立出版、1978年

12.  岩渕明夫「富士通の挑戦」山手書房、1984年

13.  IBM研究会「高度情報化とIBMの戦略(上)」『経済』新日本出版社、第247号、1984年

14.  橋本六郎「日米のコンピュータ技術力比較」『IBMウオッチング』日刊工業新聞社、1984年

15.  眞水潔 他「岐路に立つIBM互換機」『日経コンピュータ』日経マグロウヒル社、 1984年8月20日号

16. 青野忠夫「IBMの光と影」日本経済新聞社、1972年

17.  コンピュートピア編「IBMスパイ事件の全貌」コンピュータ・エージ社、1982年

18.  坂村建「コンピュータ・アーキテクチャ」共立出版、1984年

19.  坂村建「TRONプロジェクトの設計思想」『bit』共立出版、Vol.16,No.10、1984年

20. 永島孝「なつかしき計算機・TAC」『bit』共立出版、Vol.16,No.9  1984年