思い出に残る三宅誠孝さんの議員活動 
 

 

 


2009117 元京都市会議員の三宅誠孝さんがお亡くなりになった。

27日に行われた「三宅誠孝さんお別れ会」での発言から(要約)

 

地域の多くの皆さんにとっては、議員としての三宅さん、マラソンの

三宅さん、ハーモニカの三宅さん、手話の三宅さんであり、誠実で温厚

な三宅さんの思い出は皆さんの胸の中にこれからも生き続けること思い

ます。しかし、市会議員としての三宅さんの姿はあまり紹介されること

もありませんし、三宅さん自身は自分を前に出すような人でもありませ

んでしたから意外と知られていないのではないでしょうか。

このお別れ会のご案内をいただきまして、「三宅さんの市会議員としてされたお仕事はどの

ようなものであったか」と種々の議員団ニュースや議会議事録などを調べましたが、今日、皆

さんのお手元に「思い出に残る三宅誠孝さんの議員活動」という文書をお渡ししてあります

ので、ご参照願いたいと思います。

私は現職時代、主に左京区南部を担当していましたが、三宅さんが活動した左京区北部は豊

かな自然と住民の生活を守っていく上で次から次にと大きな問題が引き起こされてきた地域で

した。三宅さんの議員活動をふり返って見ますと洛北地域での住民運動、その中でも@「大見

公園」残土投棄計画、A岩倉一条山乱開発、B市原清掃工場の問題での三宅さんの奮闘は欠か

すことのできません。

私は三宅さんの議会での奮闘をふり返ってみるとき、その生涯をささえた土台は2つあると

思います。

1つは大きな住民運動です。乱開発業者が、あるいは京都市行政が住民の声を無視して無謀

な計画を推し進めるとき、住民運動はこれらと対決して少なくない成果を勝ち取ってきました

が、議会での三宅さんの奮闘も忘れることはできません。もちろん議員の議会での活動は大き

な住民の運動をささえる一局面にすぎないことも事実ですが、議員には議会という公式の場で

法律と正義、住民の利益という立場にたって市長を追及するという掛替えのない役割がありま

す。そして住民と密着しての議会活動が住民運動を励まし、また議員はそれによって鍛えられ

成長していくことを私も実感してきました。

三宅さんの生涯をささえた土台のもう1つは、三宅さんが日本共産党の議員であったという

ことです。

悪政に対しては野党として住民の立場に立って正面から対決し、利権でも金でも動かない、

もちろん暴力や脅迫にも屈することがない、この点にこそ日本共産党員としての真髄があり、

だからこそ三宅さんに信頼が寄せられてきたのだと思います。

私は市長なれあいの与党の姿を議会で何度も目にしてきましたが、あるとき公明党の議員が

大見公園残土投棄計画について本会議で質問したことがあります。この議員は「ダンプ街道に

なれば大原、八瀬、カミコウチの人たちは困る」といった発言をしました。上高野を上高地と

読み違える、私はすかさず「誰に書いてもらった原稿を読んでいるんだ!」と野次をとばしま

したが、実にお粗末でした。

現場に足をはこび住民の声を聞いての議員活動という点は三宅さんをはじめ日本共産党議員

の原点です。

私が議員に当選して直後に大文字山ゴルフ場計画が明らかになりました。署名や宣伝、議会

でも大論議になりましたが「どうなることやら」といったのが新人議員としての正直な心境で

した。大きな住民運動と全国的な反響もあってついにゴルフ場計画を断念させることができま

した。私は「力をあわせれば政治は変えられる」ことを実感しました。

今、市民の生活は大変きびしく、命を守ることのためにも政治を変えることが求められてい

ます。総選挙も予想されるなかで今度こそ「変えてみせる」という確信をもってすすみ三宅さ

んの遺志にこたえていきたいと思います。ありがとうございました。

 

思い出に残る三宅誠孝さんの議員活動 
 


                                (お別れ会で配布)

 

私が京都市会議員になったのは1987年4月、このとき三宅さんは1期(4年)先輩だった。

私は左京区南部が担当地域だったが、三宅さんは岩倉、大原、鞍馬、花脊など北部地域の担当で

「自然が豊かな」といえば聞こえはいいが、過疎、農業・林業問題、河川管理や乱開発など多く

の問題を抱えて実に大変な議員活動であったろうと思われる(三宅さんは余りその苦労を口に出

されることはなかったが)。

 

京都市会初の本会議手話質問

さて、三宅さんの温厚で誠実な人柄を示す実績に市会本会議での手話質問がある。1992年

9月市会本会議で2度目の手話質問、この時からTV中継に手話通訳が導入され今では「常識」

となっているが三宅さんならではの特筆すべき成果である。

 

市会議員(特に日本共産党は)ならだれでも、実に多くの市民生活全般にかかわる問題を取り

上げての質問、追及、要求実現の活動に取り組むのであるが、三宅さんに関しては忘れることの

できない大きな働きをされた3つの住民運動課題がある。

 

その1 「大見公園」残土投棄計画

 

 

 

 


京都市の残土積み上げの当初の計画図

 

 

1979年に発表された「北部周辺地域整備事業」は、大原大見地区約120f、総額210

億円を投入し、建設残土による盛土で造成して総合公園を建設するという計画。

1987年には計画の大幅見直しを余儀なくされるという、前代未聞の結果を生じてきた。

三宅さんは1989年5月、1990年6月と市会本会議で2度にわたって質問している。

「京都市はこういった市民の批判に耳をかたむけるどころか、まったく無視してきたのでありま

す。大見町の地元で計画の反対同盟まで結成された同じ年に、工事に必要な琵琶湖水源かん養保

安林解除を国に申請し、なんとしても工事を進めようとしたのです。そして、解除申請に必要な

地権者の同意書が得られないことから、同意書を偽造してまで、申請書を提出したのです。あげ

くのはては、保安林解除が認められていないのに工事を開始し、それが発覚すれば今度は「違反

であることは承知していたが、業者との契約もあり、着工させた」と直接の担当責任者が開きな

おるというしまつだったのです」

 こうした中で工事は中断され、その後も複雑な経過をたどるが、残土投棄計画はもはや浮上す

ることはなくなった。

 

その2 岩倉一条山乱開発

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岩倉の「岩倉五山」の一つである一条山は、業者の違法開発

により「モヒカン山」として京乱開発、景観破壊の象徴として

全国に名をはせてきた。京都市は1981年12月に山の中央部を

そのまま残して周囲を開発するという開発許可(旧許可)を与

えた。ところが、業者は1982年の暮れ頃から、開発条件を無視

して、山を全部削り取ってしまおうとし、1983年2月に市が工

事中止命令を出して工事が中止された時点では、山は「モヒカ

ン刈り」の状態になってしまっていた。
83・3 市議会普通予算特別委員会での日本共産党の追及に、市は「現状回復するよう指導した

い。応じない時は告発も考える」と答弁。

83・5 5月議会での日本共産党の質問に、市は「是正指導おこなっている」「強力な措置を講じ

る」と答弁

日本共産党は1986〜91年の本会議で11回の質問をおこなう

89・12 地元住民らが許可取消の審査請求

1990年6月の三宅さんの本会議質問では

「1983年に『市会建設委員会に提出された是正計画にもとづき強力に原状回復という形で指

導する』とう答弁がこの年5月の開発審査会では『一応考える案として市会に提出したにすぎな

い』と業者側にたって乱開発の現状を容認する態度に後退している。議会を冒涜してまで業者の

便宜をはかろうとする姿勢は許せない」

923 京都市開発審査会は、開発許可を取消すという、市民常識にかなった画期的な裁決を下

した。その要旨は、是正のための開発許可は、()できるだけ山の形を残す、()できるだけ緑

を残す、()業者に不当な利益を与えない(クリーンハンド)ことが必要であり、京都市の山

の全面開発を認める再開発許可は、権限逸脱・濫用で違法とする明快なものであった。

一条山は小ぶりになってしまったが、かろうじて守られたのである。

 

その3 市原清掃工場

 

1991年5月31日、京都市清掃局は、地元住民に事前になん

の相談もなく突然、新聞紙上で左京区静市市原町向山に京都市最大

のごみ焼却場(日量900トン)を建設する計画を発表。

地元の市原自治連合会は、ごみ問題対策特別委員会と地元住民の

総意を民主的に反映するための対策協議会を設置し、ごみ問題対策

特別委員会地元住民の対市交渉の窓口とし、京都市と話し合いを続

けた。
1992
11月20日には、清掃局と「今後、事業につき特別委員会の了承を得て進めてゆくこと

を再確認する。問題をしぼって納得いくまで話し合ってゆく。話し合いの回数を重ねたからとい

って一方的に事を進めない」との確認書を交わした。

 ところが京都市は、焼却場の必要性や立地選定の理由について地元住民の了解を得られないまま

に、94年3月に地元住民の反対を押切ってしかも夜陰に乗じるという卑劣な手段にでて環境調査

に着手した。

1996年11月市会本会議で質問。

1997年1月20日、暦のうえでは大寒の日の午前4時過ぎ、市職員60余名、工事請負業者の作

業員80余名がやって来て「市長の命令だ」と豪語し、強引にごみ焼却場の建設工事が着工された。

2001年3月24日左京区市原に建設さた東北部清掃工場の竣工式がおこなわれたが、来賓として出

席した自治連合会長の中村さんが地元住民を代表しての発言をされた。

中村会長は「平成8年には赤穂浪士の討ち入りをみるような早朝、抜き打ちの強制着工を京都市が

やった。京都市がここまでやるかとびっくりいたしました」「地元にとってこの一〇年間は京都市にた

いする怒りと悲しみとあきらめの交差した年月であった」「京都市のとった行為はどこからみても"

方自治は住民が主人公"とはほど遠いことであった」と述べ、最後は「ぜひ地元案に沿った公害防止協

定を一日も早い締結を求めます」ときびしい批判と要求であった。

2007年4月 最高裁が談合認定、画期的な勝利判決

原告774名が提訴していた市原野ごみ焼却場建設談合裁判で、4月24日、最高裁判所は、裁判官

5人全員一致で住民勝訴を決定した。川崎重工は京都市に18億3120万円を、年5分の利子を

つけて支払うことが確定した。(返還金は約24億円)