あさひ荘
正面車の止まってる位置付近に”あさひ荘”の玄関が有った、右側は鬼子母神病院
鬼子母神病院の隣、鬼子母神の向かいに譲さんの住んでいた”あさひ荘”があった。現在は音大の校舎の一部となり面影は跡形もない。”あさひ荘”は当時の一般的な木造2階建てのアパートで、住民たちは玄関より靴を脱いで入り、板の間の廊下づたいに各部屋に入る。当然、玄関には靴箱は有るものの、脱ぎ捨てた靴は散乱していた。廊下の突き当たりには共同のトイレがあり、譲さんの部屋はそのトイレの反対側のつきあたりだった。その頃一般的だった、住民たちのピンク電話が玄関の横階段の脇にあった。その電話で、謙さんの会社に『兄は熱を出していますので休ませて下さい。』と弟になったこともある。
『たにし』で飲んだ後、春、夏、秋、冬と数え切れないほど泊めて貰った。初めての印象はなんてごちゃごちゃに散らかっている部屋(失礼!)。譲さんはいつも鍵はかけない、ある時”あさひ荘”に泥棒が入り、住民たちの部屋の鍵が壊され金品が盗まれた。所が、譲さんの部屋だけは何も取られ無かったと自慢していた。
謙さんの部屋(撮影、1977頃 中村 譲)
鍵のかけていないドアを開けると、入り口すぐ右側に小さな水まわり、そして鬼子母神病院側の窓を頭にした万年床。机の下には雑誌『優駿』が積み重ね、部屋に吊ってある洗濯ひも(?)には、数年分の相撲番付表がつり下がっている。猫の”お軽”は押入の唐紙に開いた大きな穴から飛び出し、机やコタツの上をはね回っている。部屋には常連たちの不要になったものを貰い受けた家財道具、生活用品であふれている。それらは、それぞれ型は古いが、一応使えるものだった筈、この部屋に来てから埃をかぶってしまったり、壊れたりしたものだ。その中でも、僕らが零戦と呼んでいたものがある、それは石井さんから貰った扇風機。扇の安全カバーが全く無い、これでも夏は重宝していたが、カバーが無いために寝返りをうったときなど、その鉄製の黒っぽい扇に当たっては激痛で飛び起きる。またかなり古いタイプだったため、風と同時にモータの熱風も吹いてくる代物だった。これを石井さんに話すと、あげたときにはちゃんとカバーがあったそうな。(石井さんの名誉のためにも)
そんな貰い物ばかりの譲さんの部屋に、丸井のクレジットで購入した製品がある。それは荒井沙知さんのLPを聴くために買った、ミニコンポステレオ。プレーヤの上は温かいので”お軽”の定席となっていた。その後、丸井で購入する事に味をしめた、譲さんは服を買ったり、石橋さん保証人のクレジットを愛用していたようだ。
”お軽”の気性はかなり野性的、狩猟を好む雌猫。朝起きたときに彼女が興奮しているときは、大抵獲物を取ってきたとき。ネズミ、境内の鳩、時には九官鳥を捕らえてきたこともある。部屋の中に連れ込むので、後の死体処理が大変。
お軽の寝ているプレーヤの後ろにあるLPが荒井沙知さんのアルバム(撮影、1977頃 中村 譲)
譲さんに聞いた話です。いつも部屋には鍵をかけない譲さん、部屋は廊下を挟んでトイレの反対側。夜中寝ているときに、酔った女性が入ってきた、ビックリして目を覚ますとその女性電気を探しているではないか。そのうち座り込むための位置を確認し始めたらしい、最後にはその女性間違ったことに気づき、座り込まれることはなかったとの事だが、布団の中でビックリの譲さんこの時間かなり長く感じたとのこと。
そんな譲さんの部屋、綺麗に掃除をした事が2回ほど記憶にある。それは僕が行くようになってからの回数なので、本人の弁はまた違うでしょうが。万年床は押入、隅に押しやられた埃だらけのコタツがきれいになって部屋の中央に移動していた。すき焼きパーティーを石橋、長尾、中村、作井(敬称略)でした時でした、今思い返すと何ですき焼きパーティーを譲さんの部屋でしたのか覚えていない。だだ、前日に『たにし』で中村、長尾で喧嘩をしていたのは覚えている。理由は忘れたが、長尾さんの頭を譲さんが小突いた、長尾さんは怒り『俺は、親にも手をあげられたこともないのに、何で他人の中村がたたくんだよ!』喧嘩はそれで治まったが、たぶん石橋さん機転での仲直りの会だったのだろう。
向かって右側が長尾さん(たにし最終日)
これは『たにし』が無くなってからの事ですが、石橋さんが例によって譲さん宅に泊まった翌朝。新聞の一面にも出た大きなガス爆発が近所であった。丁度、あさひ荘から明治通りに出たところのマンションでの爆発、原因は自殺未遂、部屋からはベット、家財道具などが明治通りに飛び出し、向かいのビルなどのガラスが全部割れた事件です。譲さん出勤後に起きた石橋さん、タバコを買うためその爆発したマンションの向かえのタバコ屋に行くため部屋を出た。途中財布を忘れたことに気づき、引き返しあさひ荘の玄関に着いた時に大きな音と衝撃があった。現場からはかなり離れているのに玄関のドアが開くほど強い衝撃だったらしい。石橋さん運の良いことに財布を忘れて九死に一生でした。
譲さん、プライベートを無断でお許しを!
住んでいた本人の情報を基に修正いたしました。2000年3月27日
2000年3月 作井 正人
訂正・追加
「あさひ荘」の記事読みました。あさひ荘に泥棒が入ったことはありますが、その時は何も取られていません。部屋が空いていたので、逆に入らなかったのだと思います。その後、「新目白ハウス」に移ってから、鍵がこじあけられた跡があったことがありました。しかし、取られた様子もないので、開けるのに失敗したのだと思っていたら、数日後に警察から連絡が入り、捕まえた泥棒の自供によると、僕の部屋から相撲雑誌を二冊ほど盗んだとのこと。「訴えますか」と聞くので、「相撲ファンなら良いです」と答えましたが、僕の部屋で泥棒さんにとって気に入ったのは相撲雑誌だけだったのかと思うと、おかしくてたまりませんでした。
また、石井さんにもらった扇風機の羽は黒でなくて水色でした(かなりくすんでいたが)。それに机や炬燵の上はいつも使っていたので、埃だらけではなかったはずです。
すきやきをしたのは大抵、鬼子母神の御会式の時で、確か10月17日頃でしたか。御会式を見るには一等席だったものでした。昔と言うにはそんなに昔ではありませんが、当時はその頃は寒いものでした。
「たにし」からの帰り道、鬼子母神の鳥居の前まで“お軽”が迎えに来ていたことを思い出します。
2000年3月23日 中村 譲
鬼子母神
鬼子母神 参道
有名なミミズク屋さん、ススキでミミズクを作っている。正面は元”あさひ荘”