花火大会

正面 『風花』佐恵子さん、後ろにソバ森、(敬称略)


石橋邸で”花火大会”をはじめたのは『たにし』が店をやめた翌年からだったと思う。それ以来、7月の終わりにある多摩川の花火の日に合わせて”花火大会”が毎年恒例となっていた。石橋さん宅は多摩川の河原から30m位のところにあり多摩川の花火を見るには絶好の場所、当日には『たにし』の常連たちと風花の常連たち合わせて50名くらいが集まった。初めの頃はおばさんもお茶割り持参で来られ、風花のママの佐恵子さんも参加の盛大なものだった。

当初の頃、幹事は吉田、ソバ森(敬称略)、森さんは焼きそばの材料とバーベキュー、生ビールなどの運搬も含めて担当、吉田さんは総合の幹事で会費の集金なども含めて担当していた。花火の頃は夏休みでもあり、吉田さんは石橋さん宅の家庭教師として4〜5日くらいの泊まり込みの時もあったと思う。したがって、昼間にうかがったときなどは石橋家の留守番、家人はおらず吉田さんから『オー、いらっしゃい!』と家に招き入れて貰うこともあった。

また、ある時長尾さんが珍しくカメラ持参。カメラは今では当たり前のオートフォーカス機能だが、その当時、初めてそれがカメラに搭載され世に出たばかりの自慢のものだった。(掲載の写真は全て彼のカメラでの撮影)

川の花火が終わり駅の混雑もおさまった時間になると、おばさん達が帰られる。時間が経つごとに人数も減り仲間うちだけになる頃”W”さんの酔いも最高調、いつもの様に服を脱ぎはじめる。その後この”W”さんのストリップは花火大会の恒例となった。また、おばさんも帰られたので”春歌”を歌えとのリクエストがある、ただこの頃には、僕よりも譲さんの方が”春歌”デパートリーでは勝っていた。また、ギタ森・紗知さん中心におばさんとお店を思い出しての新曲『たにしのおばさん言ったよね!』を歌ったものだ。夜遅くまでの大騒ぎと歌声、今考えるとご近所づきあいも含め石橋家にはかなりの迷惑をかけたことだろう。
花火大会の日は久しぶりにおばさんと話し、また常連たちと懐かしいおばさんの”お茶割り”をたくさん飲んだことを覚えている。河原に出る時間も惜しく、飲んで遊んでいたので多摩川の花火は何時も音だけの見物でした。


左より吉田、中村、玲子さん(石橋夫人)、隣青木夫妻、石橋さん  

 花火大会の写真(ここをクリックで続きの写真)


石橋邸での”花火大会”つまりガーデンパーティーがよほど気に入ったのか”N”さん、『僕が結婚するときは、仲人は石橋さんにお願いします。披露宴はこの庭でするつもりです。いいですよね、石橋さん?』と飲むと何度もこの話をしていた。それから20年以上経つが、その石橋邸で開かれるはずのガーデン披露宴にはいまだお呼びが無いまま。

2000年4月  作井 正人


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