将校カバンの石井さん
当時、石井さんは20才代の後半、風貌はストレートな長髪に黒縁メガネのぶ厚いレンズ、『たにし』に来るときは必ず茶色い革のショルダーバックを肩から下げていました。石井さんを見かけるのは大抵カウンターの一番奥の方の席、印象的なのはカウンターを正面にして身体を右に左にとに向きを変えず真っ直ぐ座っていた事です。店に現れるのは、正規の『たにし』の入り口からではなく当然奥の常連ルートから、お茶割りよりもお酒、大抵は黙って一人で神渡(日本酒)を飲んでいた。
石井さんが『たにし』に現れると、中村さんが一回か二回必ずちょっかいを出す。カウンター席の遠くからいつもの様に甲高い声で、『石井さん…』、『ちょっと石井さん…』その内容に対して、石井さんは『無視する』、『うるさいんだよ中村!』、顔を合わせずに『ばか!』と一言、『何か返答』、等々有ったが。時たまは調子のよいときは、黒縁メガネの中が一瞬笑って乗ってくる時もあった。声をかける内容は大体、二人の間の将棋の勝敗、鬼子母神の近所の店・人の話題(オカマさんのモモちゃんなど)、明治通りに面した鬼子母神の表参道のはす向かいに有る『ふくや』飲み屋、その『ふくや』の3人娘の事等々。
(石井さんの実家と中村さんのアパートは鬼子母神を挟んだごく近所でした。)
しかし互いの会話は席が遠いためか石井さんの機嫌が良い時でさえ数言で長続きしなかった。会話がとぎれると、石井さんはカウンターにきちんと向き直って一人黙々と酒を飲む、いっぽう中村さんは、常連達とまた元の話題に戻っていく。『たにし』のカウンターで両脇、さらにその隣まで巻き込んで右へ左りにと盛り上がって忙しい中村さんとは対象的、その二人が席を隣にしたことは殆ど無かったと思う。僕も何度かおばさんや常連達を写しているときに、カメラを向けると不機嫌そうに『やめてくれよ、俺の写真とるなよ!』といつも断られた。したがって、残念ながら『たにし』で石井さんが写っている写真は全然無い。どちらかといえば、『たにし』では無愛想でしたね。(失礼!)
裏庭からたにし亭の台所
おばさんが店を閉める一年か一年半前になると、夜遅くまでは疲れると終わりの時間がだんだんと早くなっていった。それに伴い、『たにし』が看板になってから次の店に行く機会が増え、中村さん、石橋さんにいろいろと連れていって貰った。そんな中で、『ふくや』にも行く事が何度かあった。お店に入ると、先程まで『たにし』に居た石井さんが一人で酒を飲んでいる。また、ここで中村さんが例のごとく話しかけと、『お前ら他の店に行けよ!うるさいな!』、しかし、すでにアルコールが入っている為か『たにし』で会う時より少し機嫌がいい、黒縁メガネの中が少し笑っている。
将校カバンの石井さん(石井孝典さん)と、常にみんながそう呼んでいた訳ではない。誰が最初に言ったか覚えていないが、『石井さんのあのカバンは将校カバンですね!』と話題が出たことは何回かあった。また、石井さんの『将校カバン』は当時のあこがれの的でもあったことは事実です。今『将校カバン』の言葉を思い出すと当時の”あの石井さん”がそのままが目の前に出てくる気がします。
『たにし』の常連の中に同姓としてそれぞれ中村;2名、森;2名、石井;2名、『中村さん』(中村譲さん)、『本屋の中村さん』(中村不二生さん;書店を経営されていた)、『森そば』(森延郎さん;中華料理屋)、『ギタ森』(森岳史さん;当時フォーク歌手?奥さんの幸子さんは本当にフォーク歌手だった)、『ペンキ屋の石井さん』(石井満さん;塗装業)とそれぞれ同姓の人を区別していました。『ペンキ屋の石井さん』がすでにいましたので石井さんは『石井さん』でした。
まあ、その当時の石井さんは将校カバンの様なショルダーバックを肩に掛け、黒縁のど厚いメガネにストレートの長髪、一人黙って酒を飲むタイプ、我々とは一線を画していたと思います。
余談になりますが、『たにし』が店を閉めてから後の話です。夏目恵子(さとこ)さんとお付き合いされている頃から、どんどんとその画していた一線が崩れ、ついに結婚されてからは完全に線すら無くなってしまった。今では、黒縁メガネの中の目はいつも笑っています。さすが恵子ちゃんの影響(愛?)は素晴らしいものですね。
石井さんと恵子さんの結婚式
1999年5月 京都にて石井さん、石橋さん
おまけ;石井ご夫妻の飼い猫”ミック”(白)2000年2月 石井さん撮影
2000年2月 作井 正人