石橋さんのおみやげ
お茶割りのおかわりをお願いする中村さん、右端は石橋さん
『たにし』に通っていると、お客さんの層が時間帯で3回ほど入れ替わっていました。開店の6時頃には大先輩の常連の方々が多く、開店早々もありお品書きにある一品ものの料理、おでん、当時我々の羨望の的であったマグロの刺身などで堪能され、仕上げには茶飯を食べられてお帰り、また8時頃にはまた違う層のお客さん。我々の行く時間は9時半から看板までが多く、石橋さんもこの時間帯が多かったと記憶にあります。よく石橋さんに意見を聞くと必ず帰ってくる言葉は『世間はむにゃむにゃですよ!』で、この言葉が口癖のようでした。石橋さんのタバコはピース、お酒が強く、『たにし』で酔ったことはほとんどなかったと思います、ただ一度だけだいぶ酔っぱらって帰られたときにおばさんが心配して、『作井さん、心配だから見に行ってよ!』と頼まれたような記憶があり、その時は確かぼくも何回も泊めて貰っている中村さんのアパート(鬼子母神病院の隣のあさひ荘)でお休みになっていたと思います。
お品書きがどんどんと消されていく
我々が、『たにし』に行く時間の頃には小さな黒板に塗の粉を水で溶いて筆で白く書かれた料理がつぎつぎと消されてほとんど売り切れ、また茶飯も残っているときはごくまれでした。ただし、おでんは十分に余裕があり、たまにはおでんを頼んだこともあります。看板の時間に近づくと、おばさんはおでんの大きな鍋からおでんの具とおでんのダシを別々にボールに片づけていました。一度おばさんに『どうして、別々に分けるんですか?』と質問したところ、おばさんは『ダシと一緒にしておくとまずくなるのよ』
大きなおでんの前でおばさん注文を聞くところ
お客さんのおでんの注文に
真ん中に石橋さん、大体この辺が石橋さんのいつもの定位置
大橋さん、矢島さん、ソバ森(森さん)、石橋さん
おばさんがおでんを片づける時間になると、石橋さんはよく家へのおみやげにとおでんを頼んでいました。おばさんは最初に水の漏れない半透明の袋におでんを入れます。半透明の袋におでんがどんどん入り、最後におばさんが袋の口を縛ると、袋に残った空気がおでんの熱でぱんぱんに膨らんでいくさまが鮮明に記憶にあります。当時、おでんをお願いするときも、『おばちゃん、大根一個』と注文していたぼくには途方もない量のおでんでした。おばさんはその口の縛ったおでんの袋とからしをべつの袋に詰め、その二つを『たにし亭』専用の高級な紙袋に詰めてカウンター越しに石橋さんに渡していたことよく覚えています。
『たにし』が看板になる時間になると、石橋さんのおみやげづくりとおでん鍋の片づけを横目で見ながらその日最後の一杯のお茶割りを飲んでいました。
後で判ったことですが、おみやげを持って酔うこともなくシャキと帰った筈の石橋さんも『たにし』を出た後には、緊張が緩んだのか、その『たにし亭』専用の紙袋に入ったおでんを無事に家のおみやげにできた事は本当に数少なかったそうです。大抵は、山手線の網棚の遺失物となったそうです。アァーもったいない!!
2000年1月 作井 正人