メモリー

夏の暑い々々日、僕は家庭教師のアルバイトを終えて面影橋から、神田川を渡り雑司ヶ谷に向かう坂を登っていた。上り坂でもあったが、すでに胸は大きく鼓動していた。心の中で、何か香苗さんに惹かれていた。「いや、そんなことはない、ただ何となく来たんだ。」などと自分で自分をごまかしながらも足は自然と雑司ヶ谷、彼女が住んでいる下宿の方向に向かっていた。


豊坂の大きくうねり曲った所で、真夏の日差しの照り返しがとても眩しかった。坂道に刻まれている滑り止めの細い溝と、神社の大きなけやきの杜が作り出す木陰のコントラストが目に焼き付いた。うるさいくらいの油蝉の鳴き声、汗で背中に張り付いたシャツ、不安と動揺を異様にかき立てた。「これからどうしようか何でここまで来たんだろう。やはりこのまま帰ろう!」

しかし、歩く方向は自然と仲間たちで行った、彼女の面影の漂う喫茶店「なずな亭」に向いていた。「そうだ、喫茶店で汗をさまそう、それからの事はそれから考えればいい。」自分で自分にそう思いこませた途端、うるさかった油蝉の声が急に遠くへ行った。

「なずな亭」の扉を開け中にはいると、今までの暑さが嘘のようだ冷房が涼しく、背中の汗が冷たかった。「まずは注文」とコーヒを飲み、ハイライトを吸った。不安が少しだけ和らぎ、変に正当な理由付けをしている自分に気づいていた。「香苗さんに電話をしよう、いやそれはまずい。大丈夫だろう、こんな時間に電話をしても彼女は留守で出かけているはずだ。」本当は彼女が居ることに期待して、来てくれることを切望しているはずなのに、なにかに怖がっている自分がいた。 あまり良くない印象を持っていた香苗さんに対して、その気持ちが180度も変わった自分を認めたくなかったんだろう。そんな自分を友人、いや知るはずもない彼女に知られたくなかったかもしれない。

電話で聞く彼女の声は新宿で飲んだときと全く同じ、それ以上素敵だった。
会う約束をして電話を切った後でも、まだ不安と期待で胸が高まっていた。僅かな20分が本当に長く感じた。

「なずな亭」に入ってきた香苗さんは、微笑みを浮かべ、木綿のワンピースに麦わら帽子姿で立っていた。僕は彼女の笑顔で救われた、気持ちが落ち着いた「ああ、やっぱり今日此処で彼女と約束した事は悪いことではなかったんだ。」
彼女に会えて嬉しい、自分の気持ちに正直でよかったんだ。
その時、21才の今まで経験したことのないほどの幸福感に浸っていた。

それから、何を話したか瞬く間に時間が経った。やはり、新宿で初めて一緒に飲んだ時以上、僕には素晴らしい女性だった。話すほど、時間が経つほど、彼女を思う気持ちがどんどんと心の中で大きくなっていた。
まわりも薄暗くなったそんな時、香苗さんから「この先の十兵衛にボトルがあるの。」と飲み行かないかと誘われた。

喜び勇んでいった十兵衛で、彼女を喜ばそうと一生懸命喋っている僕。しかし、先程までの満たされた気分が一瞬のうちにしぼんでしまった、それでも僕は顔色を変えずに彼女がただ々々喜んで、にっこり笑ってくれる事だけを期待して話し続けた。キープされたサントリーの角瓶のボトルのラベルにはマジックで書かれた男女4人の頭文字、彼女と男の文字が目に焼き付いていた。

いつしかあの男の頭文字を入れ替えることを夢見つつ…