ペンキ屋の石井さん『ニーハォ』、本屋の中村さん『ツァイツェン』
ペンキ屋の石井さん、おばさん
ある時『たにし』に入ってくるなり、ペンキ屋の石井さんは『ニーハォ』、『ツァイツェン』と満面笑みの大機嫌。遅れて入ってきた、”本屋の中村さん”たちと妙に盛り上がっている。話の内容から、台湾へ旅行へ行ったらしい。何日が過ぎて、だんだんと様子が見えてきた、やはり『たにし』の有志のグループで台湾旅行に出かけたと言うことだ。”ペンキ屋の石井さん”はそれからしばらくの間は挨拶が中国語、相変わらず会えば『ニーハォ』だの『ツァイツェン』などと上機嫌。金もない中村、作井には声も掛かるはずがもなく、石橋、渡辺は誘われていたかどうかは分からないが旅行には行っていなかった。(敬称略)
”ペンキ屋の石井さん”は、”将校カバンの石井さん”と違っていつもニコニコ笑顔で、常連達と機嫌良く相撲、野球の話を肴にお茶割りを飲んでいました。おばさんも二人を区別するときはちゃんと”ペンキ屋の石井さん”と長い名字のように使い分けていた。これは、”本屋の中村さん”に対しても同じでした。
”本屋の中村さん”は名前の通り雑司ヶ谷で書店を経営されておられた。大抵はお一人で来られていたが、息子さんが18才になってから(多分それ以前と思うが)はよく親子二人で来られていた。口癖は『ぅーん、ぅーん…そうねー』、『ぅーん、ぅーん、ほんとーだねぇー』、『あぁーそうねぇー』と合図知を打ってくれること。”本屋の中村さん”には『たにし』が終わりの時間になった後に次の店に飲みに連れられ、ご自宅の向かいの離れに何回か泊めて貰った。
左より、沙知、石橋、伊藤、本屋の中村さん(敬称略)
それから数ヶ月すると、少し前まで上機嫌で旅行の話をしていた常連達が、今までとはうって変わって何やら相談してることが多くなった。どうも、旅行を企画した人間を含めた何人かが仲間を騙してタダで行った事がわかったからだ、参加していない我々には全然関係ない、何処吹く風か。
どうもその企画した人間とはここ数ヶ月『たにし』に通い初めて常連達に入り込んだ”T”さんのことだった。”T”さんは自称、僕の大学の助教授のふれ込みで瞬く間に、常連達の仲間入りをした人。僕も、隣の席で一緒になったが僕の成績のことなどやたら詳しいのでそれが偽りだとは夢にも思わなかった。カウンターで大学の具体的な話するので、多分他の常連達もそれを聞いていて信じ込んだのだろう。また、彼は話術にたけ、人の名前も直ぐに覚え誰とでも旧知の仲になる才能があった。だだし、常連たちと大きく違うのは目の鋭さだった。
旅行に行っていない我々(石橋、中村、作井など)は詳しい事もわからず、不満の理由もわからなかった。ただし、その”T”さんが常連の不満が募ると同時に『たにし』にプッツリと来なくなった。ある時、『作井が助教授だと言うから信じたじゃないか。』と文句を言われたこともあり、この時初めて、旅行で何か常連たちが騙されたんだとなと思った。そんなある日、『たにし』に入ると何か揉めている、常連の”K”さんに対して、”T”とその女友達がなじっていた。その後”K”さんを追うように二人が『たにし』を出た。今まで、事の成り行きを始めから終わりまで知りつつ、数ヶ月も沈黙を守っていたおばさんが突然、『作井さん、森さん(ギタ森)”K”さんが危ないから見に行ってあげて…』
その後、どの様な結果・結論になったのか?
またどの様に”T”さんが皆を欺いたのか?
旅行に行っていない我々は詳しくは知らない。その”T”さんはそれからは2度と『たにし』には来なくなった事と『ニーハォ』、『ツァイツェン』などの言葉も台湾旅行の話も『たにし』では聞かなくなり、また昔と全く同じ『たにし』に戻った。当時の為替では1ドル=250円以上の時代、隣国の台湾へ旅行するも大金であった。一人分二人分の旅費を黙って皆の参加費から支払うのは許せないことだったろう。
その”T”さん、まず僕を騙して常連たちに信用させたのは事実、ただし『たにし』で誰が信用があるかすぐに気が付いた。常連たちに信用のある”Y”さんを味方に付けた事を後で聞いた。
風の噂では、その旅行にタダで行ったのは”T”とその彼女、それに”Y”さんだったらしい。この件に対して、旅行に行っていない僕はだいぶ責められたが、”Y”さんに対してはお咎めがなかった。
2000年3月 作井 正人