高橋新太郎先生を偲ぶ

2003年1月11日、享年70歳でご逝去されました。先生の思いでを皆様から頂戴しました。


2001年8月多摩川の花火大会(石橋家にて)



 作井様 突然のメールで大変失礼致します。 緒方と申します。 すでにご承知かと存じますが、高橋新太郎先生が1月11日に亡くなられました。 私の父は先生のご親戚と子供の頃からの友人であったのとホッケーの関係で、また私自身は学生時代(20年程前)友人の紹介で先生とご一緒して以来、親子で先生にご交誼戴いておりました。

 「たにし会」のことは高橋先生から在る時に「今日は古い飲み屋の集まりがある」と伺ったことがありました。一昨日先生ご逝去の連絡受けた後、たまたまネットでこのHPを拝見致しました。 今日更新されたと思われる12月21日の「たにし会 忘年会」の 中に先生の恐らく最期のお写真、しかもグラスを持った・・・と思われるものを見つけ、生前のお姿を偲ばせて戴きました。私にとっては大変心を揺さぶられるものでした。ご承知のように先生はいつもお酒が大変お好で、毎年晩秋に伊豆の温泉で集まる会があるのですが、今年 11月にお会いした際も「薄いのなら飲む。自然体だよ。」と仰っていつものように飲んでおられました。そのお姿が忘年会の写真の様子からも思い出されます。(先生は大変お酒が強かったですが、いつも皆で不思議だとか神業だと言っていたのは、夜も更けてくるとグラスを持ったまま、ウトウトされることです。何故グラスがキープできるのか あのお姿も見られなくなってしまいました)どうか先生の思い出、また皆さんの思い出とともに「たにし亭」の HPと「たにし会」が末続くようにお祈りしております。  

唐突なメールで大変失礼致しました。 季節柄お体お厭い下さい。

 緒方喜雄



 織方氏は全然知らない人だけど、良いメールだね。感激したよ。
 学習院大学の大学葬ということもあって、通夜には凄い人数が列席、秋篠宮と紀子さんも焼香に来ていたし、改めて新太郎先生って凄い人なんだなァと思った。でも、俺たちにとって新太郎先生は、飲み仲間なんだよな……。通夜の帰りに、お寺の近くのうどん屋で集結して“献杯!”その後、“ざざんざ”で二次会という、いつものコース。
途中から先生も参加していたと思う。

 森 岳史



 新太郎先生の最も印象に残っている姿は、短大の沖縄への研修旅行の際に花束を手に海の方へ向かわれた後姿です。私が最後にお目にかかったのは平成9年秋の国語国文学会の折でした。出産したことを申しましたら、「可愛いでしょう。でも、一人ではかわいそうだよ。」とおっしゃって下さったことが本当に嬉しくて有難く存じました。もう2度とお目にかかれないとは、そんなにも時間が過ぎていったのだなあと無常を感じます。

新太郎先生の御冥福を心よりお祈りいたします。

熊谷弥穂



新太郎先生のこと

 新太郎先生に初めて会ったのは当然たにし亭で、僕がたにしに通い始めた大学生の最後の頃だから、1971年頃になるでしょう。その頃の先生の印象というと、カウンターの隅でよく眠っていたが、目を開くといわゆる“目が座った”感じで、睨んだ視線が恐かった。そして僕は店では一番の若造で生意気なことばかり言っているものだから、目が遭うと口には出さないものの、いつも非難されているような感じがしたものだった。そういうわけで当時は先生とあまり話したことはなかったろうし、ほとんど記憶にありません。

 たにしが店を閉めてから我々は路頭に迷うことになった。それぞれが行く店がバラバラになったのだが、そんな中、新太郎さんが以前から通っていたのが目白駅(学習院)を挟んで、たにしとは逆方向に同じような距離にある「風花」であった。まず、そこに石橋さんが通い始め、その情報によって僕も行くようになった。そして、いつの間にか風花にはたにしの常連からの切望によりお茶割りが置かれるようになり、あっと言う間にメイン商品になってしまった。新太郎さんと親しく言葉を交わすようになったのは、それからだったような気がする。その頃は僕ももう30歳代に入り、先生の相手ができるようになっていたのかもしれない。

 そんな時の会話。「違いが分かる人のコーヒーのCMに出る人は楽してるね。僕も出てみたいな」「楽器のできる人を僕は一番尊敬するな」(風花に置かれているギターで僕が弾き語りした後)「あのスポーツ店は大嫌いだ」(僕が新宿・大久保の店で登山道具を買ったことを聞き。山で悲しい思いをしたことがあったらしい。その話を聞くことはなかったが)。

 たにし会で伊東に行った時、帰りに小田原城を歩いた折り、全盛期だった柔道の山下選手が可愛い女性と歩いているのに出くわしました。すると先生は「山下さんは譲さんより背が低いね」と言われ、考えていることがちょっと違うかなと思ったものでした。

 先生は一見ではムッツリしている感じでしたが、人の話が面白いと呵々大笑して顎ヒゲを撫でていましたっけ。そして間違ったことを言うと厳しいけれど、できるだけ誉めてあげようと気を遣っていたような気がする。

 8年前頃でしょうか。博多にみえて一緒に飲み歩きしました。その時行った店の女性に対し「あなたはいずれ太りそうだ」と言ったそうです。その女性はその後、「予言通りになった」と嘆いていました。

 僕の本棚に先生が編集した「文芸用語の基礎知識」があります。昭和57年版です。それを見ると先生が思い出されます。でも、その本を開いたのは先生の訃報を聞いた日が初めてではないでしょうか。その日、初めて先生の年齢を知りました。飲ん兵衛には職業、年齢は関係ないのは良いことですね。
 

 この冬には後藤監督作品の「雪国」の地に行くのを楽しみにされていたとのこと。その際は僕も是非ご一緒したいと思っていましたが、それも叶わぬこととなってしまいました。今でも「ゆずるさん、ゆずるさん」とコップを手に持ちながら笑いかけてくる顔が目に浮かんできます。新太郎先生、良い所でおいしいお酒を飲んでいることでしょうね。長いことありがとうございました。

 2003年2月2日  中村譲


風花のメンバーと(2001年1月21日、東京・落合の銭湯にて。前列左から3番目が新太郎先生、左端が筆者)



目白の「なすび」でも新太郎先生は女にも男にも モテテもてて待たれて 敬愛されていました。なすびには50年近く通っていました。学生時代からです。二〇〇二年なすび忘年会には二次会にも参加されて ヨロヨロでしたが女性達に囲まれ保護されるかのようでしたが あれがみんなへの別れの挨拶なのでした。11月から十二月には痩せた疲れた体で5回も来てくれて アルコールが入ると元気が出るのよ。と言ってました。
                

2003年2月24日

なすび いとうちあき



 新太郎先生に初めてお目に掛かったのは、『たにし』でした。当時私はまだ学生で、先生は『たにし亭』に早い時間にお見えになる事が多かったのか、お話をさせていただいた記憶はありません。『たにし亭』が閉店してからは、『たにし亭』の仲間で目白駅の反対側の『風花』に通うようになり、そこで先生と初めてお話をするようになったのだと思います。先生の名刺を頂いたのも『風花』でした。

 『たにし亭』の仲間達は誰々を誰々に紹介することはあまりなく、だから名刺交換などしている光景は『たにし亭』では殆ど無かったと思います。私が人の名前を覚えたのは、ただ呼ばれている”その人の名前”を記憶して、次にその名前で話しかけることから始まりました。先生も私の名前を同じように覚えてくれたのだと思います。私が先生の名刺を持っているのは、卒業して社会人となり初めてそれを手にしたので、たぶん嬉しくなって先生と名刺交換をしたんだろうと思います。

 就職が京都になったので、『風花』に行けるのも年に何回かだったと思います。でも、先生は行く度に必ずカウンターに座っておられた気がします。また、先生とは『風花』の”はしご”、山手通りの向こうの『エデン』でよく再会しました。当時は皆若くて元気だったんです、何軒も”はしご”をして最後が朝までやっている『エデン』でした。夏だったと思いますが、先生と『エデン』でまた出会って、店を出るときには太陽が煌々と照っていたことを思い出します。先生もまだお若く、酒も相当に強かった。

 ここ数年は先生にお目に掛かれたのは、石橋さん宅での多摩川”花火大会”か『たにし亭』の忘年会のどちらかでした。

2003年2月26日

京都市 作井 正人


1996年12月13日『たにし会』にておばさんと一緒に


2001年5月19日、おばさんの米寿を祝う会(池辺さんと)


2001年5月19日、おばさんの米寿を祝う会


2001年8月多摩川の花火大会(石橋家にて)


1977年頃、(たにしにて木原さん、自転車の佐藤さんと一緒に)


2003年1月13日 朝日新聞訃報記事



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