出会い
その日は前期試験も終わり、大学が夏休みに入っていた7月の終わり、新宿で友人と会っていた。丁度、喫茶店でコーヒを飲んでウダウダ喋って、夕方近くにもなったのでこれから西口の今佐へ行こうと話がまとまっていた。
それまで、僕は彼から杏子さんとの付き合いの話、デートの話、別れた話の多くを聞いていた。何度か彼女とは口を利いた事もあったが、彼女に対しての印象は決して良いものではなかった。何故かというと、友人達を何人も乗り換えては捨てている様に見えていたからだ。また、美人で、品のあるところに僕はよけいに近寄り難さ感じたのかも知れない。
ところが彼、今佐へ行こうと話している時『佐藤、杏子ちゃん呼ぼうよ!』と言いだした。『え!』と思ったものの、男二人で飲むよりきれいな女性がいた方が良いのに決まっている。僕も即賛成した。運良く彼女も下宿にいて連絡が付き30分ほどで、にっこり笑っている杏子さんが今佐にいた。
彼はすでに彼女と別れていたとはいえ、昔のよしみ。今佐の4人掛けのテーブルに彼女の隣に座った。僕は丁度彼女とは向かい合わせに席を取り、ビール、日本酒と酒がすすんでいった。楽しい会話が続き、時間が経つほど、酒を重ねるほど『あれ、以外と彼女悪いひとじゃないな』と頭をよぎりだした、むしろ『凄いいい女性』と気持ち変わっていったような気がした。
そのうち、どんどんと、僕の心の中で激しく動くものがあった。
なんて魅力的な笑顔なんだろう!
なんて美味しそうに酒を飲む人なんだろう!
なんて、きれいで優しい声をしているんだろう!
なんて!…
なんて!…
すでに、その時には友人の事はすっかりと頭から消えていた。
初めてのデート
夏の暑い々い日、僕は家庭教師のアルバイトを終えて面影橋から、神田川を渡り雑司ヶ谷に向かう坂を登っていた。上り坂でもあったが、すでに胸は大きく鼓動していた。心の中で、何か杏子さんに惹かれていた。「いや、そんなことはない、ただ何となく来たんだ。」などと自分で自分をごまかしながらも足は自然と雑司ヶ谷、彼女が住んでいる下宿の方向に向かっていた。
豊坂の大きくうねり曲った所で、真夏の日差しの照り返しがとても眩しかった。坂道に刻まれている滑り止めの細い溝と、神社の大きなけやきの杜が作り出す木陰のコントラストが目に焼き付いた。うるさいくらいの油蝉の鳴き声、汗で背中に張り付いたシャツ、不安と動揺を異様にかき立てた。「これからどうしようか何でここまで来たのだろう。やはりこのまま帰ろう!」
しかし、歩く方向は自然と仲間たちで行った、彼女の面影の漂う喫茶店「なずな亭」に向いていた。「そうだ、喫茶店で汗をさまそう、それからの事はそれから考えればいい。」自分で自分にそう思いこませた途端、うるさかった油蝉の声が急に遠くへ行った。
「なずな亭」の扉を開け中にはいると、今までの暑さが嘘のようだ冷房が涼しく、背中の汗が冷たかった。コーヒを飲み、タバコを吸った。不安が少しだけ和らぎ、変に正当な理由付けをしている自分に気づいていた。「杏子さんに電話をしよう、いやそれはまずい。大丈夫だろう、こんな時間に電話をしても彼女は留守で居ないはずだ。」本当は彼女が電話に出ることを期待して、来てくれることを切望しているはずなのに、なにかに怖がっている自分がいた。
あまり良くない印象を持っていた杏子さんに対して、その気持ちが180度も変わった自分を認めたくなかったのだろう。そんな自分を友人達、いや知るはずもない彼女に知られたくなかったかもしれない。
電話で聞く彼女の声は新宿で飲んだときと全く同じ、それ以上素敵だった。
会う約束をして電話を切った後でも、まだ不安と期待で胸が高まっていた。僅かな20分が本当に長く感じた。
「なずな亭」に入ってきた杏子さんは、微笑みを浮かべ、木綿のワンピースに麦わら帽子姿で立っていた。僕は彼女の笑顔で救われた、気持ちが落ち着いた「ああ、やっぱり今日此処で彼女と約束した事は悪いことではなかったんだ。」
彼女に会えて嬉しい、自分の気持ちに正直でよかった。
その時、21才の今まで経験したことのないほどの幸福感に浸っていた。
それから、何を話したか瞬く間に時間が経った。やはり、新宿で初めて一緒に飲んだ時以上、僕には素晴らしい女性だった。話すほど、時間が経つほど、彼女を思う気持ちがどんどんと心の中で大きくなっていた。
まわりも薄暗くなったそんな時、杏子さんから「この先の十兵衛にボトルがあるの。」と飲み行かないかと誘われた。
喜び勇んでいった十兵衛で、彼女を喜ばそうと一生懸命喋っている僕。しかし、先程までの満たされた気分が一瞬のうちにしぼんでしまった、それでも僕は顔色を変えずに彼女がただ々々喜んで、にっこり笑ってくれる事だけを期待して話し続けた。キープされたサントリーの角瓶のボトルのラベルにはマジックで書かれた男女4人の頭文字、それと小さく書かれた男友達姓での彼女の名。
いつしかあの頭文字を入れ替えることを夢見つつ…
告白
夏が過ぎ、秋が過ぎ街路樹の葉が落ちる季節となった。
友達としてつき合い、この数ヶ月彼女と二人またはグループで何回か会う機会を持った。ただ単に彼女の嬉しそうな顔が見たいために、彼女に会いたい為に。
スタート時点から僕には「彼女には別な好きな人がいる」とのハンディーがあり、悔しいけれどそれを事実として納得せざるを得なかった。
友人から聞いていることが何度も頭の中で繰り返される。『私がいなければあの人はダメになってしまうの、だから私はあの人と一緒にいなければならないの。』と彼女が友人へ言った別れ際の言葉だそうな。
21才のその年まで、確かに恋に恋をして好きになった人もいた。しかし、杏子さんに対する気持ちは決して恋に焦がれて好きになったものでない、初めての本当の恋だったと自分では思っている。
会って楽しい話をしていると、「佐藤さんて、本当にいい人ね!」と言われ、嬉しくもあったが、本当は悲しかった。僕の気持ち少しは気付いているんだろうに…
フォークソングの歌詩が全て自分に当てはまるような気がして、聞きまくっていた悶々とした毎日。
『かぐや姫』、『よしだたくろう』…
とうとう、彼女にこの思いを告げよう。彼女には好きな人がいるのは知っていた、もしもこの事を言えばもう会えなくなるかもしれない…。なかなか決心がつかなかった。ただ、彼女からすればいい迷惑かもしれない、「私には好きな人がいるのに何で…」その当時は相手の立場に立って考えることなど到底できなかった、それは恋からでもあり、年齢からでもあった。
11月の終わり、今世紀最後の皆既月食の日、杏子さんに電話をした。「明日どうしても話したいことがある。朝、9時に目白通り千歳橋でまっている。」と約束を取り付けた。
寒い朝、彼女は時間通りに千歳橋に来た、北風の冷たいコントラストの強い朝日の中だった。いつもだったらにっこりした笑顔をしているのに、その日は何か不安そう。「なんの話なの?」
取りあえず、立ち話もできず喫茶店に行った。そこでも、なかなか切り出せなかった、たわいもない話でごまかし。喫茶店のはしごを何軒もした後、ついに意を決して彼女に僕の思いを話した。
「杏子さん、ぼくは杏子さんが好きだ、つき合って欲しい…。」
しばらく沈黙の後、「私には好きな人がいるの、ごめんなさい黙っていて…。」と下を向いたまま、落ち葉の吹き溜まりをブーツの先でかき分けながら彼女は言った。
「その人がいることは知っているよ。でも絶対に負けない、今は杏子さんの気持ちはそうかもしれないけど、絶対に僕のことが好きになるよう頑張るよ。僕のチームと同じで前半戦は負けているけど、必ず後半戦で逆転だ!」と強気で僕は彼女にそう言った。そのとき、一瞬ほんの少し彼女の顔に微笑みが横切ったのを見つけた。
後半戦は苦戦の連続
チャンスは何度も々々も有ったのに
ゴールはならず
試合はとっくにノーサイド
知っているはずなのに
わかっていたはずなのに
心の中での延長戦
ただ、ただ
彼女の笑顔が見たいから
彼女の微笑みが好きだから…
2001年7月 佐藤 忠夫