●たにしへ



  夜も9時、『たにし』へと不忍通り、心持ち足取りもかろやかだ。今日もみんないるだろう。目白通りから左折してくるライトが眩しい、街の匂いと車の加速、もうそこは目白通り。ポケットに財布を確かめる、腰の上から押さえた手のひらと皮膚の間に財布を感じた、700円も有れば十分だ。本当に、今日も暑かった、汗で濡れた背中に風がとても心地よい、早稲田からは高台になるこのあたり木々も多いせいだろう。

 『たにし』で今頃、みんな楽しく飲んでいる、座れるかな。気づくと足取りも速くなり、胸も少し早く打っている。小さな公園前の横断歩道、待つ時間が長く感じる、いつになく車が多い。通りの向こう側、右手先にぼんやりと『たにし』の明かりが見えては消える、行き交う光がじゃまをする。歩道を渡り、近づくにつれ”暖かな明かり”が視界の中に大きく拡がる。夏のこの時期、半分開け放っているガラスの引き戸、風に揺れるのれん、その動く隙間からおばさんが見えた。いつもの笑い声が高々と店の外まで洩れてくる、今日も野球の話なんだ。何故か急にホッとして脚が緩む、かるく深呼吸をして店に入る。手の指から甲にかけて伝わるのれんの生地、裸電球の灯り、弾んでいる会話、笑い声、おばさんと目が合う、おでんと出汁のにおい、ちょうど席が空いている。





2002年4月  作井 正人


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