A's BIKE PLATZ |
出島氏の文章を引用いたします。
『そういえば、リドリー・スコットが監督してマイケル・ダグラスと松田優作が共演した「ブラックレイン」(’89)の中にも、オートバイ乗りが登場する。映画冒頭の、マイケル・ダグラスのブルックリン橋袂での賭けレースはともかくとして、日本版の暴走族が登場する場面。何故か連中が乗っているのはオフロードバイクだった。単純に、オートバイに乗っていればそれなりに「悪っぽさ」が演出されるということで、そういうこともたまにはある。』
この映画の深さを理解出来ない人は多くいるようだ。この中でオフロードバイクに乗っていたのは、その、走破性と機動性により、必然的に選ばれた物なのである。日本のTVドラマの中で、スタントがしやすく、安いという、理由で暴走族がオフロードバイクに乗っているのとは違うのである。
映画の中でオフロードバイクに乗っているのは松田優作の訓練された部下であり、彼らが日本風の暴走族を演じて見せたのである。しかし、乗りなれた自分たちのバイクで暴走族を演じなければならず、実は観客は「変だ」と思わなければ行けない場面なのである。アンディ・ガルシアはそれに気づかず深追いし、松田優作に殺されてしまうのだった。映画のクライマックスでマイケル・ダグラスと高倉健が手打ち式に飛び込む場面で農民が映される。足下を見ると、オフロードブーツを履いている。彼らは農夫に偽装した松田優作の手下なのだ。
「悪っぽさ」のためのオフロードバイクではなく、悪い奴等の乗っているすなわち機動部隊としての、オフロードバイクなのだ。実のところ、この映画の中ではオフロードバイクの扱いは理にかなった必然性のある部分なのだ。冒頭の賭けレースは最後の畑の中の追いかけや、何度も止められながらも追求を止めないマイケル・ダグラスの性格の伏線となっている。松田優作がGSX−R1100に乗っていることだけが映画の筋からは無意味になる。だが、これは同型のバイクに乗っていた私は許してしまうのだ。
細かく手を入れられたXLH1200やオフロードバイク機動隊や畑の中のバイクチェイス等、この映画からはバイクに対する愛情がある。そして、マイケル・ダグラスは本当にバイクが好きなんだろうと思うのだ。彼の他の映画でもさりげなくバイクを使っている。
さて、この映画の見所は、バイクという筋ではなく、文化の違い特に言葉を軸にして文化の違いを明らかにするところだろう。イタリア訛のアンディ・ガルシアと下町言葉のマイケル・ダグラスと標準英語の偉いさん。府本部長のキングズイングリッシュと高倉健の普通のジャパングリッシュと若山富三郎の片言英語。府本部長の標準日本語と若山富三郎の河内弁。典型的なつまりギャグでしかないほどの訛を詰め込んだ映画なのだ。これは、一般アメリカ人にも、一般日本人にも理解しにくいと私も思う。言葉で異文化を際だたせるのは、両方が分かっていないと不可能だが、両方を理解していないとそのギャグが分からない。だから、言葉のギャグには絶対コメントしない小林信彦氏は切り口として、ウェスタンを出してきたのだと思う。でもそれでは、日本へ護送する必然性はあまりない。
リドリー・スコット監督はこの映画は文化の衝突と和解であると語っていた。この映画では先ず特別日本的な物を見、アメリカ的な物を発見し、人間的普遍性を知って終わるのだ。途中演出がバタバタするところがあるが、それは、愛嬌であろう。多くの人がこの映画をもう一度見てくれる事を期待しております。私は友達の所へビデオを持って解説してまわりました。皆さん、この映画が良く分かった、いい映画だと理解してくれました。本当にいい映画だし笑えるんですよ。