<< その後のMARKU >>
MARKU;本名 大西武
愛車:マウンテンバイク、ミニカ(社用車)
NTRCの皆さんお元気ですか?私は、何故か、今群馬県の太田市という田舎に住んでます。何故かと言いますと、仕事の都合で転勤になってしまいました。早いもので、あれから10年たつんですよね。この10年間私も色々ありました。自動二輪の免許が1回取り消しになったり、車の教習所に3回通ったり(別の教習所ですよ)とその後、再び自動二輪を取り直したり色々と大変でした。その中で最も印象に残っているのが、つボイさんがハイ水を降りてから、名古屋の放送局で番組をやっていてその時のゲストに一本気蛮ちゃんが行くと本人から聞いて、無免許の状態で名古屋まで蛮ちゃんとつボイさんに合いに言ったことがありました。(今、思えばとんでもない事だ....)
さて、話はごろっと換わりますが、この10年間、私は何をしていたか、簡単に年表にしてみました。
- 1988年
- このころはまだ大工の仕事をしてましたが、同年10月頃転機が訪れました。○本氏の友人である戸○氏とは雀友であり、その戸○氏がすし屋でバイトしてまして、ある日突然『おい、タケちゃん。ハワイへいきたくないか?』と言われたので、『タダで行けるんやったら』と答えると、『実は、今俺のバイト先のすし屋で、板さん募集してるんやけどやってみいひんか?今やったら2年に1回、慰安旅行に行ける特典があるぞ。』と、甘い言葉にダマされて、すし屋で板前見習いとして板場に立ちました。(何人かは、私のにぎった寿司を食べてます。)
その後、約3年にわたって、西小路三条下ル松○みという寿司屋で働きました。
- 1991年
- 合宿で免許を取る事を理由にその寿司屋をやめ、就職活動をしてる時、某就職雑誌を見ると「週休2日、ワンルームマンションに月25,000円で住める」という大きな文字が目に止まり、「どうせなら、職人よりサラリーマンをやろう」と思い、友人の田中○也に相談した所、『おっ、この会社ええんちゃう、受けたら。』と薦められ、受ける事になりまして、後日、面接に行きました。「これ程の条件だす会社やし、大学行ってへん俺なんか受かる訳ないか。」と思いながら、面接を受けました。その会社の面接は見事に・・・・・・受かりました。これが、この業界こそが私の人生を大きくかえる事になるとは誰も想像しませんでした。
- 同年10月
- 突然「日本橋(東京)に支店出来るから、そこへ言ってくれ」と言われました。はっきり言って、考える暇をあたえてもらえませんでした。そうこうしてるうちに、東京という新天地へ・・・
この業界というのが商品先物取引の会社でした。某F氏はよく私に『そんな悪徳商法』と言ってましたが、別に悪徳商法の会社ではありませんでした。
さすがに仕事は精神的にキツかったけど給料がよかったので頑張ってました。
- 1992年7月
- ある日、同業他社から、『今以上の給料をだすからうちに来ないか?』という誘いを受けました。俗に言うヘッドハンティングというやつです。はじめてヘッドハンティングされてうれしかったので、すぐその会社に移りました。
- 1995年8月某日
- 前の会社で一緒に働いてた上司から連絡があり『今のポスト以上と給料も今以上出すから来てくれ。』と言われ、人間的にその上司は好きでしたので思いきって移動しました。
- 1997年11月
- 2年以上働いて、ある日「この会社はつぶれるかもしれない」という情報をキャッチしたのでつぶれる前にやめようと思い、おもいきってやめてしまいました。
- 同年12月
- そして、たまたまビー○ングという雑誌に今の会社が載ってまして『2部上場で、高校卒業以上、営業経験ある方、30まで』というので、「2部上場やったら、さすがに俺も受かるやろ」と受けたら、またまた受かってしまいました。今までの成績が認められたらしいのですが。そして、立川営業所に配属され、今年の6月に太田営業所に配属になりました。
今の会社は舞鶴に営業所もあり、京都市内にも近々出店するらしいので、そうなった時は念願かなって、ようやく京都へ戻れるはずです。今は、月曜日が休みなんで、イベントとかあってもなかなか参加出来ません。私の事をみんな忘れないで下さいね。
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