黄色い家 (川上未映子著) について



第一部 『黄色い家』の物語

 

発端の<黄>

 

  紺色の地の中央に縦長の長方形に切り取られた窓のようなスペースの向こうに石造りの沢山窓がある黄色い壁の建物のファサードがみえ、その横に黄色い文字で「黄色い家」というタイトルが印刷されたこの本のカバーをみると、一度それを見たことのある人なら、きっとすぐにゴッホの「黄色い家」を連想するだろう。
  ゴッホがアルルの「黄色い家」に住んで、自分と同じような画家たちが共同生活を送りながら互いに切磋琢磨してすばらしい芸術を生み出すような芸術家のコロニーの形成を夢見て画家たちに声をかけたものの、実際にやってきたのはゴーギャンひとりで、そのゴーギャンもゴッホの夢を共有していたわけではなく、わずか2カ月で破綻し、絶望したゴッホはみずからの左耳を切り落とす事件を起こしたことは広く知られている。
  ゴッホの「黄色い家」は外壁が黄色く塗られているけれど、小さな2階建ての建物で、ゴッホの描いた絵で言えば、むしろ同じラマルティーヌ広場に面した、その背後のやはり外壁が黄色の大きな建物のほうが、川上未映子の『黄色い家』のブックカバーに印刷されたようなファサードをもっていそうな建物だ。
  これら広場に面した「黄色い家」たちの背後には、濃紺の空がある。ゴッホの絵に見られるこの黄色と紺(青)色との対比は、川上未映子の『黄色い家』にそっくり移されたかのようで、あくまでも黄色が主体ではあるけれども、その背後に潜む青(紺)もまたしつこく見え隠れして、この対比はほとんど全篇を貫いている。
 まずある意味でこの作品の世界の中心的存在といっていい、語り手でもある主人公・花にとって最も大切な人物、不在の父親はもとより、母親からも十分に愛されてきたようには見えず、自立を目指して必死で貯めたアルバイト代を母親のモトカレに盗まれ、総てを失って絶望の淵にあった花を救い出してくれて、二人での共同生活による再出発へ導き、その後20歳くらいまでの数年間、起居を共にするパートナーとなる、母親の友達だった吉川黄美子。その名は「黄色の黄に美しい」と書く。

 謎めいたこの黄美子という存在のありようと、彼女に対する花の関わり方が、この物語の表舞台に登場する(擬似)家族、お金、シノギ(犯罪)という連鎖の裏側につねに見え隠れしている背骨になっていると言ってもいいだろう。
 物語は、花が20年後に、黄美子が若い女性を監禁し、傷を負わせて逮捕されたことを告げる報道を見たことから、過去の自分と黄美子たちと過ごした「黄色い家」の時代をいやおうなく甦らせ、言いようのない不安に急き立てられるようにして当時同居していた加藤蘭に電話をするところから始まり、まだ 花が十代だったころに黄美子や蘭らと共に懸命に駆け抜けた疾風怒濤の時代が語り尽くされ、ラストで再び20年後の現在にもどった花が黄美子と再会を果たし、彼女を訪ねて言葉をかわす所で終わる。
 こうした物語の結構自体が、ある意味でこの物語が花と黄美子の物語であることを象徴している。

 しかし、そのオープニングとラストシーンとの間の、回顧される長い歳月の間は、黄美子は逆にそれほど存在感を持たないようにさえ見える。いや正確に言えば、或る種謎めいた存在感だけをもって主人公とともにあるけれども、青春物語のような友情を形作って(擬似)家族を構成し、ともにお金を稼ぎまくり、シノギ(犯罪)の世界へと踏み込んで、物語の表舞台を駆け抜ける主人公・花や、彼女と行動を共にする加藤蘭、伊藤桃子、あるいは彼女たちの闇バイトに関係する映水やヴィヴらに比べても、黄美子はむしろ「何もしない」で家でぼんやりテレビを見たり、花たちが貯めたお金の番をしているだけで、相対的に存在感が薄いとみえる人物だ。それでも、この黄美子が花にとってはかけがえのない存在であることが読んでいるうちに納得される。

 母親不在のところへ不意に花のところを訪れて同居し、花に幸福感をもたらすときの黄美子、さらに突然花の前から姿を消すのだが、花が必死で貯めた金を盗まれ、その金に託していた夢と希望を奪われて絶望の淵にあった時、偶然に再会し、「一緒に来る?」と誘って共同生活をはじめたころの黄美子、総じて物語の最初のころの黄美子は、15歳、あるいは17歳だった花にとって、自分に救いの手を差し伸べ、自分を包容してくれる、頼りがいのある、力強いオトナにほかならなかった。
 花の黄美子に対する印象は、「黄美子さんの顔は、きれいだとか美人だとかいうより、強い感じがした」と語られ、マンガで見たことのある古代エジプトのファラオを連想させるような顔だと描写されている。そのような花の黄美子に対する見方を、わたしたち読者も自然に共有して読み進めていくことになる。

黄美子との共同経営の形をとるスナック<れもん>を開店し、順調に売り上げが伸びてお金がたまっていくあいだも、黄美子は貯金の金額にも無関心で、金勘定も貯めた金の管理もみな花に任せきりだった。それは黄美子のものごとにこだわらない鷹揚な性格、あるいはちょっとした得意、不得意による役割分担のように、最初のうちは花もそう考えていただろうし、わたしたち読者もそう理解しながら読み進めていたと思う。 ところが、それは黄美子の性格でもなんでもなく、彼女が金勘定も含めて、現実的なことを処理することについてはほとんど無能であり、ものごとを管理したり、将来についてあれこれ考え、計画するようなことはできもしないし、理解することもできないのだということが、花にもわたしたち読者にも、徐々に明らかになってくる。

 そうして、それまでは傷ついた花を温かく包容し、花の人生を切り開いてくれる、さまざまな経験を積んだ「強い」オトナのように見えていた黄美子が、実際的なことにはほとんど無力で役に立たない、むしろ逆に花が援け、支え、守って行かなければならない存在に転じていく。みなの希望だったスナック<れもん>が火事で焼失してしまい、稼ぐ手段と夢を失った花が、<れもん>を再建しようと、カード詐欺の裏社会に足を踏み入れ、必死で金を稼いで、「私が守らなければ」と思ったのは、なによりもそうしなければ黄美子が一人では生きて行けない、と考えたからだった。

 ・・・そう、黄美子さんはひとりでは生きていけない― 黄美子さんには、わたしが必要だった。(p521)    


  その裏社会を花に紹介した映水から、黄美子が、そうと明言はされないが発達障害のために金勘定のような実際的なことにはまったく無能で、少し複雑な知的理解を要するような事柄については理解することが難しいと聞かされ、花は衝撃を受けるが、さまざまなことが思い当たり、謎だったことが花にとって明らかになる。この時点ではもう読者のわたしたちにとっても、黄美子が客観的にみたときにどういう存在であるかがクリアになり、「謎」が多いように思われた黄美子の等身大の姿がはっきりと見えてくる。それでも花と黄美子の絆は変わらず、ただ、ふたりの関係が変わった(いれかわった)だけだ。

  こんなふうに間近でまっすぐに黄美子さんの顔を見るのはいつ以来か、初めて会ったときのあの力強い目の印象や、わたしのなかに最初から今までずっとあったと思っていた黄美子さんという存在の大きなイメージのほとんどが失われていることに、わたしはほとんど殴られるように気づかされた。(p503)

 まだ人生経験も知識もない未熟で傷つきやすい、弱い自分に比して、さまざまな人生経験を経て来た「強い」オトナ、自分がその胸に飛び込めば温かく包容してくれるような、大きな存在と見えていた黄美子が、いまや人を援けるどころか、自分ひとりの身でさえ、この社会で生きていくための実際的な能力も持たず、<私>(花)が守ってやらなければ生きられない無力な存在であることに気づかされる。当初の黄美子と花の関係は、こういう側面だけ見れば、すっかり入れ替わっている。

 花と黄美子との関係に具体的に踏み込む前に、少し前に戻って、「黄色」への作者のこだわりぶりをみておこう。
 黄色は、主人公の「花」たちをノリノリの<ビジネス>に駆り立てていく、風水によれば金運をもたらす色であり、花たちの擬似家族を支えるはずだったスナックの名として花が提案し、採用される「れもん」の色であり、また花たちが必死で稼ぎ、貯めようとするお金を象徴する色でもある。それは花が、風水的に自分たちの幸運を支えてくれると考える縁起のいい黄色いグッズを集めて「黄色コーナー」に飾るモノたちの色であり、花が家の壁に塗る油性ペンキの色であり、やがては彼女が狂気のようにカッターナイフで夜中に削り取ることになるペンキの色でもある。
 「黄色コーナー」には、貯金箱、ぬいぐるみ、箸、メモ帳、シール、毛糸、ポーチ、ペンケース、封筒、招き猫などすべて黄色のグッズがあり、花は桃子にもらった黄色のミサンガを手首につけている。また、ほとんど何もしないし、できない黄美子が唯一一所懸命いつもやっているのが、掃除で、花が大切に思っている「黄色コーナー」をいつも金鳥の「サッサ」という「鮮やかな黄色」のふきんで磨き上げている。

 

<黄色の光>


  最後に、「黄色」に関してもっとも重要なエピソードが次の一節に記されている。不意に家にやってきて不在の母親の代わりに花と一緒に暮らし始め、花に幸福感をもたらしていた黄美子が、ある日、花を一人残して、突然姿を消してしまう。途方にくれる花が、冷蔵庫をあけてみると、そこにはいつもほとんど何も入っていなかったのに、沢山の食料品が詰め込まれている。 

たぶん黄美子さんは今日いなくなることをなぜなのか決めていて、そのあとひとりになったわたしのお腹が減っても困らないように、ここに、こうやって、食べ物をひとつひとつ、詰めてくれたのだ、食べ物を、わたしに― そう思った瞬間胸がつまった。わたしは冷蔵庫の奥から漏れてくる薄い黄色の光を見つめながら、動くことができなかった。(p55 下線、太字、色付けは引用者。以下同様)

 「冷蔵庫の奥から漏れてくる薄い黄色の光」は、その後2度にわたって、花の記憶に甦って来る。それは苦境に陥った花へのほとんど唯一の救いであり、いわば真っ暗闇を彷徨い、うずくまる花が見いだす一条の光にほかならない。この「黄色の光」が2度目に登場するのは、映水から黄美子の過去について、また彼女の発達障害について初めて聞かされ、衝撃を受けて帰宅した日に、黄美子が買って帰ったたこ焼きを一緒に食べる場面だ。 

たこ焼きを食べながら、わたしは遠い夏の夜のなかにいるようだった。どの夏も、あの夏も、艶やかに光るりんご飴や綿菓子、水のなかでちらちらとゆれる金魚の赤色、色とりどりのスーパーボール、土の匂い、たれの匂い、いつまでもとぎれない煙に人々の歓声が混じりあって、夜はどこまでも膨らんでいった。
 暗いところを、さらに濃い影に縁どられた子どもたちが駆けていった。夜はこわいよ、そっちじゃないよ、何度くりかえしても子どもたちは笑うだけで、これが夜であることがわからない、夜がなにかもわからない、誰にもそれがわからない。それでも行く手にはぼんやりとした光がみえて― それはぎゅうぎゅうにつめられたウインナや菓子パンや缶詰の隙間から漏れてくる懐かしいような淡い光で、気がつくと、黄美子さんがわたしの顔を見ていた。
 「黄美子さん」かすれた声が出た。
 「もう、まえみたいに、急にいなくなったりしないでね」
 「そういえば、あったね」黄美子さんは笑った。
 「笑わないで」わたしは言った。「ずーっと一緒だよ」(p229 下線や太字、色付けは引用者。以下同じ)

 ここでは「黄色の光」とは書かれていないが、同じ光であることは言うまでもない。
映水の話を聞いて、花は、黄美子がこの社会の中で自分と同じ「持たざる側」の人間であるばかりか、そのどん底に近いところにいると思っていた自分よりも、はるかにきつい、苛酷な世界で生きて「酷い目」に遭ってきた人間であることを知る。それを具象的に象徴するのが、映水が語った、黄美子が幼いころに右と左が覚えられず、母親と男から右手の親指に入れ墨を入れられ、それがいまも「青黒い」あざのように残っているという話だろう。 それまで一緒に暮らす中で、黄美子がなぜそんなふうに考えるのか、なぜそんな態度をとるのか、なぜこうしないのか、と不審に思ってきたことが、映水の話を聞いて一気に氷解する。そのとき、花は黄美子が徹頭徹尾自分の側の人間であること、いやむしろ自分自身であること、否々、自分以上の自分であり、自分の純粋な鏡像であり、黄美子という存在のうちに自分自身の本質的な存在のありようがあり、黄美子という存在自体が、自分がこうして存在する意味であり、根拠だということを、一気に覚るのだ。

 この場面は花と黄美子が痛みを通して心の底から一体となり、この社会の中で最も虐げられる、持たざる者の側の人間として、その存在のありようとして一体であることを、理屈抜きでいわば生理的に、その存在自体で共感するように響き合い、一体化する希有な瞬間を表現した箇所だと思う。

 「黄色の光」が登場する3度目はこうだ。花が闇の世界へどっぷり入り込んで、もう当初考えていたような「スナックれもん」の再建も不可能だと花も覚りながら、なおかつ必死で自分たちがつくってきた擬似家族を守ろうとする切羽詰まった思いが煮詰まってくるところで、それは登場する。

なんとかしなければならない。わたしがなんとかしなければ。わたしは一日中その考えにとらわれるようになっていった。(p427)

 だいじょうぶ、わたしはだいじょうぶ、頑張れる、わたしはぜったいだいじょうぶ、わたしはぜったいに頑張れる― すると頭のなかにまあるいぼんやりした光が浮かびあがって、それはいつかの冷蔵庫。忘れられないいつかの夏、わたしのために黄美子さんがいっぱいにしてくれた、食べ物がぎゅうぎゅうに詰まった冷蔵庫の隙間から漏れていた、あの暖かな光を思いだす。(p430)

ここでも、「黄色の光」とは書かれていないが、明らかにあの黄色い光のリフレインだ。共同生活を始めた初期のころ、黄美子が花にとってどういう存在であるかを、なんでもない会話の中で、とても巧みに描いたシーンがある。正月にも花には帰るところもなければ、することもない。みんな正月は何をしてるんだろうね、と黄美子に問いかける花。

 「お正月って長いよね。仕事が休みの人ってみんな、なにするんだろう」
  わたしは大きな嘘のあくびをしながら言った。
 「わかんないけど、家族と、田舎に帰ったりするんじゃないの」
 「家族もいなくて、田舎のない人は?」
 「友達とかと、遊ぶんじゃないの」
 「友達もいなくて、遊ぶお金のない人は?」
 「うーん、家でぼーっとしてるんじゃないか」
 「家のない人は?」
 「そういう人って、正月とか、関係ないんじゃないの」
 「そっか」
 「そうだよ」
  黄美子さんはふきんを裏返してふたつに折って、こたつのうえを丁寧にふいた。それから天板をはずすと壁に立てかけ、熱がしっかりこもったこたつ布団を、寝転がっているわたしを包ようにかぶせてきた。ぶわりとした暖かさが広がって、わたしは思わず、気持ちいい、と声をあげた。
 「いい?気持ち」
 「うん」母親ことを考えて沈んでいた気持ちをやわらげるようにしあわせがじわっとこみあげて、わたしは大きく息をついた。  (p117-118)

 これが「わたし」花にとっての黄美子という存在のありようだ。
  この黄美子も花に負けず劣らず貧しく不幸な家庭環境で育っていることが、映水が花に語る言葉で明らかになる。母親は、映水が花に語るところによれば「シャブと盗みと(保険金詐欺に関わって嵌められてやった)放火」で、ずっと刑務所を「入ったり出たり」しており、黄美子はその母親がつくった借金をまだ子供のころから「返してまわっていた」し、今も返済しつづけており、ヤバイ裏稼業で稼いでいる映水が毎月黄美子にたとえば5万円程度の金を渡して、その金で返済しているらしい。その後その母親は結局刑務所で死ぬ。
  黄美子は明記はされていないけれども、知的障害者(発達障害)であることが、とりわけ映水が花に話したことから読者にもはっきりと知られる。

 「それに、黄美子はあれもあるし、そうとう酷い目に遭ったはずだよ」
  「あれって?」
  映水さんはわたしの顔をじっと見つめたまま、何度か瞬きをした。
  「あれっていうのは」そこでいったん言葉を切って、映水さんは壁のほうに目をやった。後ろで流れていた音楽が、いっしゅん大きくなったような気がした。
 「いや、黄美子のあの感じがあるだろ。おまえも一緒に住んでわかると思うけど、感じがあるだろ。黄美子はちょっと」
 わたしは映水さんの言っててることの意味を理解しようと、目に力を入れて映水さんを見つめた。
 「普通っちゃ普通だけど、表からみるとそうなんだけど、でもなんか、そういう場面あるだろ。話が通じてんのか通じてないのか、わからなくなるとき。この場面で、おまえなんでこれなんだっていうときが」
 「ある」反射的に声が出た。
 「できないことも、いろいろあるだろ」
 これまでいろんな状況や、ちょっとしたやりとりのときに不思議に感じたり、疑問に思った黄美子さんの反応やふるまいがつぎつぎに思いだされて、わたしは指さきでまぶたをおさえた。
 「あるだろ」
  「ある」
 「あんま、さきのこととか― たとえば金のことでもそうだけど、そういうの、考えられないっていうか
 「うん」
 「あれ、わざとじゃねえんだよ」映水さんは言った。
 「でも、たんなる性格っていうんでもない、黄美子はそういうやつなんだよ。いただろ、むかし学校とかにも。水商売とか闇とかそういう場所には、そういう黄美子みたいなやつがたくさん流れてくんだよ。悪い人間からしたら、そのまんま、金の成る木だからな。男も女も」
 「金の成る木?」わたしはつぶやいた。
 「ああ、黄美子みたいなやつは、どうとでもできるからな。家族もいない、昼の世界とも繋がっていない、身元も適当で、今日とつぜんいなくなっても、なんの問題にもならないようなやつな。そういうやつが夜にはたくさんいて、ある意味、物みたいになってんだよ。いろんな遣い道のある物な。飛ばすにも沈めるにも、いちばん都合がんだよ。そういう世界なんだよ」(p219-220)


 
 長々と引用したが、ここは黄美子という謎の存在が、客観的には、つまりとくに彼女と情を伴うような関係をもたない世間の人間から見たときに、どういう存在であるかをはっきりと示した場面で、とても重要な一節である。映水は「知的障害」とか「発達障害」というふうな直接にそれを指示する言葉を使わずに、非常に婉曲にそれを表現して花に伝えようとしているが、花にもわたしたち読者にも彼が指示しているものが何であるかは明瞭だ。作者は、こういう話法の描写が実に巧い。さきほど、花にとって黄美子がどういう存在であるかを示す場面を引用したが、ここでの黄美子はそれとは対照的な、世間の客観的な目でどう黄美子が見られる存在であるかがはっきり語られている。

しかし映水にとって黄美子が客観的にそういう存在であることを承知の上で、いつも対等な友達として付き合い、彼女の刑務所にいる母親の借金返済の金を黄美子に渡してやっている。映水のまなざしは、弱者を差別したり憐れんだりする世間の目とは違う。映水にとって黄美子は、決して馬鹿にしたり苛立ったり憐れんだりする対象ではない。彼が黄美子について花に語って聞かせる言葉は、花にはショックだが、その言葉には温かみがある。それは映水もまた在日韓国人として差別され、幼いころから黄美子に負けず劣らず「酷い目」に遭いながら、どうしようもなくいまの裏稼業の闇の世界で生きる人間になっていることから、いまの社会の中で生れた時から「持たざる者」であり、差別され、「酷い目」に遭うことを運命づけられた側の人間あることによる共感が根っこにあるからだろう。

 

<青>の不吉、<黄>の狂気


 話が「黄色」からだいぶ脱線してしまったが、ついでに陰陽の対の「陰」のほうにあたるブルーの要素を挙げておくと、先の映水の話に出た黄美子の右手の親指に近いところにある入れ墨が「小さな楕円の青っぽいあざのようなもの」であったし、花が幼いころ小物入れに使い、バイトの貯金やカード詐欺をして貯めた金を入れておくのに使っていたのが「紺色の箱」である。黄美子や映水の友達で花も大好きになる琴美が、暴力を振るわれるにもかかわらず離れられずにいて、とうとう殺されてしまう薬物中毒で妄想がひどくなっている及川というやくざのものだが、花が琴美の所へ遊びに行って一度だけみた男物のネクタイが「暗い青色」だった。また、花が大好きな琴美は同居のヤクチュウ男に殺され、無慙な死を遂げるが、その彼女の身体にも、花は「青黒い痕」を見出す。

 第6章「試金石」にはこんなシーンがある。

 ふらりと入ったキャロットタワーの大きなガラス戸に自分ひとりで映っている自分の姿が目に入ったとき、なぜか急に黄美子さんのことを思い出して淋しくなった。
 そんなふうになる理由はなにもないのに、わたしはガラス戸の青っぽい自分の影のまえでしばらく動けないような気持になった(p180)

 
 ブルーはこの作品の中では、ポジティブな黄色と対照的に、つねにネガティブな意味を担っている。

 第7章「一家団欒」で、花が、スナックレモンのビルの持ち主である陣野さんと話して借りられることになった下馬の一軒家へ黄美子、蘭、桃子の3人を連れて行くサプライズを試み、これからここで4人で暮らす擬似家族の形を夢見る楽しいはずの場面で、「気がつくと、空はわたしたちのはるか頭上で紺色の濃淡に広がって、そのいちばん遠いところが夜に溶けはじめていた」(p27)。これはまさにゴッホの「黄色い家の」背後に広がる「紺色の濃淡」を連想させずにはいない不吉な光景だ。「夜」は映水が花に語る言葉の中でまさにそのように使われていたように、脱法的な裏稼業が隆盛をきわめ、やくざや詐欺師やそれらを牛耳る「親」ら魑魅魍魎がうごめく闇の世界を表わす言葉でもある。これから4人が一緒に住むことになる家、それは「黄色いコーナー」が置かれ、また花の手で黄色いペンキが塗られる家でもあって、4人の世界は黄色に彩られるが、一歩外に出れば、「わたしたちのはるか頭上で紺色の濃淡に広がって」いる空、4人にとっての外部世界があり、それは黄色とは対照的な、寒色系と言われる冷たいブルーの世界なのだ。

 もうひとつ挙げるなら、桃子が俗物の母親の家から持ち出したクリスチャン・ラッセンのイルカの絵(シルクスクリーン)が「全体が青っぽい」絵で、イルカが青い海から飛び上がっているところが描かれている、「光はあるが夜のようにみえる」絵だ。ただし、この絵は「金色」の額縁に入っていて、最後は花と桃子が争うときに、突如黄美子が額縁ごと両手で持ち上げてふすまに幾度も叩き刺して、ふすまを破壊する場面に登場する。「鈍い金色の額縁に入ったラッセンの青光りする海が何度もふすまに突きたてられる」、まるで黄と青がせめぎあい、ついに爆発を起こすような、両義的な緊張をはらんだ不吉な代物だ。それはまた黄美子という存在のありようそのものでもあって、彼女は対立する花と桃子なり蘭なりを説得して和解させるなんていう芸当はまるでできないし、その諍いの現場にいても彼女たちになにも働きかけることができない。

しかし、黄美子は何も感じていないのではなくて、そこでひたすら自分の内部にストレスをため込んで行くしかないので、それが限界まで達すれば自爆のような暴力的な姿として自身を表わすしか方法がない。それがあのラッセンの額縁をふすまに突き刺す凶暴な行為になって現れたのだ。黄色とブルーの対立と緊張がこの世界の構図であり、動因であり、それをそのまま受苦する黄美子の存在の矛盾したありようでもあり、その緊張が高まれば暴発するしかない。黄色は、花たちにとっては金運をもたらす色であり、金儲けに邁進する3人のノリノリの勢いと明るい気分そのものであり、また心折れたときにも射してくる一条の温かな光であって、冷たく不吉なブルーとは対照的に概ね肯定的にとらえられた色である。

しかし、私は最初にこの本のブックカバーの中央に描かれた黄色い家のファサードやブルーの地を背景とした「黄色い家」というタイトルの文字などを目にして、ゴッホのアルルの「黄色い家」の絵を思い起こしたとき、それは決してあっけらかんと明るい気分や幸福な、温かい色ではなかった。むしろなにか不穏なもの、危険なものの予感を覚えるような色で、それはゴッホの耳切り事件と結びついて「狂気」を連想させるような色だった。たしかに黄色は明るい色だが、ピンクなどとは違って、その明るさが極まっていくほどに人は狂気に向かうほかはないかのような色ではないか。これは失意のあまりわが耳を切り落としたゴッホの描いた、ヒマワリや炎のように黄に燃え上がる黄葉の並木や灼熱の黄に輝く太陽の印象によるのだろうか。しかし、私たちは身近に信号の赤でも青でもない黄色を「危険」信号として見慣れているのではないか。サッカーの退場にはいたらぬファウルに与える警告は選手にとって危険な「イエローカード」だった。子供が画用紙を明るい黄色一色に塗りたくる時、私たちはその絵を見て、明るい温かい心の持ち主だと安堵できるだろうか。私なら心配になる。私は黄色という色を好まない。

好みは人それぞれだから、この作品の主人公・花にとっては違うだろうし、作者にとっても違うのかもしれない。しかし、この作品に描かれている、大部分が肯定的に描かれる黄色ではあるが、それでも黄色がアンビヴァレントなものを孕んだ不安定な色彩、なにかの喩であるなら両義的な意味合いをもつ色であることは、しっかりと描かれているように思う。それは、花たちのカード詐欺による金稼ぎのノリノリの狂演のあと、花の思いと蘭、桃子の思いとが大きく食い違っていることがあらわになり、ひと悶着あったあと、琴美が殺されたことを自分のせい(自分が口止めされていた志訓のことを琴美に告げたために琴美が彼に会いに行こうとして同居ヤクザに殺されたと)だと感じた花が心を病むような状態に落ち込み、あれだけ一所懸命に壁に塗りたくった黄色いペンキを、真夜中にひとりカッターナイフで削り取る場面に典型的に描かれている。

わたしは枕元に置いたカッターナイフを手にもって階段を降りていく、遠い、近い、まだらに広がった黄色が言う、ぜんぶおまえが、ぜんぶおまえの? 「花ちゃん」
 ふりかえると、少し離れたところに桃子と蘭が立っていた。
「花ちゃん・・・・それ」蘭が静かに言った。「ねえ、もうやめたほうがいいと思うんだけど」
 わたしは手にもったカッターナイフをしばらく見つめ、親指に力を入れて刃を戻した。きりきりと音がして、桃子が少し後ずさった。
「花ちゃん」蘭が言った。「・・・・花ちゃん、わかってる?」
 わたしは肯いた。
「花ちゃん、昼夜逆転はいいけどさ、夜中とかガリガリガリガリやられて、うちらまで頭がおかしくなるよ。もう一週間?十日くらいこんなでさ、もうちょっとやめにしなよ」
 わたしはあいまいな声を出した。
「ってか壁のそれ、最終的にどうしようと思ってんの」桃子が訊いた。
「わか、わかんないけど」わたしはカッターナイフを握りしめたまま言った。「わかんないけど、黄色のこれ、これが」
「なんか文字とか彫ってんのかと思ったけど」
「ちが、違う」
「じゃあなにしてんの」
黄色を、削ろうと思って」
「なに?」
「き、黄色を」
「え、ここ塗ったペンキ、ぜんぶ削ろうとしてんの?」桃子が眉をひそめた。「やば。カッターで削んの限界あるって」
 わたしは肯いた(p565)


 真夜中にガリガリとほかの二人が眠れないほどの音を立てて、一週間も十日も昼夜を問わず黄色い壁を削る花の様子は、ほとんど狂気の人のようだ。かつては彼女たちに金運をもたらし、運命を切り開き、幸運をもたらしてくれる源だった「黄色」が、いつの間にか彼女たちの間に亀裂をもたらし、花が夢見た擬似家族を崩壊させ、それまで必死でやってきたことのすべてを無に帰してしまう宿命を象徴する色になってしまっている。

 

母親の「愛」


 「黄色」にこだわって、作者がこの作品に込めた暗喩としての色彩を辿ってみたが、このへんであらためて、肝心の主人公花がどういう人物で、この作品の世界でどういう生き方をしていくのか、発端に立ち返って、物語にあらわれる幾つかの形象の意味を問い直してみたい。花は、ほとんど家に帰ってこない父と、ほとんど花のことを気にもかけず、水商売をしながらだらしない生活をつづける、子育て拒否的な生活態度にもみえる母親・愛との実質二人での貧しい家庭で、まともな愛情にめぐまれることなく、友達もなく、また誰にも必要とされない存在であるかのように育ってきた。この母親は娘の花が突然黄美子についていくことで、事実上の家出をしても気が付きもせず、気が付いてからも全然気にもとめていないかのようだ(少なくとも花の目にはそう見える)。そして物語としてはかなりのちのことになるが、やがて、愚かにも物品販売詐欺にひっかかって高価な商品を大量に買い込んで窮地に陥り、花のところへ借金にやってくる。そうして、花が黄美子と経営したスナック<れもん>で稼ぎ出して貯めたなけなしの金をほとんどそっくりもっていってしまう。

私なら自分を育ててくれた親であっても、まず親を切れ、という誰かの言葉どおり、そんな母親を切り捨て、自己責任なんだから自分でなんとかしろ!と追い返したかもしれないが(笑)、花はなけなしの200万円を渡してしまうのだ。その200万円を花と一緒に稼ぎだし、共有していたはずの黄美子は、例によって、花が一存で母親にその金全部渡してしまっても、そのことを全然気にもせず、花の母親が最初に黄美子に電話をかけてきたとき、それなら花ちゃんに相談してごらんと言い、花が(自分との共同経営するスナックの稼ぎで)貯めていた金額も喋ってしまっていたのだろう。そのために花の母親は最初から花が200万円を貯め込んでいることを知って、まさにその金額を要求するのだ。

 この花の母親・愛は、漱石の『道草』に登場する養父島田老人のような存在にみえる。養父母が離婚し、彼等のもとで養子に出されていた主人公・健三が実家に戻されて以来、全く関わりのない存在であったのに、健三が大学の教授となり、平穏な安定した暮らしを維持しようとつとめているところへ影のようにつきまとって、落ちぶれた風体で金の無心にやってくる。いまさら何だ!と切り捨ててしまいたいような存在だが、健三には切り捨てることができない。養父の存在自体が、彼に渡すいくばくかの金銭に見合わないほど、健三の心に大きな影を落とす。不吉な存在だ。それは島田老人が要求するお金の多寡云々よりも、島田老人という存在そのものが、健三に或る種倫理的な刃をつきつけてくるところがあるからだ。そしてそんな島田老人はまた、健三自身の罪償感の形象化でもあって、その磊落して無力な老人の存在自体が健三の根源的な不安、動揺を喚び起こさずにはおかない。

 花にとっての母親もまた、そういう存在に思えるところがある。普通に考えれば、ろくに愛情も注いだことがなく、母親らしいことなどなにひとつせず、自分勝手な生き方をして娘を絶望の淵に追いやっていたような血がつながっているというだけの「母親」にして、みずからの愚かさが招いた危機に、いまさらどんなツラを下げて、結果的にではあれ、自分が棄て、追い詰めた娘に、助けてくれと言いに来れるのか。あきれてものが言えないとはこのことで、蹴とばし、切り捨ててしまえ、と言いたくなる「母親」なのだが、花にはそうすることができない。それは母親の言葉や金額がどうということではなく、その存在そのものが花に倫理的な刃を突き付けて来るところがあるからだろう。それは『道草』の健三の場合と同様に、花の或る種の罪障感の裏返しでもある。

 花は後に登場する、カード詐欺を差配するヴィヴという女性に評価され、親しくなって食事に誘われて肉料理をごちそうになり、世の中にこんな美味いものがあったのかというほどの衝撃を受けるが、そのとき不意に彼女の心を覆うのは、そんな肉など生涯味わうこともなく、またそんなものがあることも知らずに一生を終えるだろう母親の影であり、花は溢れる涙を抑えることができず、とめどなく涙を流し続けるという、非常にすぐれた描写の場面がある。ほかにも類似の表現があるが、そういうところに私の言う花の心の奥に潜むある種の罪障感が表現されており、これが花に根源的な不安と動揺を喚び起こす源である。

 さらに先走って、踏み込んだ言い方をすれば、それは遠く『わたくしり率 イン 歯―、または世界』における自同律の不快に、あるいは『乳と卵』や『夏物語(第一部)』の小さな乳房(?豊胸術)へのこだわり、『ヘヴン』における斜視、さらに『夏物語(第二部)』の子どもを産むことへの不安、おそれといった一連のさまざまな形をとる異和の表現にまで系譜をたどることができる、作家川上未映子の表出意識の根源にひそむものを示唆しているということができるだろう。それはこの作品において初めて、ポリフォニックな作品の中で、自在にそれぞれの軌跡を描き、自己主張する、血肉を具えたひとりひとりの主要な登場人物として形象化される。そこに本作品の新たな達成があるが、それについては後に言語表現の面から川上の主要作をたどることによって明らかにすることができるだろう。

 それにしてもこの「母」に作者は「愛」という皮肉とも思えるような名を与えている。そのことは、最初この作品を読んだ時に少々不可思議な印象を私に与えた。およそどんな母親であれ、母親たるものが自分の子供に与え注ぎ与えるべきものあるとすれば、子供たちが安心して生きるための最小限の経済的な条件を含む生活環境など物質的なものを別とすれば、言うまでもなく愛情であり、人が自分がだれかから愛され、必要とされている、という状況であり、思いであり、やがて自立した自身を確立するために不可欠な最低限の自尊感情を養うための条件のようなものであるに違いない。だから、だれからも愛情を注がれたり、必要とされたりすることがなかったようにみえる花の母親に「愛」という名が与えられていることは皮肉なことのように思えたのだ。

 しかし、ここで立ち止まり、いったん語り手である花の視界の外に出て、花の母親・愛のやってきたことを眺め、まあ愛の立場に立って見ると、案外彼女はいまどきどこにでもいるような母親に思えてこないでもない。いまは愛人といっしょになってわが子に暴力を振るい、死に至らしめるような母親も現実に幾例も現れているようなご時世だ。花の母親がやっている程度のこと、つまりゆとりのない生活の中で自分の都合を優先して、娘のことはほったらかしで、さして関心を持たない、といった母親など、今なら掃いて捨てるほどいるだろう。彼女はたしかにベタベタと娘を可愛がる母親ではないし、娘の目からみればこれと言って親らしいこともしてくれず、娘の思いに想像力を働かせることのできない無神経で、自分勝手な生き方をしてきた、性格的にもだらしない母親かもしれない。しかし、別段娘を憎んだり、邪魔者扱いして邪険にしたり、苛めたり、自分の苛立ちのはけ口を娘への暴力に求めるような、いまどき新聞を賑わわせている一部の母親たちとは違う。彼女が花を育てて来た様子がそれほど具体的に描かれているわけではないが、愛のことをいま流行りの「子育て拒否(ネグレクト)」と決めつけてしまうのは早計だろう。

たしかに彼女、愛は、娘・花に自分は母親から愛されている、必要とされている、と感じさせることができるほどの愛情を注いでこなかったかもしれないし、元愛人とのごちゃごちゃを家の中へもちこんで(もちこまれて)、そのどさくさに花が必死の思いで貯めて来た花にとっての大金を男に盗まれ、結果的に花を絶望の縁へ追いやってしまい、花が家を出て黄美子と暮らすきっかけをつくることになる。さらに、ようやく擬似家族を構成してささやかな夢の実現に向けて邁進する彼女のところへやってきて、<母>と<娘>の絆をよりどころに、花の夢の資本を根こそぎかすめとっていくという、花にとっては、決定的な負の役割をはたす存在だ。

漱石『道草』の主人公健三にとっての養父島田のような、この花の母親・愛が借金を依頼しにくるときの存在そのものの不吉さ、自分がねらいを定めた娘の持てる金を手に入れるまでは梃子でも動かないだろうしたたかさ、ふてぶてしさ、ねばりつくような嫌な存在感は、いつもそのように否定的なものとしてあらわれるわけではないにせよ、あらゆる<母>なるもの、肉親なるものが迫ってくる、子の側から見て不吉な宿命のように如何ともしがたいものの姿にもみえる。それは花の心の奥に潜む根源的な罪障感を映す鏡像のようでもある。そしてまたそれは、先に少し触れたように、遠く「わたくし率 イン 歯―、または世界」にまで遡る、<自同律の不快>、自分が自分であることへの異和を根源とする不安や動揺が描き出す得体の知れないなにかにつながるもののようでもある。

母親とそんな短い言葉を交わしながら、わたしはさっき駅前で母親を見つけたときに受けた小さな衝撃のことを思いだしていた。わたしは、ふりかえったそこに立っていた女の人が、自分の母親であることがひと目でわかった。わかったというか、わかってしまった。わたしがわかりたいと思っても思わなくても、そんなこととは関係なしに一瞬でそれが自分の母親だと、どうしようもなくわかってしまうということに、わたしは少し驚いてしまったのだ。目があった瞬間、わたしたちのあいだにはなしにすることがぜったいにできないようななにかが、まるでどんな暴風に煽られてもびくともしない巨大な文鎮のようにどんと居すわっているようで、その堂々とした鈍さ、大きさ、それから?なぜだかわっと涙がにじんでしまいそうな理由のわからない気持ちが一瞬でまぜこぜになってこみあげて、思わず後ずさってしまったくらいだった。(p273-274)


  ただ、花の母親に対する気持ちを語る語り手の言葉のみにとらわれて、ひたすらネガティブで不吉な存在としてこの母親・愛を見るのではなく、花の視野から一歩出てこの愛という登場人物を眺め、彼女について作者がどう描写しているかを見ると、事態はそう単純ではないように思える。たとえば、はじめて黄美子が花の前に現れ、母親不在のうちに黄美子と二人、けっこう幸せな日々を送る花に対して、黄美子がこんなふうに語る場面がある。

愛さんいいよね
  ある夜、電気を消して布団に入ったあとで、黄美子さんが言った。わたしたちは、ふだん母とわたしがそうしていたように「布団の部屋」で、布団をふたつならべて眠っていた
 優しいよね
  これまで家に出入りしていた母の知人や友人たちは、母親のいないところでもわたしと顔をあわせるくらいの距離感になると、決まって母への疑問や不満を言うようになった。それはわかりやすい悪口というのではなく、わたしへの同情をからめた非難のようなものだった。花ちゃんほんとは淋しいよね。愛ちゃんは面白いけど、でも子どもにこんな思いさせちゃだめだよね。愛さんってだらしないところあるから? 子どもがいるのかいないのかは知らないけれど、自分たちだって似たような生活をして好き勝手に人の家に出入りしているくせに、母親には母親の資格がないのだと言いたくなるみたいだった。それでも本心からわたしを憐れに思っているのが同時に伝わってもくるので、そんなことを言われるたびになんと答えていいのかわからなかった。だから思いがけず母親のことを褒められて、少し驚き、それから面映いような気持ちになった。
 「そうかな」
 「そうだよ」黄美子さんは言った。「なんか、お人よし
 「お人よしかなあ」
 「うん。人の言うこと、すごい聞くよね
 そういうとこはあるかも(p47-48)


  
思春期の自分中心の目で見た、自分勝手でだらしないところのある母親への批判的な描写を通して愛を見がちな私たち読者は、こういう第三者である黄美子の愛に対する見方を知ると、花と同様に意外な感じがする。しかし、このとき花もまた自分がほめられたかのように「面映ゆい」気持ちになることに注意すべきだろう。ふだん親らしいことをなにひとつしてくれず、自分の考えやしたいことにはいつも抵抗し、イライラさせられ、ぶつかって、こんなに物わかりの悪い、人格的にも尊敬できない親はないよ、とふだん自分が親を批判して言っているのとまったく同じことを、赤の他人が言うのを聞いて、そうだそうだ、とは同意できず、逆に言った当人に対して腹が立ったりするのを自身で意外だと感じた、という思春期のころの記憶のひとつやふたつ、誰もが持っているのではないだろうか。そういうときの子の側の親に対する「批判的な」言辞は、たしかにそのなかにも一片の真実はあり、正当性がないわけではないけれど、その厳しい見方も言葉も、みな親と子の不可分離な、いわば宿命としての一体的絆の上に生い立っているものであって、その親子の「対」の世界の視野を決して出ることのない見方であり、言葉なのだ。

 そんな視界を一歩出た外部のまなざしにとらえられる<愛>は、いつも誰彼構わず家の中に招き入れ、自由に出入りさせ、自分を開いている存在、人の話を「すごい聞く」、「優しい」、いくぶんか「お人よし」の女性であり、貧しい小さな家に住んで、ふだんから母ひとり子ひとり、「『布団部屋』で布団をふたつ並べて眠って」いる母親なのだ。それは花が心血を注いで稼ぎ貯めた金をかすめとりに来る、したたかで図太い、漱石の『道草』の健三に金銭をせびりにくる島岡にも似た、花に憑りついて不運をもたらす疫病神のような<愛>の姿とは異なる。しかし、その<愛>が花の200万を持って行ってしまう場面においても、それは決して<愛>が盗むわけでも強奪していくわけでもなく、花がいわばみずから「すすんで」その金を<愛>に渡す選択をすることに注意すべきだろう。確かに花はそのことに深く傷つき、ちょうど以前に<愛>の元愛人に貯めた金を盗まれた時と同様に、ほとんど絶望の淵に追いやられる。しかし、それにもかかわらず、花は自分の虎の子を<愛>に渡してしまうのだ。

  母親は口紅がはがれて皺のよった唇をすぼませて、爪で爪をひっきりなしにひっかいていた。それは子どもの頃からよく見た、焦ったり困ったり追いつめられたりしているときに母親が無意識にする仕草だった。なんだかこの三十分で母親はひとまわり縮んだように感じられた。男に逃げられて女に騙されて借金をつかまされて、がんになって、これからまたさびれた町のスナックで酔っぱらいを相手に生きていくしかない母親はお金がなくて、もうどこにも誰も頼る人がいなくて、家出中の娘がお金を出してくれるかどうか、おどおどしていた。娘のわたしはそんな自分の母親がもうどうすることもできないこと、自分がお金を出すことでしか自分の母親を救えないのだということがどうしようもなくわかっていて、それはわかっていて、もうぜんぶわかってはいるのだけれど、でもどこもかもが痛いというか、つらくて、ただ意味もなく首をゆっくり右に左に動かすことしかできなかった。(p296-297)


   娘にあれこれ言い訳めいた借金を作るに至った事情を話して、なんとしても200万円を受け取ろうとする<愛>は図太く、したたかにみえる。しかし、彼女はそう言ってよければ悪意の人ではない。嘘の事情や理由をでっちあげて自分が遊んで暮らすための金を娘から巻き上げようとして来たわけではない。本当に愚かで「お人よし」なところがあるために始めから悪意のある者に騙され、罠にかかり、自分ではどうすることも出来ない借金を背負わされ、にっちもさっちもいかなくなって、最後の拠り所として娘のところへやってきたのだ。

 花はそんな<愛>を拒むことができない。それは彼女が<愛>の娘であり、誰よりも本当は彼女のことを知っているからだ。どんなに自分に母親らしいことを何一つしてくれず、自分が家出しても気づきさえせず、家のことにだらしなく、自分を放っておいて男にくっついて長く帰ってこないような、いいかげんな母親であっても、同時にそれは「布団部屋」でいつも布団をふたつ並べ、寄り添って眠ってきた母親であり、黄美子の言う「優しい」、「お人よし」であり、しばらく会わなければどうしているかが気になって電話をかけてみようかと思い、「お正月なんだし、お母さんが食べたこともないようなすき焼きとかお寿司とか、そういうのをわたしがごちそうしたっていいんだよな、それってすごくいいことなんじゃないだろうか、ふたりでこれまでやったことのないような贅沢を、おいしいものを食べたりするのって?そう思うとなんだか胸が高鳴って、目のまわりが熱く」(p269)なるような気持にさせる存在なのだ。

 先にも触れたが、花がヴィヴに誘われて御馳走になる美味しい肉を食べながら突然とめどなく涙を流す印象的な場面がある。

 ・・・それはこれまで食べたもののなかでいちばんおいしいものだった。それは衝撃的な味というか体験で、わたしは目を見ひらいて、ものすごくおいしいとしか言いようのない肉を噛んでいた。
  最初の何秒間かは、純粋にショックというか、ただびっくりして感心していたのだと思うだけれど、すぐに目のまえに古くてぶあついカーテンがざっとひかれるように、胸が暗く陰った。それは自分でも脈絡のわからない感情の流れで、なぜこんな気持ちになっているんだろうと探っていると、ふいに母親の笑っている顔が浮かんできた。その瞬間、ずきんと音をたてて胸が痛み、お母さんは、こんな肉を食べたこともなければ、このさき食べることもなく、そして世の中にこんなものがあることすら知らないんだと思った。それから黄美子さんの顔も浮かんできた。悲しいような苦しいような気持ちになって、目のまわりが熱くなるのがわかった。わたしは下まぶたにみるみるこみあげてくる涙に気がついて焦った。待て、ここは、今は、そういうときではない。そういう感じのときじゃない。おさまれ、わたしはただ肉を食べているだけ。さっと気持ちを切り替えて「お肉おいしー」ぐらいに思えばいいんだ。・・(p362)


   花に母親としての十分な愛情を注いでこなかったようにみえ、結果的にであれ花を絶望の淵に追い込むような役割を果たすことになるこの母親・愛に対する、私たち読者の心証と、こういった描写における花の母親・愛に対する気持ちのありようの間には、ずいぶん隔たりがあるような気がする。 しかし、それは私たちが一時の感情で母親に激しい言葉をぶつけたり、家出をしたり、あるいは彼女が母親に告げずに黄美子との生活をはじめても、花がいなくなったことにすら2週間ものあいだ気づかず、黄美子と暮らすと告げても、いいんじゃないの、と気遣う様子さえみせない、といった、語り手である花の目を通して語られる物語の表層で起きる出来事に目を奪われがちだからで、花の母親に対する常態としての気持ちのありようを見間違えがちだからに違いない。

  花の母親に対する気持ちは一貫して変わってはいない。花は優しい素直でストレートな心の持ち主で、母親に対しても娘として深い愛情をもっているし、おそらくは母・愛もまた同じだろう。そのことは先にも見たように(黄美子の愛に対する評言のように)作者が周到にこの作品の中でいわばエビデンスをちりばめるように書き込んでいる。 しっかりものを考えられない、適当でばかでどうしようもない母親だけれど、でも母親は騙されるばかりで人を騙すような悪人ではないということも、わたしがたえず感じている苦しさの一因だった。そしてそれはべつの憎しみにつながっていった。それは母親みたいな頭のまわらない人間をカモにして、なけなしの金を巻きあげるなにかに、誰かにたいする憎しみだった。母親のことを思うたびにやってくる、そんな思い浮かべるべき顔のない憎しみや怒りや、いろんなものが複雑にからまった感情のぜんぶをひっくるめて、母親に近いところで生活するのはとても無理なことだった。(p325-326)

  花の、母・愛に対するアンビヴァレントな感情は、その延長上に伸びる、花の、悪意の人間たち、この世界の悪意に対する怒り、憎しみまで的確に描かれている。彼女のこのようなほとんど「正義漢」的心情と姿勢とは、のちにカード詐欺のような犯罪行為に踏み込みながらも、まるでストイックなピューリタン的労働者のように、きまじめに、全力をつくして、ひたすら金を稼ぎ、遊興に使うでもなく、安らぎを手にいれるでもなく、ただただ貯めようとひた走る彼女の姿につながっている。実際にやっていることは同じ犯罪であっても、母親を陥れた悪意の人間たちのやっていることと、花のしていることとは、紙一重だが決定的な違いがある。そう作者は言いたげだ。

この母親・愛がこの作品の世界でどういう位置を占めているのかについては、花(たち)がスナック<れもん>の経営が破綻して、カード詐欺の闇の世界へ踏み込んでいくプロセスも含めて、またそのこと自体を花がどう考え、ある意味でどう正当化しながら突っ走っていくかを見た上で、この物語の登場人物たちそれぞれの声に耳を傾け、それぞれの世界を視野に入れた上で、この作品世界全体の中で考えなければ理解できないところがあると思う。従って、そこを留保して、<愛>については、花たちのその後の生き方、考え方を見た上、また他の登場人物たちひとわたり眺めた上で、このポリフォニックな作品世界全体を視野に収めた上で、黄美子と共に再度とりあげることにしよう。

 

疾走〜こう生きるしかない生き方


  さて、少し先走り過ぎたかもしないが、そんな母親のもとで育ってきて、自分はどう生きればいいのか、花は一所懸命に考える。そして、最初はお金こそが問題を解決すると考えて、何もかも犠牲にして金を稼ぐことに懸命になる。しかしそれは盗人と火災とであっけなく灰燼に帰してしまう。それでも金を稼がなければ生きることは出来ず、それ以外に道はない。尋常にスナックのような合法的な店をやって稼ぐ道を封じられた花は、闇の世界へ一歩踏み入っていく。それは「正しくない」かもしれないが「間違った生き方だとはどうしても思えない」のだ。

作中の花は、決定的なときに盗難と火災という偶然に翻弄され、もうこうするしかない、という形でその世界へ踏み入っていく。それは自分で意志して選んだことではあるけれども、ほとんど宿命として強いられた必然の生き方だったとも言える。それが「正しくない」と自覚し、しかし生き方として「間違っている」とはどうしても思えない、という花を、法は犯罪者として(そのときにみつけていれば)裁いたかもしれないが、私達読者は裁くことなど出来ないと感じる。

こうして私たちは花たちが必然の道に踏み込んで乗りに乗ってカード詐欺で金を稼ぎまくる興奮と高揚感を彼女たちと共有する。たぶん作者が読ませたかったのも、そういう花たちの切ないまでに懸命な姿であり、「持たざる側」の貧しくみすぼらしい存在でありながら、つかのま激しく燃え上がり、切なくも、きらめくような美しさを見せて疾走する彼女たちの姿だったことだろう。

母親に虎の子を手渡した場面に戻って続けるなら、自分が家族だと思って、彼等との生活を自分が守らなければ、という一心で稼ぎ貯めてきた虎の子を全部その「母親」に渡してしまった花は、とてもきつい思いをすることになる。

「わたし・・・もうなんかほんと、きつくて。なんか、もうよくわかんない。お金がなくなったのがこんなにきついのかお母さんが可哀想できついのか頑張っても頑張っても、けっきょくまたこんなことになってるのがきついのか、もうぜんぶ、どうしようもないことがぜんぶありすぎて」
「うん」
「わたし一生懸命やったんだけど」
「うん」
「なんか、いつもこうなっちゃって」
「うん」
「まえも、トロ、トロスケに盗まれて」
「うん」
「今日は盗まれたんじゃなくて、わたしが決めて、わたしが出したんだけど」
「うん」
「そうするしか、なかったんだけど」
「うん」
「でも、なんか、もうどうしていいか、わかんないよ」
「大丈夫だよ」黄美子さんが言った。「お金なんかまたすぐに貯まるし、また稼げばいいじゃんか」(p300-301)


  この会話で「うん」としか言っていない、徹底して受け身で、花の言葉をひたすら受け止めているのが黄美子だ。この一節だけでも、花にとっての黄美子という存在がどういうものであるかがわかる、とてもいい場面だ。黄美子は、自分も花といっしょに稼いで貯めたお金を花が自分に相談せずにそっくり母親に渡したことも全然責めようとはせず、むしろ自分が了承して花に相談してごらんと母親に告げたのだという。そうして黄美子は布団の上から花の体をさすりつづける。

彼女が「黄色い家」で黄美子、蘭、桃子と4人での擬似家族的な共同生活をはじめてから、なぜあれほど生真面目に、必死で金を稼ぎ貯めるために働き、その金を安楽に遊び暮らすために少しも使おうとせずに「頑張って」しまうのか、守銭奴でもないのになぜ守銭奴のように金を稼ぎ貯めることに強く執着するのかといえば、実際的なことにまったく無能な黄美子と、いまどきの軽佻浮薄で怠惰でなにごとにつけやすきにつこうとする蘭と桃子を<家族>に抱えて、花が何よりも大切だと考えるその<家族>を自分が守るしかない、と思い定めているからだ。

わたしには目的というか、目標があった。ただあてのない金のために、楽をするためにこんなことをしているわけじゃないという気持ちがあった。金を稼いで自分の家を守ること。そして― そう、金を貯めてもう一度、わたしたちの「れもん」を取りもどすこと。そのために、わたしはこれを始めたのだ。(p357)


 すくなくとも、脱法的な闇の世界へ足を踏み入れた当初、花はそんなふうに考えていた。そして、そのことで花は、それまでの人生で、家族も含め、誰からも必要とされてこなかった自分が、いま誰よりも「必要とされている」と思う。だからこそむしろ積極的にその「必要とされる」役割を必死で果たそうと能動的にのめり込んでいく。だから、後に徐々に明らかにされるように、彼女は必死でお金をためるけれども、彼女個人は、そのお金を使うべき「好きな事」も「趣味」も思い当たらず、「好きなこと」は働いて稼ぐことだとしか答えられない。

「趣味っつうか、休みの日とかなにしてんの。なにが好きなの」
 「なにもしてない。好きなのは― 」わたしは蘭の質問をもう一度頭のなかにめぐらせてみた。わたしの好きなもの。わたしが好きなものって、なにか。
 「好きなのは、働くのが好き・・・っていうか、稼ぐのが好き」
 「へえ、花ちゃんやっぱうけるわ」蘭は声を出して笑った。
 「そうかな、でも稼がないと生きていけないじゃんか」わたしは言った。(p139)


  また好きな男は?と訊かれても、思い当たらず、ようやくバイト先のファミレス店長がいい人だったな、と思い浮かぶが、桃子から、その男は花とやりたかったに決まってるじゃん、というようなことを言われて、「真っ白なふすまに墨汁をまるまる一本ぶちまけ」られたかのような、生理的な不快感を催す。

小学生のころ、映画館ではじめてみた映画、宮崎駿の「魔女の宅急便」を見ても、空が飛べたらいいよね、などと笑っている母親や女友達とは違って、「べつに空なんて飛べなくていいから、主人公みたいに家を出て、好きなだけ働くことができればどんなにいいだろうと、そんなことを思っていた」(p87)少女だった。そのために必死でアルバイトに精出して72万6千円のお金をためるが、あるときそのお金を全部、母親のモトカレ(「トロスケ」)に盗まれてしまい、ひどく落胆し、自分の将来がすっかり閉ざされてしまったように思う。

そんなときに母の友人で母が不在の時しばらく一緒に暮らし、突然いなくなった黄美子に再会し、絶望の淵にあった孤独な花の魂を鋭敏に感じとることのできる黄美子が、いっしょに来る?と誘って、すぐに花は彼女についていく。

 「花」
  黄美子さんが、さっきよりも大きな声でわたしを呼んだ。顔をあげて、黄美子さんを見た。
 「わたしと一緒にくる?」
  「いく」とわたしは言った。
 「黄美子さんと、一緒にいく」 (p74)


   黄美子はたまたま再会した花を一瞬見ただけで、花が孤独と絶望の淵にあることを見抜いてそう声をかける。後に明らかになるように、黄美子は実際的なことにはまるで無能な人間だが、人が傷ついていることを、誰よりも鋭敏に察知し、寄り添うことができる人間として設定されている。
  花は即座に黄美子の誘いに応じる。そこから黄美子との共同生活が始まり、花は黄美子がやっていこうとするスナックの共同経営者の立場になり、やがて自分と同じようにそれぞれ家庭の問題を抱えて、事実上帰る家をなくした蘭と桃子をも仲間にひきいれて、4人での擬似家族的な共同生活を始める。スナックの経営も順調に進んでいたが、同じビルで起きた火災でスナックは全部消失してしまい、稼ぐ手段が失われる。

 こうして、黄美子(や花の母親や琴美)の古い知り合いである安映水(アン・ヨンス)の手引きで、ヴィヴというカード詐欺グループを仕切る女性に紹介され、花は闇の世界へ足を踏み入れる。スナックどころではない大きな稼ぎで金はどんどんたまっていく。しかし、なにもできない黄美子はともかくも、蘭や桃子もテレビのおバカ番組にへらへらうつつをぬかすばかりで、花はだんだん苛立ってくる。自分が頑張って金を稼いでこの4人の共同生活を守らなくては、そしてスナック<れもん>を再建しなくては、という強い思いでがんばってみるが、経済を支える花の自負と他の3人とりわけ同世代の二人に対する花の支配権の行使のようなものは一段と強くなっていき、花と蘭や桃子との間の亀裂は次第に深くなっていく。花は「親」であるヴィヴに頼んで蘭と桃子をも下級のカード詐欺に加わらせることにする。二人はこれまでにない稼ぎに興奮する。こうしてカード詐欺に乗りに乗っているときが、3人にとって、いちばん活気に満ちた驀進の時だった。貯金をふえ、2000万円をこえる。

しかし、やがて矛盾はほどなく露呈する。もはやスナック<れもん>の再建は現実的に不可能だと花も覚らざるを得ない。ましてそんな建前でただ金をかせがせ、給料は与えられても、残りを事実上花が管理して貯めるばかりで、その金をどうするつもりか、自分たちの分け前はいつくれるのか、と桃子と蘭は花の絶対的な支配や管理に抵抗するようになる。花は逆にますます二人に対して管理主義的になり、外出も詳しく行く先などをノートに書かせたり、二人の携帯まで検閲したり、支配権を露骨に強めていく。花としては、すべて私がお膳立てしてやったんじゃないか、自分が全部おまえたちの生活を支えているんじゃないか、という思いが強い。しかしそれは蘭や桃子には通じない。

最初は自分が夢見る「家族」を守るために、一心不乱に稼いで金を貯めようとする花のいじらしさに好感を覚え、悪事をなして守銭奴のようにひたすら金儲けに走る姿にも、彼女のそれまでの境遇から、花自身が述懐するように、ほかに選択肢が無かったやむをえざる道行だったのだと好意的に考え、同情を覚え、お金がたまることに何よりも喜びを感じてほかに楽しむことも知らない花の頑なまでのストイックさやお金への執着に、或る種コミカルなものを感じて、彼女たちのノリノリの悪事に一緒にノッていた私たち読者も、次第に蘭や桃子のいいかげんさ、無責任、怠惰、身勝手さに花と共に苛立つと同時に、そんな彼女たちへの支配権を強め、厳しく管理し、ときにその苛立ちをぶつけて蘭や桃子を非難、攻撃する花の姿にも共感できなくなってくる。

蘭や桃子が身勝手だとは思うけれど、花の眼を介さずに、蘭や桃子の立場に立って見るなら、とても自分たちには手の届かない金額が必要な、スナック<れもん>の再建などとっくに非現実的な努力目標になってしまっていたのだし、目標を失ってなおひたすら稼ぎを増やすことに執着してストイックでありつづけることにどんな意味があるのか。せっかくこれだけ稼げるのなら、それをそれぞれ好きなように使えばいいではないか。お膳立てをしたのが花であることは認めるけれど、自分たちだって同様のリスクを負いながら、体を動かして稼いできたのだし、ある程度お金がたまったのなら、それを精算してそれぞれが自由に使えるようにするのが当然ではないか。そんなふうに考えることは、まったく不自然でも身勝手でもないだろう。むしろ、それを頭から否定して非難する花のほうがおかしいのではないか。花はあまりにも「家族」幻想への執着が強すぎて、その夢を奪われて、自分の行動、自分の生き方そのものが否定されたように感じ、それをずっと「スナックれもん」の再建という看板を下ろさないことによって見ないようにしてきたが、いよいよそれが無理だとさとったとき、ただ黄美子、蘭、桃子と自分の4人の「家族」を守らなくては、という思いだけが残された。しかし、その思いは黄美子はさておき、蘭や桃子にとっては意味不明の、花ひとりの思い入れに過ぎない。

蘭や桃子もたしかにそれぞれの家族の問題を抱えて家を出て、花と黄美子に合流したのだが、それは「帰るところがない」がゆえの逃げ場であり、いっときの仮の隠れ家であり、あくまでも消極的(ネガティブ)な意味合いの場でしかなく、花のように4人であらたな(擬似)家族を創っていくというポジティブな思いはなかっただろう。したがって、スナック<れもん>のような、自分たちでそこそこ稼いで、まっとうな日常生活を持続し、より豊かな暮らしが展望できるような仕事がそこで得られるなら、それを実現する過程を協力して維持する意味があるが、その展望がなければ、一緒に居ること自体に意味はない。花のように、おまえたちのために自分一人が頑張っているかのような考え方はまったく一方的な花の思い込みで、自分たちはそんなことを花に頼んでもいないし、自分たちには自分たちの思いや生き方がある。それを花の支配のもとで制約されたくはない。黄美子は自分たちからみれば、少しおかしい、わけがわからない存在だし、この4人で共同生活を続ける意味もない。・・・そんな蘭と桃子の思いが、彼女たちの立場に立って見ればごく自然なものに感じられる。むしろそれを頭から否定して拘束的な権力を振るおうとする花のほうが、ほとんど狂気の域に足を踏み入れてしまっているように感じる。

第10章「境界線」あたりから、その矛盾が一気に顕在化してくる。花は、自分一人が必死で頑張っているのに、蘭と桃子が能天気に寝転がってテレビを見て笑っていたりするのに激しく苛立つ。ろくな働きもしていない蘭と桃子がまるで対等な稼ぎをして当然の権利があるかのように貯めた金をどう使うつもりか「予定」を訊いてきたりする。そんなとき、花が冷蔵庫に入れておいたアイスのピノやワカメラーメンが消えている。それぞれが入れたものを勝手に食べない暗黙のルールも蘭や桃子は無視したのだ。これに花は尋常ならざる苛立ちをおぼえ、二人を烈しく責め立てる。あげく、花が幸せの源と考えて大切にしてきた「黄色いコーナー」にほこりがたまり、掃除するはずの蘭や桃子がさぼっていることを激しく非難する。そして、闇商売の「親」であるヴィヴから長らく連絡がないのは、黄色コーナーをおろそかにしたせいではないか、という思いが花の脳裏をかすめるのだ。ここまでくると、すでに花が半ば狂気に陥っているのではないか、とわたしたちは気づく。

その直後、花は工具店で黄色のペンキと刷毛を買ってきて、壁を黄色に塗りたくる。それは午前2時までつづく。油性のペンキだったため、吐き気を催したり、頭痛が起きたりするけれど、果ては愉快感に襲われ、ちょっとした言葉で3人は笑いころげ、ペンキの黄色が部屋中に飛び散る、狂気の場面だ。

刷毛をにぎりしめたまま三人は体を折り曲げて笑うたびにあちこちに鮮やかな黄色が飛び散った。黄色は生き物のように伸びて縮み、跳ね、帯のようにたなびいて、螺旋を描いた。スローモーションになった蘭と桃子のあいだをぬけて黄色は流星みたいに輝いて、わたしを射ぬこうと飛んで来た。わたしは胸をひらいてそれを受け止め、声をあげて笑った。わたしたちは無我夢中でペンキのついた刷毛をふるい、それがはねかえって顔や髪につくと爆笑し、黄色だらけになった体をくっつけ合って、何度でも身をよじらせて笑いつづけた。(p479)


  まさにSisters in yellow. 黄色まみれの(擬似家族の)姉妹たちだ。ここも、作者がインタビューなどで語っている「カーニバル感」とでも言おうか、狂喜乱舞ならぬ狂気乱舞的な世界が見事に描かれたシーンだ。こういうところは素晴らしい。

そしてとうとう花と蘭・桃子の対立は、桃子が貯めた金を持ち出そうとしたことから爆発する。その機に黄美子も暴発したりして、その勢いに驚いてなんとか事態を収拾する方向にもっていくが、時を同じくして、肝心の「親」のヴィヴが「飛んで」(金を持ち逃げして行方知れずになる)、花が好きだった(そしてカード詐欺の高度化したバージョンには彼女も参加していたが)琴美が同居人のヤクザに心中の形で殺されてしまう。それを機に共同生活は解散となり、500万円ずつ分けて、花、蘭、桃子は黄美子をひとり「黄色い家」に残して去る。

こうして20年がたち、半ば忘れていた黄美子らとのことを、黄美子の逮捕の報道で知った花が、なまなましく記憶を喚び起こされていくことによる語りが、この作品の中身になっている。その花が作中で、自分たちとは縁のない「持てる側」の人間というのは、どういう生活をしているんだろう?と思う場面がある。

みんな、どうやって生きているのだろう。道ですれ違う人、喫茶店で新聞を読んでる人、居酒屋で酒を飲んだり、ラーメンを食べたり、仲間でどこかに出かけて思い出をつくったり、どこかから来てどこかへ行く人たち、普通に笑ったり泣いたりしている、つまり今日を生きて明日もそのつづきを生きることのできる人たちは、どうやって生活しているのだろう。そういう人たちがまともな仕事についてまともな金を稼いでいることは知っている。でもわたしがわからなかったのは、その人たちがいったいどうやって、そのまともな世界でまともに生きていく資格のようなものを手にいれたのかということだった。どうやってそっちの世界の人間になれたのかということだった。わたしは誰かに教えてほしかった。(p428-429)


  生れて幼い時期をすごして、気がついて見れば、既に自分は貧しく、親の愛情も受けることなく、またどう頑張ってアルバイトに死ぬほど精出して金をためても、結局それは全部もっていかれてしまい、なにもかも失ってしまう。そういう花には、「ふつうの人たちの生活」がわからない。なぜ昨日のように今日がきて、今日のように明日も生きられると信じることができるんだろう?そんな資格をかれらはどうやって手に入れたのか・・・

花のこういう自問は、今の私たちの生きる社会のありように鋭く問いかけ、それを貫く刃のように鋭く、切実だ。自分はなにもしなくても、最初からそんな「資格」を与えられ、昨日のように今日を生き、今日のように明日を生きることが出来る「持てる側」の人間たちがいる。そして、決してそんな「資格」を持てない自分たちのような人間がいて、両者は決してまじりあえないし、わかりあうこともないだろう、花は、あるいは彼女に限りない共感をおぼえると思われる作者は、そう言いたげだ。

上に引いたつぶやきで分かるように、花にはそういう「持てる側」の人間とその世界がまったく理解できない。それはあまりにも自分からはかけ離れた、縁遠い「そっちの世界」なのだ。それは黄美子や蘭や桃子にとっても似たようなものだ。かれらはみな「持たざる側」の人間であって、「持てる側」の人間のこともその世界も理解できない。桃子は金持ちの娘ではあるけれど、彼等はひとしなみに人間として生きるために必要な大切なものを生まれながらにして奪われているような境遇で生まれ育ってきたといっていい。ついでに言えば、三人ともどうやら人並み以下の容姿でもあるらしい。つまり富だけではなく、女性として社会が認める人並みの器量も生まれながら与えられていない、文字通り「持たざる側」の人間ばかりだ。

この作品には「持てる側」の人間は、少なくとも主要人物としては一人も描かれていない。従って、この世の中には図式的に言えば、「持てる側」と「持たない側」の両方が存在するはずだが、この作品の世界には両者の間にいかなる通路も開かれてはいない。ただ金を稼ぎ、貯めること自体が「持たない側」から「持てる側」に通じる、自分にとっては唯一の通路だという思い込みだけが花を行動に駆り立てているだけだ。そしてその結果は挫折であり、それが花の考えるような通路でも何でもなかったことが明らかになるだけだ。

  

お金、シノギ、(擬似)家族

 

  この作品は金(かね)を描いたものだ、金とはなにかを描いたものだ、と私の或る友人はメールに書いてよこした。たしかに、この作品で表立って描かれている出来事、主人公の花たちを駆りたて、物語の進行をぐいぐい引っ張っていくのはお金であり、そのお金を稼ぐためのシノギ(犯罪)であり、その金を稼ぎ、シノギの闇世界へ踏み込む動機である擬似家族を作り、守ろうとする彼女たちの強い意志だ。金、犯罪、擬似家族、それぞれに大変興味深い、それぞれの「哲学」とでも言いたくなるような議論がこの作品には埋め込まれている。

金については様々な名言がちりばめられているが、その圧巻は、花にカード詐欺の手順を教え、偽カードを彼女に渡し、花がそれを使って盗みとってくる現金を受け取って、分け前を花に渡す指示役、犯罪のコーディネーターあるいはプロデューサーというべき「親」のヴィヴと呼ばれる、昔自らもバカラをやっていたという女性が花に語る、究極の賭博・バカラの賭場へ「本気で」やってくる男たちの話だ。

彼女は「わたしたちが賭けていたのは、金じゃないんだ」と言う。「お金を賭けているのに、お金じゃないってどういうことですか」と訊く花に対してヴィヴは、「いや、金は金なんだけど、あそこでほんとに起きてたことってのは、なんていうか」そこで少し考えるようにして瞬きをし、「そう、金の奥にあるものっていうか」と答える。読者にも花にも彼女の言葉の意味は理解しがたい。

ヴィヴは花の疑問に直接答えようとはせず、自身のバカラ体験を話し始める。彼女は28歳のときに、「サシで一億はったことあるんよ、全財産かき集めて、借金できるところぜんぶから集めて一億、バカラのために」・・・そうして彼女はその一回勝負で勝った、という。

 「あのときのことはぜんぶ焼きついてる。わたしらのまわりを囲んでた何十人ものギャラリーがどんな顔してどんな服着て、どんな男がいて女がいて、勝負がついたときにどんなふうに声を漏らしたか、ぜんぶ完全にそのまんま、焼きついてるね。あのときに起きたこと、あれがたぶん、金の奥なんだよ」
   「それは、勝負に勝ったことが、っていう意味ですか」
   「いや」ヴィヴさんはなにかを思いだすみたいに、自分の指さきにちらりと目をやった。「たしかに博奕は勝ち負けだよ。それがすべて。負けたら金はなくなるし、勝ったら金が入ってくる。単純な話。でも、それとおなじくらい、なんつうか、あの瞬間、あそこでは、金は無意味になるんだよ。それもただの無意味じゃなくて、圧倒的な無意味っていうか。あの瞬間だけ、金がこの世の中でいちばん無意味なものになるんだ。おかしいでしょ。だって金はすべてでしょ。それは間違いない。金がすべてで、でも、それと同時に金が無意味になる。金以上のものなんかあるわけないのに、そんなことはわかりきってるのに、でもここにはいま、金以上のものだけがあるんだ。それしかない。手につかんだ札束には、それが満ちてる。もうそれだけびんびんに感じて?うまく説明できないけど、そういう感覚なんよね。」(p368-369)


  さらにヴィヴは言う

「小遣い稼ぎのお遊び連中はべつだよ、でも本気でね、博奕を、バカラをやるやつっていうのがいて、こいつらは最初からちょっとずつ死んでんの」
 「ちょっとずつ死んでる?」
 「死んでるっていうか、ちょっとずつ自分を殺しつづけてるっていうかね。見ためは服着て飯食って普通に生きてる。外からはぜんぜん普通にみえる。でもあいつらはちょっとずつ自分を死なせてんの。ちょっとずつ死んでる、死なせつづけてる・・・そういうやつらが本気でバカラをやりにくんの。それで、金の奥にいこうとする」(p370)


  禅問答の言葉のようなヴィヴの一方的な語りで、花はその話の意味を理解しようと頭の中でヴィヴの言葉を繰り返す。おそらく読者と同様に彼女も直観的に分かるような気がするのだろうが、自分なりの言葉で説明できるような理解の仕方はできないまま、この禅問答的な言葉は途切れ、その後ヴィヴがその1億円をひと月ももたず賭場のうちで蕩尽してしまったとか、どうでもよくなってバカラはやめてしまったといった実際的な話に移っていく。しかし、ここでヴィヴが語った金の話は、もちろんひたすら金を稼ぎ、貯めようとしている花のありようと重なってくる。スナックの稼ぎなどとはケタの違う金を稼ぎつづけながら、その行為はどこへいくのか。花は、こんなことを始めた当初はもちろん、自分が黄美子たちとの生活を守るためだと強く、硬い決意と共に考えていた。


 なにより、わたしには目的というか、目標があった。ただあてのない金のために、楽をするためにこんなことをしているわけじゃないという気持ちがあった。金を稼いで自分の家を守ること、そして?そう、金を貯めてもう一度、わたしたちの「れもん」を取りもどすこと、そのために、わたしはこれを始めたのだ。
(p357)


  しかし、その花自身が、もはやその「目標」は達成しえない、といやおうなく気づいていく。ではそのとき、ひたすらストイックに金を稼ぎ、貯め込み、ひた走ることにどんな意味があるのか。何を目指して自分は疾走するのか。そこにヴィヴの語る「金の奥」、そこでは「金がすべて」であったその金が、あたかもお金というものが、価値を構成するものとしてまったく根拠のないものであって、その本来の姿をそこで顕わにするかのように、「圧倒的に無意味」になる、そんな究極の到達点と二重写しになるものがあるのではないか。この疾走は、そのようなあらゆる価値の破綻に向けて「ちょっとずつ死んで」いくことではないのか。

お金をめぐっては、ほかにも興味深い議論が展開されていて読みごたえがある。たとえば自分たちが情報を抜き取って金を引き出す富裕者の口座からどんどん金が引き出されたら、彼等は気づくのではないか、あるいはお金が無くなって彼らは困らないのか、彼等も時間をかけてその金を貯めたのかもしれない、と訊く花に対して、ヴィヴは、そんわけあるかよ、と笑う。口座にいくらあるかも知らないで済む金持ちどもは何の努力もしていないし、その必要もない。「あいつら金持ちが金持ちであることに、理由なんかないんだよ」と言う。

ないよ。あんたが生まれつき貧乏だってことに理由なんか。それと同じ。(p385)


  彼らは最初から金持ちなんだし、そうでいられるための自分らに都合のいい仕組みをつくりあげて、そのなかでぬくぬくやりつづけるのだ、と。

金の量は決まってるんだよ。金持ちのところに金があるから、あんたのとこに金がこない。ぜったいにこない。すごくシンプルな話なんだよ。(同前)

「金は権力で、貧乏は暴力だよ」とヴィヴが名言を吐くのもこの箇所においてだ。

「貧乏人は最初からぼこぼこに殴られてるから、殴られるってことがどういうことかわからない。たこ殴りにされて、されつづけて、頭も体もばかになってる。それがあたりまえのまま育つ。だからいろんなことがわからない。でもわからなくても腹は減るでしょ。腹が減ったら食い物がいる。食い物を手にいれるには金がいる。金を手に入れるにはどうしたらいい?働けばいい?どこで?どんなふうに?
  ヴィフさんは前歯を見せて笑った。
 「それは、あいつらのためのルールだよ。わたしはそんなルールは知らない。あんたも知らないでいい…(後略)(p386)


  彼女はきれいさっぱり「持たざる者」の世界と「持てる者」の世界を切り離す。それらは相容れない世界であり、交わることもない。ただ「持てる者」が支配し、彼等に都合よく世界をつくりあげ、それを維持する仕組みを持って固定化していくだけだ。

ある意味でこういう考え方は、花の「みんな、どうやって生きているのだろう。・・・今日を生きて明日もそのつづきを生きることのできる人たちは、どうやって生活しているのだろう。そういう人たちがまともな仕事についてまともな金を稼いでいることは知っている。でもわたしがわからなかったのは、その人たちがいったいどうやって、そのまともな世界でまともに生きていく資格のようなものを手にいれたのかということだった。どうやってそっちの世界の人間になれたのかということだった」という<わからなさ>の延長上にある。ただ、その<わからなさ>にとどまっている花とは違って、ヴィヴはみずからその自問にきれいさっぱり竹を割ったような自答として、或る種のマルクス主義者や無政府主義者のような観点から、権力を独占し、この社会を都合よくつくりあげている「持てる側」の人間たちを小気味よく斬り棄てていく。彼女は「持てる側」のつくったルールなどに従うつもりはないし、その必要もなく、自分たちは自分たちの世界のルールで生きればいい、と割り切っている。そこには花にはある不安、迷い、うしろめたさ、罪障感のようなものはかけらもない。

ヴィヴの論理からすれば、花が足を踏み入れたシノギの世界は、「あっちの世界」のことなど考える必要もない「こっちの世界」のいとなみであって、当然許容されてしかるべきものであり、これに少し粉飾をほどこせば、江戸時代の「義賊」鼠小僧のように、役人と結託して庶民からなけなしの金を巻き上げて蓄財してきた富豪商人どもから金を奪い、庶民にばらまく美談に作り上げることもできるだろう。それは現代で言えば、貧富の格差を多少とも縮めるために行われる、所得や富の社会的な再分配と同じ意味をもつものに過ぎない、と。けれども、花にはヴィヴの論理を自分の言葉とすることはできない。彼女にはヴィヴのように<わたしはわたしだ>と言い切る、自同律のゆるぎなさへのすさまじい確信が持てない。ただ疑うことができないのは、<わたしはわたしだ>と言い切ることができない、根源的な自己異和に由来する不安や動揺であり、それが彼女の吐く言葉に、行動にゆらぎを与えている。

ほとんどヴィヴの論理に即してひた走るようにもみえる花は、そういう側面だけ取り出せば、自分はこう生きるしかなかった、選択なんてしようもなかった、そう確信して突っ走ってきたようにみえ、「正しくない」ことをしてきたかもしれないが、「人生として間違ったことをしているのかって訊かれると、そうじゃないっていう気持ちがどうしてもあって…(中略)・・間違っていないと思う」(305)と考えてきただけにみえるが、他方で「でも、お前の人生どうなんだって訊かれたら、なんて答えられるんだろうって」(同前)という思いを決して手放すことができないのだ。花のこの言葉を聞いた黄美子は、誰がそんなことを訊くんだ?誰も訊かないよ、という。花がさらに、自分が自分に訊いているのかもしれないけどと言うと、じゃ自分で自分に訊くのをやめればいいじゃんか、と事も無げに言い、話が通じない。ヴィヴはとうの昔に「自分で自分に訊くのをやめ」たのだろう。だが花にはそれを「やめる」ことなどできないのだ。なぜなら、そうした問いかけは花という存在の根源から、自分自身への異和そのものからやってくるものだからだ。

この物語の表舞台で語られるのは、順序から言えば、(擬似)家族、お金、シノギ(犯罪)であり、主人公たちはそれに惹かれ、駆り立てられて作者がいろんなところでたびたび口にするような「カーニバル」感に溢れ、昂揚感に満ちて踊り狂うように驀進していく。それは「正しくない」かもしれないが、生き方として「間違っている」とは思えない、彼女たちなりの必然性、「こう生きるしかなかった」という或る確かさ、生々しさ、リアリティをもって描かれていく。彼女たちが作り出そうとした擬似家族には血のつながりこそないけれど、外部の社会から、誰にも愛されないもの、必要とされないもの、価値のないものとして捨てられ、逐われるようにして身を寄せあった者どうしの共感があったはずだ。それは花にとってだけでなく、花と同じように外部世界で誰からも必要とされない役立たずであり、そこからはみ出して、どこにも生きる場を見出せないでいた、「持たざる側」の存在である黄美子、蘭、桃子にとっても、ようやく見出した自分が自分なりに生きられる場だったはずだ。彼女たちはその(擬似)家族の内部では互いに自分が必要とされていると感じることができるだろう。

花は自分たちが生きるために必要不可欠な、その場所を、(擬似)家族を、なんとしても守りぬきたい、と思う。そのことがまた、誰にも必要とされてこなかった花が自身を必要とされる者と感じることのできる源であり、その思いが、外部社会でも希有なほどの、目標に向けてのたゆみない努力、勤勉さ、そして守るべき者たちへの強い責任感へと彼女を駆り立てていく。そんな彼女が自分が守るべきものを守るための武器は「お金」しかない。それを得る手段さえあれば、お金は万能だから、ほかに何が無くても自らの力で運命を切り開き、守るべきものを守ることもできるだろう。だから彼女は必死になって働き、稼ぎ、お金を貯める。その過程で、黄美子が金勘定などまるでできず、現実的な問題を処理することに関してまったく無能であることが次第に明らかになる。また蘭や桃子もまたそれぞれの事情をかかえてその共同生活に加わってはいるが、必ずしも花とその(擬似)家族への強い思いや夢を共有しているわけではないことが、次第に明らかになってくる。

それでも花はスナック<れもん>を経営していく過程で、経理を一人で担い、それぞれの役割配分を差配していくマネージメント能力を発揮して、順調に売り上げを伸ばし、貯金を殖やしていく。その順調な歩みを全部ご破算にしてしまったのは、花が貯めて来たなけなしのお金を泣き落としの「借金」でほとんど全部持ち去ってしまう母親と、スナック<れもん>と同じビルで発生した火災だった。客観的に見た場合、社会的存在しての花は、身分証さえ持たない、未成年の家出少女に過ぎないために、お金を稼ぎ、貯める唯一の手段であった、黄美子と共同経営の形で始めたスナック<れもん>を火災で失うと、もう闇の世界に収入の道を求める以外に自分たちの(擬似)家族を守る手立てはなくなってしまう。

こうして花は黄美子の古い知り合いである闇商売のブローカーのようなことをして暮らしている映水の仲介で、闇の世界、カード詐欺の世界へ踏み込んでいく。そこでも彼女はもちまえの才覚と生真面目さでその犯罪を仕切る「親」(ヴィヴという女性)の信頼を得て、これまでとは桁の違う金額のお金を稼ぐようになる。「生真面目さ」というのは、闇の世界でのことではあるが、その世界のルールを厳格に遵守しつつ、その範囲内で強い責任感をもち、細心の注意を払い、「親」の指示に忠実に従い、その教えをいちはやく呑み込み、意欲をもって全力で取り組み、成果を上げる、といったことで、これが表の社会で発揮されれば、一流の職業人として活躍できそうな資質であり、能力であり、姿勢であると言えるようなものだ。

花はどれほどお金を稼いでも、自分が美味しいものを食べたり、贅沢な衣服を着たり、豪奢な物を買ったり、遊んだりするわけではない。むしろ消費に関してはおそろしくストイックで、ひたすら貯金するだけだ。当初はそのお金で焼失したスナック<れもん>を再開するのだという思いが強かったが、次第に自分自身でもそれはもはや不可能だと覚っていく。そのころすでに貯めたお金は2000万円をこえるほどになっているのだが、当初の目標を失うと、お金を貯めること自体が自己目的になっていたために、花にはその使い道がわからない。もともと「好きなこと」(趣味)を訊かれても答えられず、「好きな人はいるか」と訊かれてもすぐには思い当たらない花のことだ。お金をもっても使う術を知らない。そこを花とは思いを異にする桃子や蘭に突かれ、すったもんだの末、結局は貯めたお金を分配して擬似家族を解散するに至るのだが、あれだけ必死になって追い求めた万能のはずのきらきら輝いてみえたお金が、この時点では花にとってはすっかりその輝きを失い、ほとんど意味のない無力なものになっている。そして、同時に、花が形作ろうとしてきた(擬似)家族もまた、それぞれが「持たざる側」の人間として空虚をかかえていたがゆえに、夢を共有しあい、寄り添って擬似的な家族をつくっていたのだが、夢が潰え、お互いがお互いを必要とせず、それぞれの事情に還っていくとき、自然に亀裂が生じ、崩壊する。

「(擬似)家族」→「お金」、そして最後の「シノギ(犯罪)」もまた、花たちにとっては、お金を得るための必要不可欠な、唯一の手段であったのだから、そのお金が或る程度貯まり、同時に夢が潰えてそのお金に意味がなくなった時点で必要のない無意味なものになる。ちょうど「金の奥」を求めて疾走するバカラの博徒が、そのゴールに到達した瞬間に、お金が無意味になり、無価値なものとなり、「ちょっとずつ死んで」いた彼がついに自壊し、死に至るのと同様に、だ。物語の上では花たちの犯罪グループを仕切っていた「親」であるヴィヴという女性が、カード詐欺の寄生する金融の末端処理のシステムの切り換え等、新しい波にうまく適応できずに従来の犯罪手法でやっていけなくなり、追い詰められて「飛ぶ」(金を持ち逃げする形で姿をくらます)ことによって終止符が打たれる。

犯罪に関して言えば、花がカード詐欺に関わるようになってからの物語を、極上のエンターテインメントのようにぐいぐい引っ張っていくのは、この犯罪の詳細な手口をことこまかに解説してみせてくれる記述だ。私はもちろん、大多数の読者にとっても、こうしたカード犯罪の手口、そのシステムの詳細は知られてはいなかっただろうし、それ自体としてこの現代的な犯罪の手口、実体を犯罪者の側から描いてみせたこの部分は非常に興味深い。著者が巻末の「主な参考文献」として挙げている2冊のうちの1冊、藤村昌之の『シノギの鉄人〜素敵なカード詐欺の巻』(株式会社宝島社1995)のカード詐欺に関する裏話がその情報源の少なくも一部になっている。この本は「作家・元ヤクザ」で「二度の逮捕を経て、'90年よりカード詐欺に着手する。大量カード騙取事件、二億円宝石盗難事件容疑で'93年に逮捕。現在、大阪拘置所在住」と奥付のページに記された著者の手になるもので、いわばホンモノによる犯罪の手口の暴露本のような内容の、それ自体こうした裏の事情をしらないわたしたち素人には非常に興味深い(戦慄すべき内容ではあるが)、そしてユーモアに満ちた書きっぷりも含めて面白い実話だが、その中のカード詐欺にかかわる裏事情のエッセンスを取り込んで、作者はそれをこの物語のクライムストーリーの部分をぐいぐい引っ張っていく力に転じている。作者は別段クライムストーリーを書こうとしたわけではないが、その微に入り細に入りカード犯罪の具体的な手口を生き生きと描き出す作者のストーリーテラーとしての手腕は、そう読んでも迫力のある一級のクライムストーリーを読ませるような磁力、牽引力を持っている。

こうして物語の表舞台を席捲し、牽引し、登場人物たちをノリにノセて踊り狂わせた、(擬似)家族、お金、シノギ(犯罪)という三つの要素は自滅するかのような形で表舞台から消えていく。すべての営み、熱狂、全身全霊での没頭が、空しいものであったかに見える。琴美が殺されることで幕を閉じただけに、それはまるですっかり忘れてしまいたい悪夢のようだ。

実際、花は忘れたいと思い、ほとんど忘れていたのだし、20年ぶりに黄美子の消息を報道によって偶然に知ることによって、否応なくその記憶を呼び起こされたのだった。花は琴美の死には自分に責任があると感じていて、心の奥深くで傷としていまだに痛み、悪夢は自分が積極的に関わった悪夢として、いまも彼女にとって悪夢でありつづけている。しかし、彼女が不安になって連絡した加藤蘭は、その悪夢の中の自分たちをすっかり被害者に転じて、すっかり終わったこと、済んだこと、とみなしている。自分たちは未熟な少女として、黄美子のようなオトナたちにいいように「やらされていただけ」だと。 花にとっては、そうはいかない。すべてが潰えたあとに、なお花の心をとらえていて、20年前の過去へ引き戻そうとするものがある。それは「(擬似)家族」でも、「お金」でも「シノギ(犯罪)」でもない。それらはすべて潰え去った。みな空しいものとして自壊していった。それにもかかわらず残ったものとは何だったのか。忘れようとして忘れることができず、捨て去ろうとして捨て去ることができず、いまだにこうした20年を経て自分を過去へと否応なく連れ戻そうとするものはなにか。

花は加藤蘭との再会ではそれが何かを言うことができず、胸にひっかかりをもったまま別れた。しかしその後花はそれを明らかにしようとして、かつて教えられていた映水の秘密の電話番号に、もう使ってはいないだろうと半ば思いながら、電話をかける。意外にも電話はつながり、20年の時を経て映水と会話をかわし、花は心にひっかかっていた琴美のことを映水に告白し、お前の責任なんかじゃない、もう済んだことだ、と言われ、涙を流す。また、映水からいまの黄美子の居場所を聞くことができ、花は彼女を訪ねていく。黄美子という存在は、花にとっては、蘭がそうしていたように、自分を被害者として、つまり自分をあの世界に誘い、連れ出し、一緒に生活させ、金をかせぐことへと導いた、と数え上げることができるような罪状を着せて、最後に自分が裏切り、捨ててきた存在、できればあの悪夢の世界ごと忘れてしまいたいと無意識に処理してきた存在だった。それが報道ですべてが甦り、加藤蘭と話して彼女の言葉に違和感を覚えるにいたって、黄美子という存在が自分にとってどういうものであったかに花は気づく。自分は彼女にぜんぶ罪を負わせて、忘れ去ろうとしていた、と気づくのだ。そこに花が20年間忘れようとして忘れ去ることができず、一片の記事で彼女を過去へ連れ戻した、彼女自身の心の奥底にうずくまるようにして潜んでいた深い罪障感があった。

それはまたこの作品を本質的に読み込み、過去のこの作家の主要作を順に読んで来た者とっては、デビュー作であらわに表現されていた語り手≒作者自身の自己異和、あの<自同律の不快>にまではるかにつながるものだと感じられる。そして、この作品においてはじめて、作者はこうした<罪障感>なり<自己異和>なりをポリフォニックな世界を構築することによって、はじめて登場人物たちと、そのそれぞれの世界として、形象化することが出来たと考えられる。

花の中に黄美子との絆が甦る。20年を経て黄美子に再会した彼女は、ちょうど黄美子が絶望の淵にあった自分に、一緒に来る?と声をかけたように、黄美子に、自分と一緒に行こうと言う。けれどもそれに対して黄美子ははっきりと、私は行かない、と言う。しかしそれは拒絶ではない。ここにいる。また会える、という黄美子のそれにつづく言葉は、20年の時を経でよみがえった絆と、二人の将来へ向けての新たな歩みかたを高らかに宣言するような言葉だ。


 

「でも、お前の人生どうなんだ」と、誰が訊くのか


  その「花」の切実な思い、その生き方の根底にある思いを本人が語る場面は忘れがたい。

「だってわたしだってさ、未成年で家出同然で、まだお酒飲んじゃいけないのに毎日飲んで仕事してるわけだよね。警察が来たときびくびくしたし、今も年齢は隠してるしさ。でもね、わたしからすると、生きていくにはこれしかないっていうか、これ以外になかったっていうか、それは本当なわけだよ。だから映水さんも、そこはおなじで」
 「うん」
 「だからって、べつに自分のやってることとか映水さんのやってることが正しいって言いたいわけじゃないし、言えないんだよね。でも、じゃあ、わたしはまちがってるのかって言われると、なんかそうは思えなくて」
 わたしは考えていることがうまく説明できなくて、こめかみをごしごし掻いた。
 「正しくないよ、そりゃ正しくはないけど、でも間違ってるわけじゃない。そう感じるの。未成年だし、その意味で悪いことなのかもしれないけど、でも、人生として間違ったことをしてるのかって訊かれると、そうじゃないっていう気持ちがどうしてもあって、わたし、なんか、映水さんの話きいてから、ときどきそういうこと考えるんだ。(以下略  p304-305)

花があれほど金に執着して稼ごうとするのは、別に守銭奴のようなお金に対するフェティッシュな感覚によってではない。自分が家族だと思いたかった黄美子、蘭、桃子と自分のために、その家族を守るために稼ぎたかったのだ。それ以外にその方法がなかったからだ。そしてそれが、それにもかかわらず不可能だと知った時に彼ら内部での亀裂があらわになり、擬似家族が崩壊する。しかし、花がその擬似家族の為に自分がやらなければ、という強い思いと、きまじめな責任感でストイックなしんどい作業をつづけてきたことは事実で、それはもしまっとうな仕事で発揮されたなら素晴らしい成果を生んだかもしれないほどのものだったろう。そういう人間の愛する者のための思いや責任感はまっとうな世界にあろうと闇の世界にあろうと変わりないものだ、と作者は言いたげだ。この作品には、そういう社会の最底辺で、生れた時から劣悪な境遇に置かれて、こう生きるほかになかった、という人生を、それでもその中で精一杯の弱者への優しさ、他者への温かい思い遣り、強い責任感、自分の選択に対するはっきりとした自覚等々を持って、自分の力の限り精一杯、全力で疾走し、生き抜こうとする人間に対する熱い共感が溢れている。

「正しくないよ、そりゃ正しくはないけれど、でも間違ってるわけじゃない。」という花の言葉は私たちに鋭く問いかける。或いは読者の多くは花の言葉に共感をおぼえるかもしれない。そこまで共感できなくても、この社会の根幹にある様々な歪み、生れついての不平等、いまやますます固定化していく一部の「持てる側」と「持たざる側」との格差、乖離、貧しいものがますます奪われ、一層貧しくなっていく「宿命」のような人生のサイクル、そういったものを、この花の言葉の背後に見ることはできるだろう。そのとき、花たちがカード詐欺でやったように、自分の銀行口座にいくら金があるのかも知らないでいられる富裕層の富をかすめとって、花たちのような社会の底辺に近いところで生きるほかはない貧しい者の間で分かち合うことは、結果的に社会の富の偏在を是正する、富の社会的な再配分に相当し、正当化されないまでも許容されるべきものではないか、と考える人もあるだろう。権力と結託して貧乏人から金を巻き上げて富を積み上げた豪商からいくばくかの金品をかすめとって貧しい庶民の間にばらまく鼠小僧のような「義賊」に喝采する庶民の心理とはそういうものだろう。それはいつの世にもあった考え方だし、心情的には共感できるものがある。しかしそれは、「正しくない」だけではなくて、花の言うのとは逆に、たぶん「生き方」としても「間違っている」。

主人公の思いに寄り添い、そのものの見方に同調する読者としてのありようから一歩ひいて、花という未熟な少女の思いを相対化して見てみればいい。花の言いたいことは、花自身の主観的な思いとしてはよくわかる。けれども、一方で、花と同じような境遇、あるいはそれよりももっとひどい境遇のもとで成長した子供たちだって大勢いることは確かなことだ。そして、その大部分は、決して花たちのような犯罪に手を染めることはなかった。人間は可塑的な存在だから、どんな過酷な境遇に育っても、「だからこれ以外に生きようがなかった」と犯罪者としての人生を強いられて歩む一本道であるかのように正当化することはできないだろう。貧しく、虐げられた人間には、自分の人生を選ぶこと自体ができない、選択ができるのはそういう境遇を知らない「持てる側」の人間だけだ、というのは、「持たざる側」の人間が「持てる側」の人間の、自らの特権的立場への無自覚、無神経に反発して投げつける、誇張された修辞としての捨て台詞ではあり得ても、ほんとうは真実ではない。「こう生きる以外に道はなかった」かのような花の言い草には、厳しいようだけれども、嘘があると言わなければならない。自身の生き方を正当化するために、自分を否定したくないための、虚偽が含まれている。

もとより、花あるいは花のような苛酷な人生を送ってきた人間に対して、もともと恵まれた境遇に育った人間が外部から、花のような生き方を自身の価値観に基づいて「判定」し、否定あるいは批判しようとすることにもまた、説得力はないだろう。否定され、批判される側から言えば、そういう批判者、否定者は、自身の立場の特権性に無自覚な存在だと思えるに違いないし、「あんたたちには絶対に理解できっこないよ」と言うだろう。「いい気なもんだ」と。しかし、誰が否定せず、批判しなくても、先に言ったような、彼等と同様に苛酷な境遇にありながら犯罪に走ることなく、貧しさに耐えながらも盗みを働かず、強く、正直な生き方をした人々は無数にあるに違いなく、そういう人々の存在そのものが、彼等道を踏み違えた者たちを、言葉で何も語らずとも、まっこうから否定し、批判しているのだと私は思う。同じ時代、同じ社会に生きる彼等の存在それ自体が、彼等に対する批判であり否定であると思う。おそらくそのことに気づくとき、花のような人間は、どんなにきつくても、もう犯罪に手を染めようとはしないのではないか。そして、自己を正当化するさきのような言葉をつぶやくこともないだろう。

あの呟きを吐いたときも、そうやって自分の生き方を正当化しながらも、「でも、おまえの人生どうなんだって訊かれたら、なんて答えられるろうって」と花は口ごもる。それに対して黄美子は、そんなことを誰が訊くのか、と反問し、「誰もそんなこと、訊かなくない?」と言い、「自分で自分に、訊いてるのかもしんないけど」という花に、「じゃ、自分で自分に訊くの、やめればいいじゃんか」と、花の自問を封じてしまう。しかし、花には、「間違っていない」という自分を正当化する自身の言葉に確信が持てないのだ。ここでは「おまえの人生どうなんだって訊く」者が何者なのかは明らかにされていない。花は黄美子に問われて、「自分で自分に、訊いてるのかもしんないけど」と答えている。この花の「確信のもてなさ」は、この作品の語り手=花、そして作者にとって、本質的なものであるはずだ。

彼女はヴィヴのように「間違っていない」「あっちの世界のことなんか考えなくていい」と自分自身に対して言えないのだ。それは処女作以来の主要作品のつねに核心をなしてき語り手≒主人公たちの心の根源から沸き起こって来る不安や恐れや動揺と同じものだ。そしてそれは処女作がかなりあからさまに描いていた自己異和、「わたしはわたしだ」と言い切ることのできない<自同律の不快>に遡ることができる。

ここでも、花は黄美子に「誰がそんなこと訊くの?」と言われて答えることができない。自分が自分に訊くだけかもしれないけど、などと曖昧に答えるだけだ。しかし、もしそこに誰かを置くなら、私が先に書いたような、花と同じように、あるいは花よりももっと苛酷な境遇で生まれ育ちながら、生涯犯罪に手を染めることもなく、いわば「清く正しく」強く生き抜く人々であろうと思う。彼らは言葉でそんなふうに問いかけることはないかもしれないし、ましてや花を責めることもないだろう。けれどもその存在それ自体が、花に問いかけている。花に「でも、おまえの人生どうなんだって訊かれたら、なんて答えられるだろうって」と口ごもらせるのは、そういう人々の存在なのだが、彼女自身にはそれが見えてはいない。だからそういう問いかけをするのは、ただ「自分で自分に、訊いている」だけなのかもしれない、と思うのだ。

わたしはいま、花の自身の生き方を正当化する論理のカウンターウエイトとして、花に負けず劣らず貧しく、苛酷な人生を、犯罪にも走らずに生きている人たちの存在を置いてみたが、それはこの作品の具体的な登場人物で例示すれば、花の母親・愛であり、花の一筋の光だった黄美子だと考えることもできるのではないだろうか。ここで私たちは先に留保していた、花の母親・愛という存在の、この作品全体における意味合いについてもう一度立ち戻って考えてみたいと思う。

母親・愛はたしかに、周囲の人たちから母親失格とみなされるような母親であり、だらしないところのある欠陥だらけの人間かもしれないが、花が語るように、まったく愚かで、人に騙されることはあっても、人を騙すようなことができる人間ではない。その愚かさ、お人よしな性格的弱点ゆえに人に騙され、借金を負わされてにっちもさっちもいかない所まで追いつめられて、ほかに頼れる者もなく娘の花に救いを求めてその虎の子の200万円を持っていくことで花を挫折させ、深く傷つけるが、それも悪意からではなかった。むしろ彼女は黄美子に言わせれば、誰であれ他者に対してつねに開かれた、「優しい」、「人の話をすごく聞く」、ほとんど「お人よし」と言っていいような人物だ。娘の花への関わり方が希薄で、子育て拒否(ネグレクト)とみなされかねないが、その名のごとく彼女は娘・花を愛する母親であり、その母子の絆は外部からうかがい知れないほど強い。そのことは花もよく知っているはずだ。そして、彼女自身はつねに貧しく、苛酷な境遇のもとに生きて来た人だ。

あるいはまた、黄美子もそれと明示はされないが、あきらかに発達障害の女性で、悪意の人にモノのように利用され、騙されることはあっても、自らが悪意をもって人を騙し、裏切ることができるような人物ではない。むしろ人の心の傷、いたみに誰よりも敏感で、そんな打ちひしがれた、孤独な魂に寄り添い、その存在自体で、温かな一条の光を投げかけるような人物だ。彼女もまた、幼いころから貧しく、人に騙されて放火や窃盗のような犯罪をおかして刑務所を出たり入ったりしているような母親の背負った借金を、子供の頃から返そうとして走り回って、いまだにその肩代わり借金の返済をつづけているような人物だ。花が自身の犯罪やその生き方を正当化しようとする論理のカウンターウエイトとしてこの作品の中に置かれているのは、実は彼女たちの存在ではないのか。

 

<性>はどう描かれ、或いは描かれなかったか


  これまでのところで、私がこの作品を読んであれこれ思った部分の大方には触れて来たと思う。しかし、ほんとうはまだまだ、よくわからないところがある。たとえば琴美という、花が大好きだった女性のことだ。黄美子や花の母親の、昔からの知り合いであり、銀座の美人ホステスで、スナック<れもん>を始めた黄美子と花を援けに、客と一緒に来店して、大きなお金を落としてくれる。また花が琴美の友人でもある映水の紹介でヴィヴの差配するカード詐欺に加担し、腕の良さで、より高度で大掛かりなクレジット・カードの情報を抜き取るシノギに加担していくとき、映水とともに琴美も自分が働く店を舞台にその一翼を担う。最後は同居者であるヤクチュウのやくざの妄想の犠牲となって、その男に無理心中の形で無残に殺されてしまう。この琴美は作品の世界でいつも主人公の生き方の根幹にかかわっている主要人物たち、黄美子、映水らの友人でもあり、花が好意をあからさまに示している女性でもあるのだが、そのわりには、ほかの人物と比較して、その存在感が希薄だ。従って、彼女はどういう役回りとしてこの作品の中に生きているのか、ほんとうのところもうひとつしっくりと私の中におさまってくれていない。

突拍子もないことに思われるかもしれないが、或いは花に同性愛的な傾向があって、琴美はその対象だったのではないか、という考えが頭をかすめることがある。黄美子への思いは女性に対するというよりも、人間としての共感や絆、同じ世界の人間としての共振のような趣があるし、同世代の蘭や桃子に対する思いは、この本の英語のタイトル "Sisters in Yellow"のごとく、擬似家族を構成する姉妹だというほうが実情に合うだろう。

ちなみに、この英語のタイトルは別段この小説の英語版の翻訳者がつけた英語版のタイトルというわけではなく、最初から作者が邦題に添えてつけた英訳のようだから、それなりの意図を含んだ言葉なのだろう。黄色の明るい、そして私に言わせれば幾分か不安を催す、あるいは幾分か狂気じみた世界で、ノリノリで憑かれたようにお金を稼ぎまくってひたすら驀進し、興奮の極みで大狂乱、最後は部屋中黄色の油性ペンキが飛び散って、吐いたり頭痛を起こしたり揚句は理由のない愉快感に襲われて笑い茸でも食べたように一緒に笑いころげて自爆し、ちりぢりになる、黄の色に染まった姉妹たち・・・

琴美に戻ると、どうもそれらほかの女性に対する関係と、花―琴美の関係とは性質が異なるようで、ごくふつうの異性愛や同性愛やその前駆的な憧れのような気持ちに最も近いように思われる。振り返ってみると、この物語には恋愛というものが登場しない。母親の彼氏だのモトカレだの、映水のような男性も登場するけれど、近くにいる黄美子や琴美との関係は男女の関係ではない。琴美はヤクチュウのヤクザと同居しているが、そこにはおよそ「恋愛」と言えるようなものはなさそうだ。肉体関係の腐れ縁はあっても、およそ恋という幻想の入り込む余地が無い。 唯一、あるいは、とその可能性を垣間見るのは、琴美が最後に会いに行こうとしていた、映水の死んだ兄の友人だったヤクザの志訓という映水にとっても長年行方不明だった男で、作中では映水が花に語る昔話に登場するだけで、その生きた姿は作品世界に登場はしない人物だ。或いは琴美は昔彼に女性として好意を抱いていたから、彼が生きていると知っていま同居している男に知られれば殺されるかもしれないリスクをおかしても会いに行きたいと考えたのかもしれない。或いは単に昔懐かしさに会おうとしただけだったかもしれない。

ほかに「恋愛」的な要素はこの作品世界には登場しなかったと思う。もしあるとすれば、それは花の琴美に対する感情ではないか、と思ったのだ。もしそうだとしても、それが「恋愛」に類するものだとは花自身が気づいてはいない。ただ、彼女が琴美の印象を語るときの手放しの好意の表現は、ほかの人物に対するものには見られない、ふつうの恋する、あるいは憧れの対象に対する好意の表現に最も近いものだ。私などが読んでいて、この作品には女性がたくさん登場するが、男性として、異性としての魅力を僅かなりと感じるのは琴美だけだ。また、同性である花の目を通してではあるが、美人だというふうな、異性を異性としての属性において肯定的に評価する場合に使う感情のはいった言葉で描写されている女性は琴美だけだと思う。もちろん琴美の死は花に大きな衝撃を与える。とくに、映水が琴美には言わないようにと釘をさしたにも関わらず、映水から聞いた、志訓が生きているということを花は琴美に話してしまい、その結果、志訓に会いに行こうとした琴美が、そのことがきっかけで、ヤクチュウのせいで疑心暗鬼になっていた同居のヤクザ男に殺されることになったらしいことから、花は琴美の死に自分は直接の責任があると思い、20年を経てもなお心の傷としてかかえていた、というふうな特別な事情も花と琴美との関係やそれがこの物語全体の中で持つ意味合いを考える上では考慮すべきことかもしれない。

しかし、あらためて考えてみると、わが主人公花は、恋愛経験もないらしい。もちろん彼氏などいない。彼女が20年後に思い出す、この物語の中心をなす黄美子たちとの共同生活の時代というのは、彼女が17歳から20歳までの、いわば娘盛りだ。いくら今日を食べて生き残ることで精一杯の日々を過ごして来て、恋愛など無縁だったとし、ひたすら金儲けに精出して生きていたとしても、眼の前に男性が現われれば、女性としての好き嫌いの感情がまったく作動しない、ということは、木石ならぬ肉体をもった女性としてあり得ないだろう。しかし、主要な人物である映水をはじめ、桃子が連れ(られ)てくるニャー兄ことライターのながさわ猫太や、客として店に現れる男性(まあ老人が多いかもしれないが)等々についても、男性としていい感じだとか、いけすかないとか、そんな印象さえ花の心に浮かぶことはないようだ。あれだけ花の内面の思いやつぶやきをそのままえんえんと記述する文章がある中で、そうした異性への評価、感情の起伏が、まるで見られないのは異常なことではないのか?それは17歳から20歳という娘盛りの女性としては異常なことではないのか?この作品に登場する男性は、老人でなければ、映水のようにどちらかといえば中性的というのか女性的というほうがいいような優しい男性か、琴美を殺してしまうヤクチュウのヤクザのような暴力的な男性しかいなかったのではないか。

吉本隆明が無名のごく若かったころ、太宰治に会ったことが一度だけあり、そのときに大宰から「男性の本質はなにかわかるかね?」と言われ、返答に窮していると、「それはマザーシップだよ、君。無精ひげを剃りたまえ」と言われたというエピソードを書いていたことがある。この作品の映水という男は、太宰のいう「男性の本質」たるマザーシップを体現したような人物で、女性である花が異性として意識するような男性ではない。そういう男性はこの作品にはまるで登場しないのだ。それが異常なことでないとすれば、唯一考えられるのは、花が男性に対して、端から無関心だ、ということ、一般的には異性ではなく、同性のほうに関心があるという場合だろう。もしそうだとすれば、そのことに彼女自身が気づいていないことは明らかだから、彼女は蘭や桃から「好きな子」はいたでしょう、と訊かれて思い当たらず、しらけさせないために、あるいは自分もふつうの女の子として生きて来た仲間だよと示すために、なにか答えなくちゃ、という感じで、一所懸命に思い出そうとして思い浮かんだ、以前にバイトしていたファミレスの店長が「すごくいい人だった」というふうな答え方をする。

しかしこれも、花はそれが自分の初恋だとか恋愛だとか全然思ってはいない。だから、蘭や桃子がふつうにそれが花が言いたがらなかった「彼氏」じゃん、というふうな受け取りかたをし、「好きとかそういうんじゃなかったよ」という花に対して、いや「むこうは花ちゃん狙ってたんじゃない?」と言い、否定する花に対してなおも「むこうは狙ってたに決まってるじゃん」、「ぜったい、花ちゃんとやりたかったはず!」と冗談めかした言い方ながら断じる。

その途端に花の中で生理的な激しい嫌悪感が走る場面がある。

それを聞いた瞬間、わたしの全身には、今の今まで目のまえで楽しそうに笑っていた誰かにいきなり睨みつけられたような戸惑いが走り、同時にものすごく?ものすごくいやな気持になった。それは真っ白なふすまに墨汁をまるまる一本ぶちまけるようなはっきりとした嫌悪感だった。わたしは胸のなかを鼻からゆっくり逃がし、動揺をごまかすためにこたつから出て「ミ、ミサンガ、いったん飾ろっかな」と言いながら、黄色コーナーのほうへ移動した。p258-259


  なぜ花がそんなふうに感じたのか。笑ってやり過ごすのが普通の、単なる男女のことのふざけた冷やかしに過ぎない桃子や蘭の言葉に、なぜそんなふうに花が過剰な反応を示すのか、そこに謎を解くカギの少なくもひとつがあるはずだ。花にとって単なる淡い少女期の憧れに過ぎない、純粋な好意の対象として心の中に忘れかけていたいい感じの思い出を、「そいつはやりたかったに決まってるよ」みたいな、土足で人の心に踏み込んでくるような言葉に遭遇して、なにか「真っ白なふすま」に「墨汁をまるまる一本ぶちまけるような」嫌悪感をおぼえた・・・だけなのか?それは少し純情すぎる解釈だろう。花の心の中でそのファミレスの店長が理想化され、ほんとうに強いあこがれをもって純粋な気持ちで想い、その記憶を温めていたのだとすれば、そういう解釈は成り立つだろうが、ここでの花にとって、その店長はほとんど記憶のかなたにある稀薄な存在にすぎず、そんな思い入れがあるとは思えない。となれば、桃子がいう、むこうは花とやりたいと思っていたに決まってるよ、という異性との性交渉を示唆する言葉自体に、花はなにか自分の中の「真っ白なふすま」に「墨汁をまるまる一本ぶちまけ」られ、汚されるようなショックを受けたのだと考えるほかになさそうだ。

或いは彼女には異性との性行為に象徴されるような異性そのものに、あるいは<性>そのものに、深く潜在的な拒否反応があると考えるべきかもしれない。さらに妄想をたくましくすれば、この物語の中ではそういった記述はないけれども、或いは母親が連れ込む男あるいは酷い場合には父親そのものから、この物語で語られる以前に、恐らく幼いころに、何らかの形で男性から性的な暴力を受けた可能性を想定することもできなくはないだろう。もしそれがうんと幼いころの経験であれば、彼女自身がその記憶を消し、その記憶から逃れようとすることなしには生きられなかっただろうが、他方でそれは彼女自身が理由を告げることができない、生理的な異性忌避、異性拒否、あるいは自身の性をもふくむ<性>自体の拒否を招来する根源となっているということが考えられる。

こんなことを妄想したくなるのは、花が好意を感じていたという店長のことを話したときに、桃子が、むこうは花と「やりたかった」に違いないと言ったときの花の反応が、卑猥な冗談として笑って受け流す普通の反応からみれば、あまりにも異常で唐突な、いわば「生理的な」拒否反応のように強い言葉(「真っ白なふすまに墨汁をまるまる一本ぶちまけるようなはっきりとした嫌悪感」)で描かれているためだ。作者がわざわざこんな場面、こんな花の反応を描写したのには、きっと理由があると思う。花はお金(富)や人並みの容貌や、母親の愛情といった、昨日のように今日があり今日のように明日があると信じて生きられるような人々がみな普通に与えられているものだけではなく、性をもまた、とうの昔に根こそぎ奪われている存在として描かれているのではないだろうか。だから花には彼氏もいなければ、眼の前にあらわれる男性に対する感情も最初から奪われている。もし「性」を吉本隆明のように、男あるいは女という肉体的、生理的区別など相対的なもので、どうにでも交換できるものだと考え、本質的には「対の幻想」として、一人の人間が他者に出会う共同観念の特殊なありようだとするなら、その出会いの対象が男性の肉体をもっていようと女性の肉体をもっていようとどうでもよいことだし、現実的に他の要因によって男性を忌避するとすれば、女性と出遇うしかないだろう。

花にとって、そうした出遇いが可能なのは、従って黄美子や琴美のような女性に限られていて、黄美子との関係はふつうの同性愛的な関係を昇華したようなところがあるけれども、琴美との関係はややふつうの同性愛的な関係に近いといえるのではないか。もちろんそれは肉体的な性を昇華(?漂白)した、単に憧れのような精神的(肉体的な交渉を伴わない心理的、幻想的)なものに過ぎないけれど。そしてその琴美が最後に、男の暴力によって無残に殺されてしまうのは、花にとっての「性」の運命を象徴するような出来事だといっていいのではないだろうか。

こんなことを考えたのは、ひとつには著者のデビュー作『わたくし率 イン 歯―、または世界』では、かなりあからさまに<わたし>の、自身の<女性>性への嫌悪、あるいは<性>そのものへの嫌悪と、自分が自分であることへの嫌悪、埴谷雄高のいう「自同律の不快」という存在論的な異和とがほとんど区別されないような形で表現されているからで、本作品における花もまたそうした<わたし>の根源的なありようを引きずっているのではないかと考えたからだ。もちろんこの作品で著者が描きたかったことにとって、異性愛という要素は不要なだけでなく、じゃまになると考えられたのだろうと理解して、そこらで憶測をやめておくほうが無難であるのかもしれない。花が強い恋愛感情でも持つような異性が現われれば、物語はかなりそちらに引き寄せられる。しかし、それはこの物語で著者が語ろうとした花の「こう生きるしかなかった」生き方にとっては、外在的で偶然的な要素に過ぎないからだ。

また、先の憶測のように、花の過去に性的なトラウマを遺すような何かを想定するのも、花の生き方が私たちに問いかけるものを、<性>のほうへ引き寄せることになってしまうために、作者がとりえない選択だったとも考えられる。この作品で物語られる、社会的な次元での「持てる側」と「持たざる側」の交わることのない構図を突き抜けて、さらに深く作品が書かれる表出意識の根源に触れようとするなら、そこにあるのは<性>ではなく、自分が自分であることへの異和だと考えられる。ただ、それにしては先に述べたような、彼氏の有無をめぐる桃子との対話における花の反応など、もう少し花の深みを覗き込ませるようなシグナルが、この作品自体に埋め込まれているような気がする。

しかし、こと琴美に関しては、まだ見落している要素があるかもしれない。作者が作品の言葉としてエビデンスを残そうとしなかったことについて、これ以上あれこれ憶測するのは、小説の読み方としてはルール違反だろうから、このへんで憶測はやめておくことにしよう。

 

ラストシーン


  
  最後に物語の最終シーンに触れておくべきだろう。この物語は、色々なことがあった娘時代、20年も前のことを、或る報道をきっかけに記憶を呼び起こされた花が回顧する内容が本体をなしているが、最後は再び現在の花に戻る。彼女は映水が教えておいた秘密の電話番号に、どうせつながらないだろうと思いながらかけてみたら、映水本人につながり、そこから黄美子の居場所を知って、訪ねていく。花は、ちょうど絶望の縁にあった十代の花に、その花の心の状態を一瞬で見抜いた黄美子が、「一緒に来る?」と声をかけたように、黄美子に、「わたしと一緒にいこう」、いっしょに暮らそうと誘う。しかしかつての花が黄美子の誘いに対して即座に「行く」と応じたのとは異なり、黄美子はその誘いを断わる。

― わたしは泣きじゃくりながら、黄美子さんに言った。
 「黄美子さん、わたしといこう」
  黄美子さんは口を半分ひらいたまま、わたしを見ていた。
 「黄美子さん、一緒にいこう」
  わたしは言った。「黄美子さん」
 「そんなに、泣かないよ」
 「黄美子さん、一緒に、いこう」
 「わたしは、いかない」
  黄美子さんはゆっくり言った。
 「黄美子さん」
 「わたし、ここにいる」
  わたしたちは、そのまま長いあいだ、見つめあっていた。
 「花、聞こえてる?」
 「聞こえてる」
  わたしは、瞬きもせずに黄美子さんの顔を見つめていた。黄美子さんは耳のうえをぼりぼりと掻き、大きく鼻を鳴らして言った。
 「ここにいるから、会える」
 「会えるの」
 「うん。母さんと琴美も会える。映水にも、会える」
 「会えるの」
 「うん」
 「黄美子さん、わたし」
 「うん」
 「会いにくる」
 「うん」
 「会いにくるよ」
  黄美子さんは笑った。そして、ゆっくりとドアを閉めてなかに入った。 (p600)

  
  ふたりはもう、以前のような共同生活に戻って、一から同じサイクルを繰り返すことはしない。反覆も循環もない。あれだけの過去を経て来たからこそいまここにそうしてある、あるがままの自分たちの延長上に考えられる、二人の、それぞれの人生であると同時にそれがまたしっかりとつながっている二人の人生でもあるような、新しい生き方がそこに示される。一緒に暮らすことが必ずしも花が求めていたような人と人の絆を保証するわけでもなければ堅固な「家族」の理想の実現を保証してくれるわけでもない。実際の制度としての「家族」は、花にとっても黄美子にとっても、また蘭や桃子にとっても、とうに壊れていたし、そこから脱出して自分たちで作ろうとした「家族」(擬似家族)もそれぞれの思いの行き違いで内側から壊れていった。人と人との絆は、それぞれが信じ、それぞれが自分の中にある相手への愛を失わない限り、離れて暮らしていても、失われることはない。母にも映水にも、亡くなったはずの琴美にさえも会えるのだ。それぞれに生きて行こうよ、いつでもまた会えるのだからね、・・・そう黄美子は花に言う。そして、花も黄美子の言葉を理解して別れる。この場面はほんとうに素敵な場面で、この物語のラストにふさわしいすばらしいやりとりだ。

 再会のあと、帰っていく花の眼に移る風景を描く、ラスト15行は限りなく美しい。ここは全部引き写しておしまいにしよう。「思いだせなかったはずの、思いだすこともなかったはずの懐かしい色」は、あの冷蔵庫に詰め込まれた食品たちの隙間から射す黄色の光ではなかったか。

 わたしは来た道をもどり、商店街をぬけ、駅をこえて、知らない道を歩きつづけた。道はゆるやかに曲がったり、交差していたり、行き止まりになったりしていても、少し戻ればどこかにつづいていて、わたしは歩きつづけることができた。途中で公園をみつけてベンチに腰を下ろし、涙が乾くまでそこにいた。夕暮れにむかう夏の、懐かしいにおいがずっとしていた。
  やがて小さな駅に辿りつき、わたしは最初にやってきた電車に乗った。西にむかって走る電車には、たくさんの光が細切れになって届き、床や座席やドアや乗客の服のうえにいろんな形を落としながらゆれていた。
 気がつくとわたしは眠っており、みじかい夢のようなものをみた。はっきりと顔はみえないけれど、誰かが楽しそうに笑っていて、わたしたちは走っていて、汗をかいて、すごく楽しくておなじくらい不安になって、悲しくて、それからやっぱり笑っていた。花ちゃん、花、ねえ花ちゃん、花― 遠くで誰かの呼ぶ声がして顔をあげると、どれくらい眠っていたのか、窓の外に一面の夕焼けが広がっているのがみえた。それは胸にちょくせつ流れこんでくるような夕焼けで、それはもう思いだせなかったはずの、思いだすこともなかったはずの懐かしい色になり、かたちになり、声になっていった。わたしはそれを目に入れられるだけ目に入れて、息をとめ、それからもう一度目を閉じて、つかのまの眠りにおちた。

 

© Sei Matsuno, 2023.9.28





「『黄色い家』について」後編(第二部)につづく

ホームページへ戻る