キム・ギドク監督『嘆きのピエタ』は、褒められすぎ!

 ホールを出て階下へ降りるエスカレータで、すぐ前にいた3人のオバサンたちの会話。

 「・・・女に何か食べさしてたの、あれ何だったの?」

 「ぼやけてよく分からなかった。ちゃんと見せるべきよね。」

 「血が出てたでしょ?男の脚から・・・」

 「意味不明でしょ」

 「新聞はみんなすごくいい映画だって書いたから期待してたんだけど、そんなに良くなかったね」

 「そうね、もうひとつだったわね」

 「ごめんね、こんなのに連れてきちゃって・・・」

 「いいのよ。どうせヒマにしてるんだから()

 どうやら中の一人が、いい映画らしいからと、ほかの二人を誘って一緒に見に来たらしい。私は聴いていて、うんうん、オバサマたち、なかなか手厳しいじゃん、と思いつつ、幾分かはオバサマたちの感想に共感を覚えていました。

 

 新聞で映画評論家(だと思います)はどれもこれも絶賛。ほとんど完璧な作品であるかのようにベタ褒め。こちらも半分はそれに乗っけられて初日から観に行ったのでした。

 プロの映画評論家さんたちは、どうも異端とかちょっと変わったところのある作品(新人賞選考などでよく見られるように)を偏愛される傾向があるようで、韓流映画の異端児として世評の高いこの監督などは、ちょっとプロ好み、おたく好みの部類に入るのかもしれません。

 映画祭でたくさん賞をもらいました、というような作品でも、見に行くと案外面白くもなんともないことが少なくありません。でもああ、こういう傾向のものが賞をとりやすいわけね、プロ好みなのね、とちょっと分かり易すぎて侮りたくなるような感想を持たざるを得ないことはよくあります。閑話休題。

 この映画を観に行きたいと思ったあと半分の理由は、これまで見たキム・ギドクの作品、とりわけ『悪い男』がとても良かったので、彼の最新作はぜひ見たいと思っていたからです。

 どの映画評も、枕詞のように、まずこの映画の前半の「すさまじい暴力」について触れていますし、私のパートナーなどはそう聞いただけで、「どんなに優れた映画でもそういうのはちょっと苦手」、と言ってついてこなかったのですが、今回の「暴力」は『悪い男』と比べても、また同じような言われ方をした別の監督ですが『息もつけない』と比べても、特別激しいというわけのものでもありません。

 たしかに借金の取り立て屋が、金の返せない相手の手足を折ったり潰したりしてその保険金で返済させるという構造に一層の陰惨さがあることはあるけれど、こうした設定は後半の主人公の180度の転換、浄化をクリアにするために必須の条件で、その必然性を疑う余地はないし、少し妙な言い方をすれば、必要十分なだけの暴力しか登場しません。

 ストーリーを書くとネタバレになってしまいそうで書けないのは、この作品が一種の推理劇のような構造を持っているからでしょう。監督自身がインタビューで語るところでは、最初は男が母親が死んだと確信し、女の復讐劇が完結する結末にする計画だったそうです。

 もし、当初の予定どおり映画が作られていたら、それはちょっと上等な「火曜サスペンス劇場」になっていたでしょう。推理ドラマとして、少し手の込んだ、文字通りの復讐劇にしかならなかったでしょう。

 そうしなかったのはさすが、キム・ギドク監督だと思います。この作品が「火曜サスペンス劇場」にならなかったのは、人間の愛憎に分け入る彼の一歩、二歩の踏み込みの深さ、確かさと、それを演じる役者たちの力量によるのだと思います。

 実際、金の返せない相手の手を潰し、足を折って保険金で返済させようという、冷徹非情の取り立て屋ガンドを演じるイ・ジョンジンの頑健そうな体躯と無表情な演技、それにミソン役のチョ・ミンスがガンドを見るときの、あの何ともいわく言い難い表情の演技、最初はおずおず、いったん入り込むとイケ図々しく居座ってシャーシャーとしているあの態度()、それにレイプシーンで泣き出すときなども、舌を巻くような熱演、名演です。この女優さんはほんとに上手いですね。

 脇役も好き。ガンドに身障者にされた男フンチョルとその妻ミョンジャが、とてもいいのです。最後に何も知らずにトラックを出すミョンジャの何でもない表情がすごくいい。

 ただ、<母親>を演じるチョ・ミンスの表情の演技は確かに見事なものですが、とてもキワドイものだと思いました。

 何十年も前に読んだピーター・ブルックの『なにもない空間』という本の中に、こんな一節がありました。いかにも善良で貞淑で優しく美しい申し分のない女性であるかにみえが女が、実はとんでもない悪女であったことがのちになって明らかになる、というストーリーの舞台があるとき、それを演じる役者が前半はそのことを知らずに、心から善女を演じるほうがいい、と。

 うろ覚えですから、まったく正確でないかもしれませんが・・・。役者が本当は自分が演じている善女は仮面で、実は腹黒い女で、あとで悪女の本性を表わすのだ、と知っていると、どうしても前半からそういう演技をしてしまって、リアリティが損なわれる。何も知らずに善女を演じきって、彼女自身も自分が悪女として立ち現れる瞬間を観客と驚きを共にして体験すべきなんだ、というようなことだったように記憶しています。

 ミンスがガンドに接するときの表情がキワドイというのは、そういう意味においてです。いまよりも、ほんのちょっとだけミンスが「意識」すれば、たちまちこの作品は「火曜サスペンス劇場」になってしまいそうな気がしたのです。

 ガンドの180度の変化、<母親>を受け入れていく変化は、それよりもさらに困難なところがあります。もともとそのような変化は、特別な奇跡によって瞬時に起きるのでなければ、幾重もの時間を必要とするはずだと思うのですが、私にはそのどちらも見つけることができませんでした。

 あるのはただ性急にさしはさまれた一つ二つのエピソードだけで、ガンドは突如浄化され、無垢の少年のごとき表情に還るので、彼に痛めつけられた被害者の男でなくても、それはないだろう!と言いたくなるところがあります。

 パンフレットの著名人の感想など読んでいると、こうした指摘は、寓話とリアリズムによる作品との区別も知らない揚げ足とりだ、とみなすような人もあるようです。もとより、キム・ギドク監督の映画はみな寓話的な作品だと言ってもいいでしょう。

 『春夏秋冬 そして春』のように、最初から最後までこれは寓話でござい、というのをあからさまに宣言した作品もあれば、『悪い男』やこの『嘆きのピエタ』のように、一見リアリズム風の相貌を持った寓話もある、といった具合です。

 いずれにしても現代の寓話であるといえばその通りで、その分、もともとこの監督はアタマで映画を撮る人、ずいぶん理屈っぽく映画をつくる人なんだと思います。

 キム・ギドクのファンの中には『春夏秋冬 そして春』が最高の作品という人もいて、実際大きな賞をもらったりもしているようなのですが、私は好きではないし、つまらない作品だと思います。(ファンの皆さん、ごめんなさい。)

 私は『悪い男』が彼の最高の作品で、2番目がこの『嘆きのピエタ』かな、と思っているところです。これらの作品には圧倒的な力があります。寓話の枠組みを突破する強さが感じられます。寓話の「喩」である人間たちが、人間としての喜怒哀楽の強さ、巨大な炎のように噴出する情の強さ、大きさによって、寓話の枠組をぶち抜いて、出てきてしまいます。それがキム・ギドク監督の作品の魅力です。

 寓話というのは、イソップでもラ・フォンテーヌでも、それが意味するところ、寓意を聞いてみれば、分かりきったつまらない教訓話にすぎません。寓話が流布される共同体の常識としての倫理や人間関係を動物なり何なりに譬えて面白おかしく語っただけのものですから当然でしょう。

 だからその寓意が面白くて私たちは寓話を楽しむわけではなくて、それを何かに譬えて「面白おかしく語った」ところに面白さを感じるのだろうと思います。ちょっとトートロージーになってしまいましたが・・・

 だから、キム・ギドクの作品が寓話だから、寓話には寓話の文法があるので、リアリズム論で揚げ足をとったって無効なんだ、と言い方は、一見もっともに聞こえますが、そんなのは映画を寓話かリアリズムかなんて自分の頭の中にあるだけの区別を絶対視した戯言に過ぎないように私には思われます。

 寓話的な作品だからその結構やディテールの破綻にハンディをつけてみてあげるべきだということにはならないでしょう。もっとも、最初に書いたオバサンたちの話に出てきた、ガンドがミソンに無理やり何か食べさせるシーンや、ガンドがミソンを受け入れてしばらくの展開などを除けば、この作品に、そうそう瑕疵があるわけではありません。

 むしろディテールはとてもよく考えられ、丁寧に描かれています。前半のガンドが一軒一軒借金の取り立てにいくシーンも、ひとつひとつが非常に丁寧に描かれていて、これが後半の転回を際立たせています。最後の場面につながる若夫婦とのやりとりも伏線としてよく効いています。小道具のオレンジ色のセーターなどの使い方もうまいなぁ、と思いました。

寓話の生命はその寓意にあるのではなくて、それがいかに語られるかにあるのではないでしょうか。だからこそ細部がどのように展開されていくのか、それはどのような構成を持っていくのか、そこにリアリティがあるか(現実とどれだけ似ているか、という意味ではありません)が決定的に重要なので、それは寓話的な作品であろうとなかろうと、芸術作品なら何も変わるところはないのではないでしょうか。

 寓話の本質が寓意だと考えるなら、この作品の寓意はすでにタイトル「嘆きのピエタ」に明らかであって、いまさら評論家諸氏に指摘されなくても、誰にでも分かりましょう。ここではみずからの愛憎を追い詰めていく<母親>ミソンがマリアで、みずから十字架を背負ってゴルゴダの丘をのぼり、十字架にかかって浄化され、マリアのその腕に抱かれる<人の子>ガンドがイエスであるという単純な喩の構造もまた自明のことでしょう。

 ただ、この<母>と<子>の愛憎の物語が「現代の」寓話であることから、彼らを追い詰めるのはユダヤ教のラビたちでもサマリア人でもなく、またピラトのような政治権力やイエスを十字架に!と叫ぶ民衆でもなく、「かね」なのです。

 現代の韓国に現われたイエス、ガンドは、マリア・ミソンに尋ねます。「金って何だ?」。

ミソンは答えます。「お金?すべての始まりで、終わりよ」、と。

 圧倒的な力を持ったその<現実>の前で、人間の喜怒哀楽はあまりにも無力で、そのような感情に目覚めれば目覚めるほど追いつめられていくしかない。けれども、極限まで追い詰められた果てに、ガンドはこの世の一切の罪を一身に背負って、この世から投身します。

このときガンドは、この世の人々の一切の罪を負い、「すべての始まりで、終わり」の総体と拮抗して、現代の悪魔といわば無理心中を図るのです。その瞬間に彼もまた誰よりも深い愛憎で彼に結び付けられたミソンも、浄化される。その姿があの「嘆きのピエタ」なのでしょう。

こんなふうにお前を殺してぼろぼろにしてやりたい、と言っていたフンチョル、ミョンジャ夫妻のところへガンドが訪れ、早朝に野菜を積んだトラックを何も知らないミョンジャが走らせていく。まだ朝霧に包まれた幹線道路をゆっくりとすべるように走っていくミョンジャのトラックが一筋の濃い色の帯を引いている。それを静かに追うロングショットと哀調を帯びた音楽。ラストは掛け値なく美しい。

 いろいろ書きましたが、キム・ギドク監督の昨品の中では好きな作品として記憶に残りそうです。プロの映画評論家さんたちの絶賛よりは、オバサマたちの感覚のほうを信用する私ですが。

Blog2013-6-30






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