「スティル ライフ オブ メモリーズ」(矢崎仁司監督)をみる

 出町座でさきほど、矢崎仁司監督の新作「スティル ライフ オブ メモリーズ」(Still Life of Memories)を見てきました。走り書きの感想ですが、ネタバレがあるので、これからみられる方でネタバレが嫌な方はご注意を。
 私はネタバレでつまらなくなるような映画ならしょうもない作品に違いないという偏見を持っているので、いつもネタバレなんか警告なしでやっちゃいますが、今回は最新作のようですから、知らずに読まれて叱られてはいけないので、念のため。

 冒頭からまるで性器のような(植物にとってはまさに生殖器なのですが)花のモノクロ・クローズアップ写真の画像が次々に出てきます。どうやら写真家である主人公の撮影した写真のようです。またこの作品の最後は何十枚もの女性の性器のクローズアップ写真が次々に映し出されて終わります。もちろんいまの日本でつくられた映画なので、ぼかしははいっていますが・・・

 これはアンリ・マッケローニというフランスの写真家で、一人の女性の性器を二千枚撮り続け、二年かけて撮影したその写真から100枚を選んで写真集を出版したという、その写真家と被写体となった女性の過ごした2年間に触発されて企画された映画だそうです。

 主人公の写真家鈴木春馬を演じるのは安藤政信で、彼は、彼の写真展を訪れた若い女性、怜(永夏子)に依頼を受けて彼女の、いまは病で死にかけている画家である母親の別荘に呼ばれ、彼女自身の性器を撮ってほしい、と言われます。最初は戸惑いながらも金を受け取り、指示されるままに、ただ物体をとるように撮影の視角や採光だけは自分の思うように撮らせてほしい、と彼女の性器を撮っていきます。怜が示した条件は、質問しないことと、フィルムを怜に渡すことの二つでした。

 条件には反するけれど、春馬は「なぜ私の写真を見て、撮影を依頼したいと思ったのか」と問わずにはいられません。怜は、「あなたの写真を見ていたら、わたしには時間がない、と思わずにいられなかったの」と答えます。

 私たち観客にとっても、なぜ彼女は彼に写真を撮らせるのか、しかも自分の性器の写真を?という疑問へのヒントは当面これだけです。

 はじめは淡々と指示されるままに毎回金を受け取って撮影するだけだった春馬ですが、写真家根性というのか、だんだん対象にのめり込んでいって、ひょっとしたらもう怜が連絡してこなくなるのではないか、と怖れ、怜のあとをつけます。
 怜は美術館の学芸員で、春馬はその美術館でどうやら彼女が企画したらしい講演会の場に行き当たります。そこでは、どうやらホンモノであるらしい四方田犬彦が、「芸術史における女性性器の表現」について講演しています。

 その講演を聞いて、春馬は怜が春馬の写真を見て、マッケローニと同じことを試みようとしているのだと分かります。(あとで撮影現場のアトリエで二人がマッケローニの写真集らしいものを見る場面もあります。)
 
 春馬は怜の帰りを待っていて、彼女に、引き続き撮らせてほしい、と懇願します。自分の作品として完成させたいのだ、と言います。はじめは自分のあとをつけて待ち伏せしていた春馬に不快感を示す怜ですが、引き続きの撮影を赦し、彼が「作品を完成させるために」自分の撮った写真を見たい、と言いだすと、最初の条件をここでも反故にして、一緒にネガを現像して、見るようにもなります。ここで彼女はむしろ春馬が「作品を完成させる」ための協力者になっていくわけです。

 怜には病で瀕死の床についている母親がおり、春馬にはステディの彼女夏生(松田リマ)がいて、その彼女は妊娠しています。最初夏生が美術展会場に登場した時、誰もいないのを見はからって、彼女が新体操のように身体を回転させ、踊るシーンはとても美しい。この役者さんは本当に新体操ができるらしくて、身体も綺麗だし、動きがとても美しい。のちにアトリエの前でも、もう一度見せてくれます。

 怜を撮りにいく春馬は、「どこへ行くの?」と夏生に訊かれて、写真展を見に来てくれた人、と応え、また「何しにいくの?」と問われて「ブツ(物)を撮りに」と答えます。
 たしかに彼の撮る写真にエロティシズムは感じられません。そこには即物的にとらえられた女性器の拡大像しかないので、まさにブツ(物)にほかなりません。ただ、それは写真家である春馬をとらえて離さず、その「作品を完成」させずにはいられない被写体なのです。

 彼の言う「ブツ」が女性の性器であることを知った夏生は、春馬が怜との男女の関係がないと言ってもやっぱり気持ちは微妙です。彼女じゃなくて、私のを撮ればいいのに、と言ったりします。でも、たぶん春馬にとって夏生は性的対象であり、怜の性器は彼の言うとおり「ブツ」なのでしょう。

 春馬は「作品を完成させる」ために、時間が必要なんだ、と言い、1週間を怜の母親のアトリエで怜とともに過ごすことになり、その前に夏生を怜に引き合わせ、これから怜と過ごすアトリエに連れてきます。夏生を傍らに置いて、彼はいつものように怜の性器の撮影を始めます。夏生はいる場所がない感じで、散歩してくる、と席を外し、アトリエ周辺の美しい自然の中で柔らかな体を新体操のように動かし、散策し、湖に浮かびます。

 このアトリエ周辺の自然はとても美しく、秋はすばらしい黄色一色の林が、また春は桜の花吹雪がみられ、その光景が美しい映像でとらえられています。
 
 ここに登場する主役たちは、どこか透明で、クールです。春馬と夏生はふつうの恋人のように愛し合っているし、春馬と怜は男女の関係にはなりません。一度、春馬が怜に襲いかかるけれど、怜が拒み、春馬の手にカメラを押しやって、堂々と、しかしあくまでも被写体として、さぁ、撮りなさい!と言わんばかりに身体を開くのです。

 撮影が終わって無事「作品を完成」させた春馬は、夏生の出産現場に立ち会い、いま夏生の下腹から赤ん坊が出てくるのを目の当たりにします。他方、いつもベッドに裸で横たわって微動もせず、怜がその身体を拭いてやっていた母親は亡くなります。生と死がずっと並行して描かれています。
 
 赤ちゃんをつれてドライブする春馬と夏生。泣く赤ちゃんのおむつを替えようとして、赤ちゃんの性器から勢いよく噴き出るおしっこを顔面に浴びる春馬。生まれてきた者のいのちの発露です。

 かくしてこの映画、植物の生殖器も人間の性器も、生殖器の画像のオンパレードですが、そこにはどんな狭義のエロティシズムも不潔さもありません。それはまさに「ブツ」なのですが、ではなぜ怜は春馬のそんな写真に惹かれたのか、その写真を前にして、自分には時間がない、となぜ感じたのか。
 そこから自分の性器を撮ってくれと春馬に依頼するには、マッケローニの写真集なりその制作をめぐるエピソードがきっかけになっているとしても、ではなぜそもそもマッケローニの写真集成り、その成り立ちのエピソードに触発されたのか。

 この最初の問い、春馬が怜に撮影の条件として示されたタブーのひとつをやぶっても訊きたかった疑問、私たち観客も彼と共に訊きたい疑問に回帰することになります。
 ただ、作中の春馬自身は、みずからが怜の性器の撮影にのめり込むことによって、つまり自らの問いを生きることによって、自然にいつのまにか既に答の中に生きることになります。だから、彼の口から二度と同じ問いが発せられることはありません。

 でも私たち観客は彼のように自らの行為の中で答を見出すというわけにいきません。そこで、当初の問いは、ではなぜ彼は、怜の性器の何に惹かれて撮影し続けたいと思うようになったのか、なぜ彼はその「ブツ」を撮り続けて「作品を完成」させたいと強く思うようになったのか、という問いに置き換わっていくことになります。これらの問いはみな等価なのだと思います。

 もちろん「正解」なんてものは私にもわかりません。しかし、春馬がエロティシズムに幻惑されているのでないことは、その写真を見れば誰にでも分かります。怜の性器は、怜が惹かれた春馬の写真展の作品にとらえられた花と同じ、ブツでしかないのです。でもそれは、あの花たちと同じように、彼をアーチストとしての彼をとらえて離さない「ブツ」なのです。

 それは本来は生きた女性の身体の一部であるはずですが、それ自体が「ブツ」としてとらえられるとき、生きて動く命あるもののように思われず、決して動くことのない静物(still lifeのように思われます。それはだから生きたものではなく、死に似ているけれど、ただ生の終焉とともに訪れる死というよりも、逆説的ながら永遠の死とでもいうような、いわば動かしがたいeternalなものを感じさせる死、あるいは「ブツ」なのです。
 
 或いはこの感覚は、女性器があらゆる人間がそこから生まれ出てくる、異世界に通じる通路であることによるのかもしれません。赤ん坊がそこから生まれてくることは、遠い昔の私たちの祖先たちにとっては、死の世界からの甦りにほからならず、その境界の向こうでは、輪廻をつかさどるような永遠の時が流れていると考えられていたのではなかったでしょうか。

 そのような静物(still life)としてのeternityと対照的に描かれているのが、赤ん坊の誕生と怜の母の死、生まれ、生きて互いに関わり合い、死んでいく人間の生きようです。それは秋になれば美しく黄色一色の林となり、春になれば桜の花吹雪という美しい四季のように移り過ぎていきます。だからこそまた、そんな命を生きるわたしたちは、eternal なものに強く惹かれるのかもしれません。

 怜が最初に春馬の写真を見て、わたしには時間がない、と感じたのも、eternal なものに触れた限りある命をもつ者がいまさらのように気づかされる感覚ではなかったでしょうか。

 私はそんな感じをもって、この映画を観て、登場人物たちの束の間の、でもほんとうに透明で美しい生きように触れ、彼らとともに移り行く美しい四季の光景を眺め、そして彼らがeternalなものに強く惹かれる気持ちを彼らと同じように感じていたように思います。

 もしこの映画がフランスでつくられたら、ラストの何十点かの女性器の写真は、冒頭の植物の花の写真と同様に、なんのボカシもなしで制作され、そのまま上映されたでしょうか。
 もしそうだったら、私たち観客は、或いは日本では見ることができないマッケローニの写真集を見たときのように、写真そのものの力によって、なぜ怜が春馬の写真に惹かれて自分の性器を撮ってくれと依頼したのか、なぜ春馬が自ら進んで怜の性器の写真撮影を続けさせてくれと懇願し、「作品を完成」させたいと願ったのか、その答えを直接知ることとになったのかもしれません。

 しかしまた、一方では、もしそうであったなら、その写真群自体が作品として私たちの心を動かすのであって、この映画自体が作品として成立しなくなるかもしれない・・・とも思いました。その意味では、写真そのものが直接答えを与えてしまうのではなく、未知の答に向けて、見る者がどんな答えを見出してもいい形で、その答を遠近法の見えない消失点として登場人物や出来事が描かれた絵がこの作品なのかもしれません。

 矢崎仁司監督の作品を先ごろDVDで2本見てこの映画を観ると、日常的な夫婦など周囲の人間関係に焦点をあてた作品から、今回の作品はずっと抽象度の高い純化された世界になっているようです。クールで品のある透明感に満ちた印象はいずれの作品でも変わらないけれど、人間がつくりだしてしまった共同性の強いる倫理は後景に退いて、この作品では人が生と死のはざまで生きるとはどういうことなのか、eternalなものと向き合う中でその問いの前に立つような作品になっていると思いました。
 

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