「リベリアの白い血」(福永壮志監督) 2017


 
 若い日本人監督がリベリアで作った映画だそうで、とてもいい映画でした。
 リベリアのゴム農園でゴムの樹から白い樹液を採取する仕事をしているシスコは仲間たちと共に過酷な労働をして家族を養っているのですが、あるとき組合の主導でストライキを打ち、仕事をサボタージュします。しかし資本家との闘争に負けて仕事を失うことになり、シスコは従兄弟を頼って単身ニューヨークに行き、そこでタクシー運転手になってリベリアに残してきた妻や娘、家族のために働きます。

 たしかにストライキの話など少しドラマチックな話になるかと思えば、そういうところに焦点があるのではなくて、ゴム園で働き、リベリアの日常を生きるシスコと、ニューヨークで希望をもって新たな生活を始めるシスコを淡々と描いていき、見ている私たちが自然にその両方の社会での仕事や生活、人間関係を比較してみるような仕掛けになっています。

 リベリアの労働は低賃金で苛酷で、みな逃げ出したいと思っているくらいだし、ぎりぎりの生計です。文明の利器もここにはない。でも自然の中で私たちが見ると本当に美しい自然の中に埋め込まれた生活。そのゴムの樹から汁をとるのに小さな容器をとりつけ、そこへ樹液が垂れてたまるように、木の幹にらせん状の傷をつけるように削って溝をつけ、染み出す樹液を容器に導く。そういうのを一本一本の木にしかけて、日に500本の木を回って回収した、というような会話があります。そういう光景自体がとても珍しいし、みていて興味津々です。でも彼らの間では、本当に苛酷な労働だし、ニューヨークに行けばうんと金が儲けられてすぐにでも豊かになれるかのような幻想が蔓延していて、シスコがそんなことはない、リベリアにもアメリカにも、金持ちはいるし、貧乏人もいるんだ、と言うのですが、仲間たちは、おれたちをアメリカへ行って儲けさせないように、否定的に言ってるんだ、などとうがった見方をする始末です。

 そうしてスト破りみたいなことをして労働へ戻っていく仲間に対して、シスコはいさぎよく仕事をあきらめて従兄弟のいるニューヨークへ単身わたります。でもそこで待っているのはもちろんバラ色の金もうけではなく、しがないタクシー運転手。いやな乗客にからまれたり、いっぱいいやなことばかり。しかもリベリアの内戦時代の知り合いに遭遇し、彼がどうしようもない奴で、彼につきまとい、女を無理やり彼の部屋に欺いて入れさせ、彼を誘惑して一晩共寝させて金をふんだくるようなことまでされる。そういう毎日にうちひしがれそうになるシスコだけれど、なんとか家族のために頑張ろうと日々運転手の仕事を続けます。中にはリベリア出身で自分もそうだと話すと下りるとき法外なチップを渡そうとする人もあった。シスコは受け取ればいいのに()、頑固に受け取らず、それはあんたの金だ、と言って帰してしまう。そんな純粋で自分の考え方、生きる上でのルールを棄てず、損なわない頑固さをもった人間なのです。だから崩れもせず、悪にも染まらず働きつづける。幸か不幸か彼につきまとっていたワルはシスコにまたからもうとしていたとき、自動車にはねられて死んでしまう。シスコはその場をそのまま立ち去り、淡々と車のタイヤを変える。そのタイヤを変えるシーンを長々と映して、そこで突然終わる。

 だから、終わり方がとても唐突に思えて、なんで彼はタイヤを変えたんだろう?目の前で起きた事故でワルの血でもついたのかな、とか()。でもそうじゃなさそうです。それで考えてみると、最初彼はリベリアのゴム農園で働いていた。そして最後はそのゴムで作られ加工されたタイヤで走るタクシー運転手をして暮らしを立てていて、そのタイヤを交換するところで終わっている。どこにいてもゴムから縁の切れない彼()。原料をとるのと、加工品を使う立場の違いはあるけれど、共通点もある。アフリカとアメリカ大陸をつなぐ、細いと言えば限りなく細いそういう因果の連関の中で、彼は結局その社会に応じた違いはあるけれど似たような単純労働をして、いやな思いに耐えながら家族のために日銭を稼ぐ生活をつづけています。

 そういうことを実に淡々と語っている、そんな映画です。移民問題をとりあげている、といった言い方を見かけましたが、たしかに彼はリベリアからの移民でしょうし、タクシー運転手をしながら遭遇するいやなことの中には、移民という境遇ならではのことも少なくはなさそうです。でも、別段、移民を受け入れるかどうかとか、なかなか受け入れてもらえないとか、あるいはひどい差別を受けたとか、こんな問題にぶちあたっているとか、そういう直截な「問題群」をとりあげて何か訴えようというような、いわゆるメッセージ映画とこの作品は最も遠い所にあります。確かに移民であるだろうシスコの生活を、その移民になる前のリベリアでの生活や労働や周囲の人々との関係はこうだった、そしてアメリカへ来てからの生活や労働や周囲の人々との関係はこうだった、それをきわめて即物的に具体的に描いていて、それもとりたてて、ほらこんなに違うでしょう、というようなことではなくて、たしかに自然に埋もれたリベリアの生活と都会の真っただ中のニューヨークの生活も労働も人間関係も違うけれど、お金持ちがいて世の中はそういう連中が支配していて、自分たちはいつでもどこでも貧しい生活、苛酷な労働、快適とは言えない人間関係を抱えて日々生きていくしかない、どこにいても大した変わりはないし、こういうことのくりかえしだ、というふうに見えるそれは生活であり人間関係であり、労働です。

 それをリベリアについてもアメリカについても、丹念にあるがままに、具体的に描いて見せているところに、私たち観客が自然に両方の生活を、労働を、人間関係を比較してみながら、人間が生きていくというのはどういうことか考えさせられるような映画になっています。ことさら移民問題がどう、という風な映画には思えませんでした。

                                  Blog 2018-9-5






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