★赤福餅の由来★

小さなあんころ餅の一種。文献より少なくとも宝永年間1707年以前の創製とされ ています。赤とは赤心、福は幸福、つまり赤福とは、明るく清い心を持って人々が幸福を求めると いった意味で、伊勢神宮に参拝する精神を表したものとして神宮土産とされました。初めは塩餡で あったが、江戸後期には砂糖餡になりました。日保ちが良いのが特色ですが、普通の餅以上に砂糖 を加えています。

★外郎の由来★

米の粉と黒砂糖を使用した蒸しようかんの一種。外郎薬の透頂香(とうちんこう)と 同じような形をしていたのでこの名がつけられました。この薬の名は薬を伝えた元朝の遺臣の名が 礼部員外郎でこの官名をとってつけています。これが菓子の名前になったのは「たん切り」という 餅菓子が、この「外郎」というたん切りの妙薬と色も形もにていたからです。

★鏡餅の由来★

そなえもち・お鏡餅・ぐそくもち・すわりもち等各地に様々な呼び名があります。 足利時代正月に武家では男子には具足に、女子には鏡箱に、大小2個の餅を丸く平たくつくって、 これを重ねて供えました。2個重ねたのは日月を表し「一重ね」と呼びます。平安朝の時代より 正月と六月は歯固めといって鏡餅を食べました。1月20日には女の鏡の祝いといって、元旦に 供えた餅を煮て食べました。20日に祝うのは「初顔(はつかお)祝う」の意味です。 これが「鏡開き」の発祥で11日にあらためられたのは将軍家光の命日が月は異なりますが20日 であるため11日となりました。また鏡餅は人間の一番大事な心臓の形に似せたものとされ、且つ 米でつくったものは魂の象徴とされ特に鏡餅はその代表的なものです。

★かきもち★

かき餅には「欠餅」と「掻餅」の2種があります。さらに掻餅に「牡丹餅」と「そば がき」の2種があります。欠餅は昔、武士が鏡開きをする時庖丁で「斬る」のは武士が切られるこ とを意味するので「引き欠いた」のが起こりです。

★かしわ餅の由来★

かしわの葉の上に、上新粉と片栗粉を混ぜてつくったしんこ餅に餡をはさみ、編笠の ように二ツ折にしたものを包んで、5月5日の端午の節句につくるものです。かしわの葉を用いた のは、新芽が出ないと古い葉が落ちないので、家系が絶えないとされたからです。5月の節句に食 べるようになったのは江戸時代でこの頃から、味噌入はかしわの葉の表が外で、餡入は裏が外にな っていました。

★鹿の子餅の由来★

現在、鹿の子餅と呼ばれるのは、餅・求肥・羊羮のうちいずれかを賽形に切ったもの を中心にして、小豆あんで丸く包み、その回りに柔らかく煮た金時小豆を粉のまま鹿の子のように つける。また小豆粉のかわりにインゲン豆をつけたものを「いんげん鹿の子」といい栗を甘く煮て つけたものを「栗鹿の子」といいます。富山県高岡市の鹿の子餅の餅の中にはスズラ豆の蜜漬が散 らし込まれていて鹿の背の斑紋に似ているところからこの名がついています。

★寒天の由来★

テングサを原料にしてつくったもの。テングサを心太草(こころぶとぐさ)と呼ぶ。 「太」を「天」と間違えてココロブトがココロテンとなりトコロテンとなるらしく「心太」と書い てトコロテンと読んでいる。トコロテンを寒曝し(かんざらし)にしたものが寒天です。

★吉備団子の由来★

備前岡山の名物菓子。1848年頃岡山藩の茶人家老伊木三狼斎が勧めて吉備津神社 の境内で売らました。この頃は求肥菓子でした。1859年浅草で「日本一のきび団子、昔屋桃太 郎」と看板を出して売った者もいましたが、この頃はもちきびの粉に米の粉をまぜて、水でこねて 蒸した菓子でした。江戸時代、備前でキビをつくったころ年々豊作だったので、それで団子をつく り、吉備の国の名にもちなんで吉備団子と名付けました。

★求肥(ぎゅうひ)の由来★

中国で牛碑と書いて、祭礼に用いられていたものが日本に航り、牛の革のように柔ら かいところから牛皮と書かれました。また院の聞召しで「牛皮飴」を奉ったところ字を改めろとの 命が有り「求肥飴」とされました。昔は黒砂糖や赤砂糖を使用したので色が汚く牛皮と呼ばれまし たが、柔らかく弾力性があるので求肥餅とも呼ばれました。江戸時代では上杉家が、軍用食糧品と して保存が効くので、牛皮を求肥と命名したともいわれ、このころはくず粉・わらび粉・玉砂糖を 餅米粉に入れて火にかけてねり水飴を混ぜて冷やしたものでした。