釋昇空法話集【坊外篇】第6話

あなたを生きる


国立小倉病院付属看護助産学校 助産婦科閉科式典特別講演
2002年3月16日 国立小倉病院 付属看護助産学校

 初めまして。私は、京都の紫雲寺という寺からまいりました、伴戸昇空と申します。どうぞ宜しくお願いいたします。

 今日は、こちら、国立小倉病院、付属看護助産学校、助産婦科の、閉科式典と伺っております。何かが始まれば、必ず、終わる時が来るわけですが、終わる時には、始まる時にはない、特別な重さがあるように思います。それは、人生を考えさせるという重さです。

 そういう意味でも、今日は、皆さんの人生の、大きな節目です。このような記念すべき大切な式典にお招き頂きましたことは、非常に光栄なことと存じております。

 ただですね、いつもとは勝手が違いまして、いささか戸惑ってもおります。いつもは、衣を着て、寺の本堂で、ナマンダブ、ナマンダブと、お念仏など聞こえるところでお話しいたしますのでね。しかし、皆さんも、戸惑っておられるのではないでしょうかね。学校が幕を閉じるという悲しい式典に、坊さんが来るとは、どうも話が出来過ぎているなんて、お思いかもしれませんね。まあ、別に、抹香臭い話をしようというわけではありませんので、どうぞしばらくの間、お楽にお座り頂いて、お付き合いください。

 本日は、ご案内申し上げておりますように、「あなたを生きる」という題で、お話しさせていただきます。お手許にパンフレットをお配りしておりますので、それをご覧になって頂きながら、お聞きください。

 このパンフレットを作りました理由は、ひとつには、後で、どんな話だったか思い出して頂くときの手がかりとなるようにでございます。また、ふたつめには、話に退屈なさったときに、あとどれくらいで終わるのか、見当をつけて頂くのに役に立つかとも思ったからでございます。そして、みっつめには、私自身のために、話が脱線しないようにするためでございます。

 いささか、世間の常識とは違った話かもしれませんが、皆さんが、ご自分の人生をお考えになるうえで、何かご参考になればと願っております。

 さて、本日ご臨席の皆様は、ほとんどがこちらの学校の卒業生でいらっしゃって、看護婦さん、助産婦さんとして、ご活躍の方々と、伺っております。看護婦さん、助産婦さんというのは、非常に専門的な職業ですね。

 昔は、といっても江戸時代のことですが、産婆さんというのは、大変な特権を持っていたそうです。当時は、救急医療というものは発達しておりませんでしたから、急を要する医療というと「お産」だった。ですから、産婆さんが走っていれば、救急車が走っているようなものでして、いまにも赤ん坊が生まれそうだという時には、産婆さんは、大名行列の供先を横切っても、お咎めなしだったそうです。普通なら無礼討ちになるところですから、「いのち」に関わる産婆さんという仕事には、それほど敬意が払われていたということでしょうね。

 時代は変わりましたけれど、看護婦さんや、助産婦さんの仕事が、「いのち」のケアをめぐる大切な仕事であることに変わりはありません。ことに最近は、社会の高齢化に伴って、「クオリティー・オブ・ライフ(QOL)」とか「いのちの尊厳」とか、しきりと叫ばれるようになり、「いのち」というものの意味がクローズアップされるようになってまいりました。それに伴って、皆さんのお仕事への期待も、益々大きくなってきているのではないかと思います。

 しかしです。では、そういう「クオリティー・オブ・ライフ(QOL)」とか「いのちの尊厳」とかいった思想を支えるだけの生命観を、はたして私たち現代人が持っているのかと言えば、はなはだ怪しいようにも思うのですね。

 どういうことかと申しますと、科学万能とも言える現代社会に生きる私たちは、「目に見える世界が全てだ」と考えているところがありますね。「目に見える世界が全てだ」とすれば、たとえば「私」というのは、この目に見える「身体」のことだということになる。もし、この目に見える「身体」が、「私」の全てだとすれば、当然、「死ねば終わりだ」ということになります。

 また、私たちは、物心ついたときには、すでに生まれておりましたから、生まれてきたことへの理由に心当たりはない。生んでくれと言った憶えもないのに生まれていたわけですから、いわば、「生まれてきたのは偶然だ」と思っている。とすると、「生まれて来たのは偶然で、死ねば終わりだ」ということになる。実際、これが現代社会に生きる大多数の人々が持っている生命観でしょうね。

 しかし、「生まれて来たのは偶然で、死ねば終わりだ」と言うのなら、「人生なんて、もともと意味も目的もないものだ」ということになりはしないでしょうかね。

 もし、「人生には、もともと意味も目的もない」というのなら、それは言葉を替えて言えば、「いのちには絶対的な意味などない」ということになりますね。とするとです、そういう生命観のなかで、はたして本当の意味での「いのちの尊厳」というものが成り立つのでしょうか。皆さんは、如何お考えでしょうか。

 もしも、科学的に見るのなら、本当は、「生まれてきたのは偶然かどうか分からない、死ねば終わりかどうか分からない」「人生に意味があるのかどうか分からない」のです。科学的に見れば、「いのちの意味は分からない」というのが正しいのです。

 何でも科学的に考えたいという現代人も、「生まれてきたのは偶然だ」とか「死ねば終わりだ」とか言うまえに、この「いのちの意味は分からない」という所に、一度はしっかり立ってみる必要があると思いますね。

 この「いのちの意味は分からない」という所に、しっかりと立ったなら、もう少し「いのち」に対して謙虚になれるでしょう。そして、「いのち」に対して謙虚になれば、「いのち」の不可思議さに対して敬虔な思いがわいてくるのではないでしょうかね。

 ひとつ、お考えになってみてください。たとえば、「あなた」が生まれてくるにあたっては、あなたを、この世に送り出した力があった。あなたは、ご両親の間に生まれてきたわけですが、生まれてくるのは、あなたでなくともよかったはずなのに、「あなた」だったのです。そこに、何か、あなたでなければならなかった必然があるようには、お感じにはなりませんでしょうかね。もし、感じるとおっしゃるのなら、それは大切な感覚のように思いますね。

 この「いのちの意味は分からない」という、科学の道が途絶えたところからは、二つの道に分かれます。図で描くと、こうですね。ひとつは、「生まれてきたのは偶然で、死ねば終わりだ」という道です。いわば、こちらは、世間の常識の道ですね。その先にあるのは、ニヒリズムの袋小路です。

 それに対して、もうひとつの道は、さきほど申しました、「いのち」の不可思議への敬虔な思いに続く道です。こちらの方向には、宗教的な世界が開けています。「いのちの尊厳」の根拠は、実は、この宗教的な世界のなかにあるのです。

 「いのちの意味は分からない」ということを無意味と見ないで、意味があると見る。人は無意味な世界を生きられない。意味があると見るところに、生きるエネルギーが生まれてくるのです。いわば、こちらは、必然と意味の道です。ここが、今日の話の出発点です。

 ここから先は、宗教的な世界の話です。「宗教」と申しますと、すぐに、前世や来世や、地獄や極楽の話だと思われるようですが、そんな一足飛びに飛躍するような話なら、いくら坊さんのわたしでも付いてはいけません。そうではなくて、皆さんとご一緒に、宗教的パラダイムのなかで、私たちの人生を考えてみたいのです。

 私にとって宗教といえば仏教ですので、仏教ベースの話ですが、その仏教では、人生について、こう説かれています。「人生には、意味も目的もある。あなたが生まれてきたのは、本当のあなたになるため、本当の自分に成るためだ。それが、あなたの目的なのだ。また、あなたが、あなたのいのちを生きていくことで、他の誰かが大切なことに気づいていくご縁になる。それが、あなたの人生の意味なのだ」と。

 まずは、そのグランドとなっている仏教のパラダイムについて、簡単にお話しさせて頂きます。どうぞ、こちらの図をご覧になって下さい。お手許にお配りいたしておりますパンフレットにも同じ図が載せてありますが、これは、仏教的な生命観にもとづいて、私なりにアレンジした「いのちの全体像」です。と申しましても、別に、「いのち」がこういう形をしているというわけではありません。これは、あくまでも、ひとつのモデルですので、そのおつもりでご覧ください。

 この図で、この小山のように盛り上がっているのが、たとえば「私」です。図全体では、波が並んでいるようにも見えますが、この波ひとつが一人の人間に相当いたします。ちょうど、海底から立ち上がって海に浮かぶ島を、横から見たような形ですね。この水平線から上が、私たちの目に見える現象世界です。そして、水平線から下は、目に見えない世界です。

 こ水平線の上の、「目に見える世界」だけで考えれば、私たちは、ちょうど海に浮かんでいる島のようなものです。ひとつひとつの島が、バラバラに海に浮かんでいる。あなたはあなた。私は私。私とあなたは、別の人間です。この別々の人間が、みんな、自分の利益や満足を求めて争っているのです。私が物を食べても、あなたのお腹がふくれるわけではない。

 ですが、海に浮かんでいるように見える島が、実際には、みんな海底でつながっているように、「いのち」の奥底では、私もあなたも、みんなつながっていて、「ひとつ」なのです。

 この海底の領域を、仏教ではいろんな名前で呼んでおります。たとえば、「涅槃(ねはん)」とか「無我(むが)」とか「一如(いちにょ)」とか、「阿弥陀仏(あみだぶつ)」とか「仏性(ぶっしょう)」とかいうのは、みなこの領域のことです。つまりは、誰もが、「いのち」の奥底で「仏」に支えられている。誰もが、「仏のいのち」を生きているのです。つまりは、私たちはみな「仏」だということです。

 とはいえ、実際には、とても「仏」とは思えないような生き方をしておりますね。それは何故かと言えば、私たちの「いのち」の一部に、「煩悩(ぼんのう)」に支配されている領域があるためです。この図でいえば、この赤色の領域です。

 煩悩というのは、「他の誰よりも我が身が可愛い」という心の働きのことです。現代の言葉で言えば、「エゴ」です。この「エゴ」が間に入っているために、上と下とがつながらない。私たちの「意識」が「仏」につながらないのです。

 「仏様」と言うと、私たちは、どこか遠い空の彼方にでもおられるように思っておりますけれど、そうではありません。私たちは、みんな「仏」なのです。「エゴ」に妨げられて、そのことに気づいていないだけなのです。

 ちなみに申しますと、インドの有名な聖者で、サイババという人がおられます。ご存じかもしれませんね。あのサイババが、ある時、「あなたは神様ですか」とたずねられた。そうしたら、サイババは、こう応えたといいます。「そうです、私は神です。ですが、あなたも神なのです。私は自分が神であることを知っていますが、あなたは、そうではない。私たちの違いは、それだけのことです」と。同じ事を言っているのですね。私たちは、本当は仏なのです。「エゴ」に妨げられて、そのことを知らないだけなのです。

 仏教がめざしているのは、この「エゴ」の支配から解放されて、本当の自由になることです。つまりは、「本当の自分」になること、「仏」になることです。

 ちなみに、「エゴ」から解放されることを「解脱(げだつ)」と言います。そして、その「解脱」の境地が、「涅槃」と呼ばれる完全な平和です。この完全な自由と平和の境地に到達することをめざしているのが、仏教なのです。完全な自由と平和。いかがですか。これこそ、私たちが本当に願っていることではないでしょうかね。

 「目に見える世界」では、一人一人がバラバラに生きているように見えても、本当は、みんなが「ひとつのいのち」「仏のいのち」を生きているのです。私もあなたもないのです。「本当のあなた」は、「本当の私」なのです。私たちはみな、「いのちの仲間」なのです。

 仏教の言葉で言えば、「一切衆生、悉有仏性(いっさいしゅじょう、しつうぶっしょう)」です。誰もが、「仏性(ぶっしょう)」を持っている。誰もが、「仏のいのち」を生きている。それが、私たちの「いのちの尊厳」の根拠です。

 目に見える世界では、あらゆるものが変化していきます。私たちは、生まれてきて、年老いて、ときには病気にもなり、いずれは死んでいくのです。ですが、そんな私たちの「いのち」の奥底に、一貫して変化しないものがある。そのことへの気づきのなかにしか、「いのちの尊厳」はないのです。

 いかがですか、仏教のアウトラインがお分かりになりましたでしょうか。この図でご覧頂いているように、私たちの「意識」は、目に見えないところで、この「エゴ」に支配されています。そのために、私たちは、自覚はしておりませんけれども、最終的には、何事も「エゴ」の顔色次第なのです。人生を考える上で、一番問題になってくるのは、この「エゴ」です。

 先ほども申しましたように、「エゴ」というのは「他の誰よりも我が身が可愛い」という心の働きのことです。誰の心にも、この「他の誰よりも我が身が可愛い」という思いが、多少なりともあるものです。

 あるところで、この話をしましたら、「ご院さん、私は自分のことより、孫が大事や」とおっしゃった方がおられました。お気持ちはよく分かりますが、孫が大事と言いましても、それは「我が孫」のことで、他人の孫のことではない。「我が家」であれ、「我が国」であれ、この「我が」という言葉がつくことを「エゴ」と申しますのですね。

 「エゴ」というのは、一筋縄ではいかないものなのです。「エゴ」は、極めて巧妙に働いているのです。たとえば、私たちは、苦しんでいる人を見れば、同情を感じますね。それは倫理や道徳の世界では、極めて高く評価されることです。ですが、そういう同情は、たいてい「エゴ」の感情なのです。

 よく、お考えになってみてください。私たちは、自分より幸せな人に同情を感じることはありませんね。同情するのは、自分より不幸な人に対してだけです。ですが、それは、上から下を見る目なのですね。そのうえ、同情が続くかどうかは、相手の出方次第というところがある。

 相手が感謝しなければ腹も立ちますし、本当は相手の方が幸せではないかと思うようになれば、引きずり落とそうともする。そういう「エゴ」の同情では、本当に人を幸せにすることは出来ません。本当に人を救っていくのは、「いのちの仲間」としての共感なのです。

 ちなみに、そういう共感を、仏教では「慈悲(じひ)」と言います。「慈悲」というのは、「本当の自分」の感情のことです。ですから、私たちが「本当の自分」への気づきを深めていくにつれて、「本当の自分」の感情に近づき、他の人との間に「いのちの仲間」としての共感が深まっていくのです。そして、そういう共感が深まっていくところに、「いのちの尊厳」への気づきもうまれてくるのですね。

 最初にも申しましたが、皆さんの仕事は、「いのち」のケアをめぐる大切な仕事です。大切というだけでなくて、非常にタフな仕事でもあります。もちろん、労働というレベルだけで見れば、皆さんの仕事よりタフな仕事もあるでしょう。ですが、皆さんの仕事は、「生・老・病・死」という、人生の核心に接する仕事である点で、他の仕事にはないタフな側面があるわけです。実際、皆さんの仕事の大切さは、その点にこそあると思いますね。

 仏教では、この「生・老・病・死」を四苦と言います。仏教の開祖であるお釈迦様は、この四苦に悩まれ、その解決をめざして出家されたのです。といっても、べつに、皆さんが出家なさる必要はありませんけれど、「生・老・病・死」に接することを仕事となさっている皆さんには、他の仕事にはない、宗教的な気づきが必要ではないかと思うのです。

 仏教では、「私たちのそばには、つねに三人の天使がいて、大切なことを伝えようとしている」と説いています。その三人の天使とは、老人と病人と死人です。この三人の天使は、已にこの世に生を受けている私たちに、「老・病・死」を自分の問題として真剣に受けとめよと教えてくれているのです。

 ですが、現代社会では、なかなかこの三人の天使に出会えない。たとえば、子供が生まれてくるとき、何処にいるかというと、病院にいるのです。年老いて身体が不自由になったとき、何処にいるかというと、病院にいる。重い病気になったとき、何処にいるかというと、病院にいる。そして、死んでいくとき、何処にいるかというと、病院にいるのですね。

 三人の天使は、みんな病院や施設に収容されていて、いわゆる社会生活のなかで出会うことがない。まあ、そのぶん、皆さんの職場は天使でいっぱいということになりますが、天使に囲まれていたら、「老・病・死」を自分の問題として真剣に受けとめられるようになるかといえば、必ずしもそうではない。

 「老・病・死」を自分の問題として考えると言いましても、たいていは、長生きするために「健康」に気を配り、死ぬまで退屈しないように「生き甲斐」を持ち、いざというときにお金に困らないように「総合保険」に入るという、それ以上のことは考えられないものですね。皆さんは、いかがですか。もしそうなら、それは、まだ人生が始まっていないということですね。

 この世に生を受け、順調に生きていけば年老いていき、ときには病気にもなり、いずれは死んでいくのです。まあ、そんなことは誰でも知っていることです。頭ではね。ですが、私たちはたいてい、「お金や地位や名誉を求め、何か美味いものはないか、何か面白いことはないか、健康が大事、生き甲斐が大切」と、生活だけに流されて暮らしておりますので、自分が本当に、老いや、病いや、死と直面したときには、非常に戸惑い、「こんなはずではなかった」と、悩み苦しむのですね。

 病気の苦しみは、肉体的なものであるだけでなく、大いに精神的なものでもあります。生きているのは当たり前と、永遠に生きるかのごとくに、明日を計画し、将来を夢見てきた人が、病を得たことで、死を間近に意識するようになると、それまでに抱いていた人生観など、何の役にも立たなくなって、パニックに陥る。

 「お金や地位や名誉を求め、何か美味いものはないか、何か面白いことはないか、健康が大事、生き甲斐が大切と」という精神構造のなかには、「人生が終わる」という現実を受けとめる基盤などどこにもないからです。

 問題になっているのは宗教的な事柄なのですが、宗教的な世界に背を向けながら生きてきた私たち現代人には、ケアする側も、される側も、問題の本質に気づけないということがあります。

 そういうところで、「思いやりをもって接するのだ」とか、「患者さんの立場に立って考えるのだ」とか言って、懸命になってみても、どこか空回りしてしまい、ついには、患者さんのパニックに巻き込まれて、いわゆる共感疲労に陥ったり、感情的な燃え尽きを起こしたりしてしまうことにもなるわけですね。

 そんなふうに、ケアする側が犠牲になってしまっては何にもなりませんから、最近は、社会学の方から「感情労働」という考え方を導入してきて、「気遣いや気配り」を労働として割り切ってしまおうという流れになってきています。ですが、そんなことで問題が解決するわけではないと思いますね。微笑みかけたり、手を握ったり、背中をさすったりして、「あなたに、つながろう」とすることは、労働ではなくて、むしろ「いのちの尊厳」に関わることではないでしょうか。

 数年前のことですが、あるハンバーガーショップでメニューを見ると、ハンバーガーやポテトチップスやアイスクリームなどの値段と並んで、「スマイル、0円」と書かれていました。意味が分かるまでに、しばらくかかりましたが、悲しくなりましたね。

 「ハンバーガーひとつと、スマイル3つ」。そんなことを、言える人がいるのでしょうか。「いのちの尊厳」を汚すことではないのでしょうか。皆さんは、どうお考えになりますでしょうか。「あの患者さんには、睡眠薬2錠と、スマイルひとつ」。はたして、それで、何かが解決するのでしょうか。

 たしかに、ハードな仕事で、疲れ切ってしまうということもあるでしょう。また、たとえば、業務でてんてこまいのときにコールが鳴りやまない。ひょいと、ランプを見ると、また、あの愚痴ばっかり言っているオバアサンだ。業務の隙間をぬって部屋に駆けつけると、例によって、枕が合わないとか、背中が痛いとか、愚痴ばかり言っている。そんなこと、この忙しいときに言わないで欲しいとは思っても、残り少なくなったエネルギーをかきあつめて笑顔のひとつも作っている自分が情けなくなる、ということもあるかもしれませんね。

 ですが、そんなとき、愚痴ばかり言って困らせるオバアサンは、本当は、「一人で死んでいくのが怖い」と言っているだけなのだということに気づいたら、何かが変わるのではないでしょうか。もしかすると、そんな姿に、「いのちの仲間」を感じるかもしれませんね。

 巻き込まれるのでも、突き放すのでもなく、「いのちの仲間」として接する。それには大きなエネルギーが必要です。そのために使われるエネルギーは、深い深い「いのち」の奥底にある井戸から汲み上げてくるしかないのです。

 その井戸というのは、先ほどの図で言えば、ここですね。「本当のあなた」は「本当の私」という「いのち」の奥底の世界です。ここには「生命エネルギー」が満ちている。光の世界、「意味」の世界です。

 ですが、宗教的なものを切り捨ててきた私たち現代人は、こういう世界は「ない」と考えています。それは、「意味」の世界を切り捨てたということでもありますが、そのために、現代社会には、「意味」ではなくて、「刺激」があふれ、人は、意味ではなくて刺激を求めて生きるようになったのかもしれませんね。

 「お金や地位や名誉を求め、何か美味いものはないか、何か面白いことはないか、健康が大事、生き甲斐が大切」と、常に刺激を求めているのは、その井戸の上にある「エゴ」です。この「エゴ」が、「いのち」の奥底にある「生命エネルギー」の井戸に蓋をしている。そのために、私たちは、なかなか「いのちの仲間」というスタンスがとれないのですね。

 宗教的な視点を持たない現代人は、この「エゴ」に支配されている自分を、「本当の自分」だと思っています。ですが、仏教では、そうは言いません。仏教では、それは「偽りの自分」だと言っています。では、「本当の自分」は、何処にいるのか。それに対して、仏教は、こう応えます。「本当の自分は、今、ここにいる」と。まるで、禅問答のようなものですが、それは、つまり、こういうことです。

 私たちは「今、ここに」いる、と思っております。たしかに、「身体」は「今、ここに」あります。ですが、心が「今、ここに」はいないのです。日常の私たちは、何もしていないときでも、常に休み無く、心のなかでオシャベリをしています。常に何かを考えていると言ってもよいでしょう。

 過去を誇ったり悔やんだり、未来に期待したり不安を抱いたりして、決して「今」のこの一瞬にとどまっているということがありません。つまりは、心のなかで過去へ未来へと走り回っている私たちは、「今、ここに」いないということになります。

 私たちは、過去に生きているわけでも、未来に生きているわけでもありません。私たちは、本当は「今、ここに」生きているはずなのです。ですが、心が「過去」へ「未来」へとさまよっているのです。

 「過去」は過ぎ去ってしまいました。ですから、「過去」は、いまさらどうしようもありません。「未来」はまだきておりません。ですから、「未来」は、まだどうなるか分かりません。私たちは、そんな「どうしようもない」世界と、「どうなるか分からない」世界をうろうろしているものですから、いつまでも心が温まらないのです。

 「エゴ」に支配されている私たちの心のなかで、常にオシャベリをしているのは、言うまでもなく、「エゴ」です。仏教は、そんな「エゴ」に支配された「偽りの自分」を離れて、「本当の自分」に戻ることを教えています。

 そのためには、過去へ未来へと走り回っている、心のなかのオシャベリを止めて、「今」を取り戻すことです。心のなかのオシャベリを止めるということは、「時間」を止めるということでもあります。「エゴ」は「時間」のなかでしか活動できないのです。

 ひとつ、目に見える「たとえ」を使って、ご説明いたします。ここに三つの箱があります。赤・青・黄色と、まるで交通信号のようですが、赤い箱には「過去」、青い箱には「現在」、黄色い箱には「未来」と書いてあります。

 一般に、「時」というものは、「過去」から「現在」を経て「未来」へと続く、一筋の流れのようなものと考えられております。しかし、この流れは、「過去」「現在」「未来」という三つの箱を、このように一列に並べたような関係にはなっておりませんね。

 そうではなくて、「時の流れ」を、この箱で表すとすれば、「過去」と「未来」という、二つの箱がくっついているだけです。そして、このふたつの箱の接点が「現在」に相当するという関係になっております。「今」というのは、この接点のことです。この「今」という世界には、心のなかのオシャベリが止まったときに、初めて入っていけるのです。

 たとえば、私たちの日常意識は、「エゴ」の働きによって、つまりは、心の中のオシャベリによって、こんなふうに「過去」と「未来」にまたがっておりますね。このオシャベリが、段々と収まっていったとき、私たちの意識は、自然に、この「今」へと入っていくというわけです。お分かり頂けましたでしょうか。

 世界の様々な宗教的伝統には、私たちの心のなかのオシャベリを止めて、この「今」に入っていくための技法が伝わっています。それが、「瞑想」です。「瞑想」には、呼吸を数えるとか、念仏を称えるとか、祈るとかいった、様々なスタイルがありますが、それらはみな、いわば、時間を止める技法なのです。

 心のなかのオシャベリが止まったとき、つまりは、「エゴ」の活動が停止したとき、私たちの「意識」は、「エゴ」の支配を離れて、「本当の自分」とつながります。そうなったとき、私たちは初めて、本当の自由と平和を知り、心の平安を得るのです。

 「本当の自分」に、一番近いのは、赤ちゃんです。赤ちゃんには、「エゴ」の蓋がほとんどありませんから、「いのち」の奥底の井戸の光がキラキラと、木漏れ日のように漏れ出ている。皆さんは、赤ちゃんに向かわれたとき、思わず知らず微笑んでおられるのではないかと思いますが、それは、その光に癒されるからではないでしょうか。まさか、そんな赤ちゃんへの微笑みを、感情労働だとおっしゃる方は、いらっしゃらないと思います。

 昨日、こちらの病院の新生児室を見せて頂きました。ガラス窓越しに見せて頂いたわけですが、赤ちゃんの「いのち」の輝きに触れて、荘厳な思いがいたしました。

 以前、ある著名な小児科の先生から、こんな話を聞きました。「仕事に疲れて、看護婦さんにしかられて、めげているときなどには、新生児室に逃げ込みます。赤ちゃんのそばにいると、元気になり、癒されますよ」と。何か、分かるような気がいたします。

 自分の努力で「エゴ」のパニックに共感するのではなく、光り輝く「生命エネルギー」をもらって「いのちの仲間」に共感する。そういうところには、「共感疲労」もないでしょうね。

 たとえば、数年前に亡くなりましたが、インドの貧しい人々のために生涯を捧げたマザー・テレサという人がおられましたね。彼女は、あるインタビューのなかで、「そんなに働かれて、苦しくはありませんか」と聞かれて、こう応えておられました。「いいえ、私は、私のために苦しんでくださっている、病人のなかの神様にお仕えしているだけです」と。これも、同じことを言っているのだと思います。

 また、テレサは、こうも言っています。「愛情のない仕事をするのなら、奴隷と少しも変わりません」、「(愛情の)ランプを灯しつづけるには、油を絶やしてはなりません」と。テレサは、その油をどこから補充していたかといえば、やはり、この「いのち」の奥底にある井戸からなのですね。

 テレサは、一日の仕事を終えると、必ず、夜中に一人で、神様への祈りのときを過ごしました。「エゴ」が騒いで、井戸の蓋が開かないときには、一晩中でも、祈りを捧げていたといいます。

 「神」と言おうと「仏」と言おうと、同じことです。先ほども申しましたように、神というのも仏というのも、この「いのち」の奥底にある「本当の自分」のことなのです。テレサは、病人のために、自分を犠牲にして生きたのではないのです。そうではなくて、テレサは、自らを神にゆだねて、「本当の自分」を生きたのです。

 たとえて言えば、こういうことです。私たちの心というのは、なかに半分ほど水の入ったコップのようなものです。「水」というのは、「生命エネルギー」のことです。それが、半分ほど入っているというのは、つまりは、満たされていない、満足していないということです。

 そこで、私たちは、この満たされていない心の隙間を何とか埋めようとします。「心のエネルギー」を外の世界から取ってきて、埋めよう、満足しようとします。刺激や、名声や、名誉や、楽しみや、何やかやと、心を満たすエネルギーを取ってこようとするわけです。

 では、このコップを満たしてしまえば、もう、それで満足するかといえば、そうではありませんね。しばらくすると、またまた、不満になってくる。何故かといえば、「エゴ」が飲み減らしているからです。ですから、「エゴ」が元気で騒いでいる限り、私たちは常に不満で、常に奪ってこなければならないのです。

 ですが、たとえば、さきほどのテレサのように、瞑想や祈りのなかで「エゴ」が鎮まっていけば、このコップは、「いのち」の奥底の「生命エネルギー」の井戸に接して、ここから無限のクリーン・エネルギーを供給されるようになります。そうすると、外から奪ってくる必要はなくなり、ついには、水は満ちて、あふれて、まわりの人々を潤すようになる。

 たとえば、シャンペン・グラスを、ピラミッド形に積み上げて、一番上のグラスに、水を注いでいく。すると、水は、あふれて、順次、下の段のグラスに注ぎ込んでいきますね。そんな具合で、一番上のテレサが、神につながれば、テレサ自身が救われていくだけでなく、まわりの人々も救われていくのです。つまりは、あなたが本当の意味で幸せにならないと、他の人も幸せになれないということですね。

 実際、生前のテレサを知っている人々は、テレサのそばにいるだけで、心が安らぎ、癒されたと言っています。本当の幸せを求める道、「本当の自分」に近づいていく道、そこには、自己犠牲も利己的な救いもありません。本当に自分が救われていけば、必ず、他の人も救われていくのです。それが、信仰の世界です。

 さて、皆さん、いかがでしょうか。マザー・テレサのような聖人は、あまり身近に感じられないとおっしゃるなら、そうかもしれません。ですが、こんな話をいたしましたのは、「いのち」のケアという仕事が、宗教的世界のなかで、どれほどの奥行きを持つものか、皆さんにも、いちどは確かめておいて頂きたかったからです。

 インドの古い格言に、「忙しい心は、病んでいる心。のんびりした心は、健やかな心。静かな心は、聖なる心」という言葉がありますが、静かな心を持つということは、大切なことですね。

 あなた自身のために、どんなに忙しい日であっても、一日に一度は、忙しさに流されている自分を、娑婆の喧噪からすくい上げて「ひとり」になる時を持つ。「本当の自分」と向き合う時を持つ。

 私たち仏教徒が、お仏壇に向かうのは、そのためです。お仏壇のなかには、仏様がおられる。仏様というのは「本当の自分」のことでしたね。私たちが、お仏壇に向かうのは、「本当の自分」と向き合うためなのです。

 それは、頭のなかで、今日を反省し、明日を計画することではありません。そうではなくて、頭のなかでオシャベリしている「エゴ」を鎮めるために、何も考えない時を持つということです。あなたがオシャベリをやめれば、「本当のあなた」が話し始めるのです。「本当のあなた」は、あなたより沢山の事を知っているのです。

 私たちは、あの人のようになりたい、あの人のように生きたいということになりがちですが、あなたはあなたを生きるしかないのです。たとえ、あの人のように生きられたとしても、それは二流の「あの人」になるだけです。そうではなくて、あなたは「一流のあなた」になることが大切なのです。「本当の自分」になっていくことが大切なのです。

 「本当の自分」になっていくというのは、いわゆる「自己実現」を目指すことではありません。「自己実現」というのは、「私は私、あなたはあなた」という、この「エゴ」のレベルでのことです。ですから、「自己実現」は、たいてい自己中心的な「自我実現」となりがちです。

 実際、世間では、「野心の実現」を「自己実現」と呼んでいるようなところもありますね。「朝鮮人参は、自分が成長するために、まわりの栄養もすべて吸い取ってしまう」といわれますが、そういう形で、自我が肥大していくことが、「本当の自分」になるということではありません。

 そうではなくて、反対に、そんな「自己実現」を目指している「エゴ」の活動を鎮静化して、この「いのち」の奥底にある「本当の自分」につながることを言うのです。「本当の自分」につながったら、どうなるか。「本当の自分」につながったら、「生命エネルギー」が注ぎ込まれて、生きる力がわいてくるのです。

 皆さんは、「いのち」のケアを職業として選ばれました。皆さんは、日々の仕事の中で、人としての経験を深めていかれます。経験というのは、あなたに起こった出来事のことではありません。そうではなくて、あなたに起こった出来事を、あなたがどう受けとめたかです。

 現代社会では、皆さんと患者さんとの出会いというのは、まったくの偶然だと考えられています。ですが、人との出会いに偶然はない、そこにはみな必然があり、意味があるのです。あなたが「本当のあなた」につながっていく道は、そう受けとめるところに、開かれてくると思います。

 意味があればこそ、あなたは、出産に立ち会うときも、臨終に立ち会うときも、そこに主体的に関わっていくことができるのです。その赤ちゃんを出迎えるのは、あなたでなくともよかった。その老人を見送るのは、あなたでなくともよかった。なのに、あなただったのです。そこには、何か必然があるのです。あなたが、「本当のあなた」になっていく道筋で出会った人との出会いは、みんな聖なる出会いです。

 「いのちの尊厳」を問題にする限り、宗教的な生命観を無視することはできないと思います。「いのち」に必然を見る、意味を見る。そこに初めて、「いのちの尊厳」というものが立ち上がってくるのです。偶然をいくつ重ねても偶然です。無意味をいくつ重ねても無意味なのです。

 人生に必然を見る、意味を見る。それが宗教的生命観です。その宗教的生命観を描いたのが、先ほどの「いのちの全体像」です。そこには、「いのちの奥義」が示されています。それは、私たちはみな「いのちの仲間」だということです。

 「本当の私」は「本当のあなた」なのです。私たちはみな、ひとつの「いのち」を生きている、「いのちの仲間」なのです。本当の意味での「いのち」のケアは、この、私たちはみな「いのちの仲間」なのだというスタンスに立つところから始まるのです。

 私たちは、「一所懸命」に生きると、よく言いますが、「一所懸命」というのは、「一つの所に、命を懸ける」と書くのです。その「命を懸ける」べき「一所」は何かと言えば、それこそが、この「いのちの仲間」というスタンスなのです。

 たしかに、出会う人々に対して、「いのちの仲間」を見るということは、いわば「理想」です。実際には、なかなか、できないことですね。ですが、できないまでも、思い出すことならできるのではないでしょうか。

 理想を持って、常に、その理想を思い出す。それは、心のなかの最も崇高な高見に立つということです。そんな高見に立つことができるからこそ、世間に流されないようになるのですね。「いのちの奥義」を学んだことの意味は、そこにあると思います。

 たとえば、「医なきを医とす」という言葉がありますが、これは「医療の理想は、医療が必要でなくなることだ」という意味です。たとえできなくとも、そういう理想をもって医療に従事するのと、「どんな病気でも治してやる」という思いで従事するのとでは、大きな違いが生まれてくると思いますね。理想を持つということは、大切なことだと思います。

 さて、私たちの日常生活は、その大半が、ありふれた出来事で占められています。今日することの9割までは、昨日したことと同じなのです。ですが、本当は、たった一度限りの「今」の積み重ね、それが、人生なのですね。

 その、二度と帰ってこない「今」に気づき、その「今」に気づき続けながら生きることのなかにこそ、幸せがあるのです。「もっとお金があれば幸せになれる」とか、「素晴らしいパートナーと出会えたら幸せになれる」とか、「あの人がいなくなれば幸せになれる」とか言って、幸せに条件を付けているあいだは、決して幸せにはなれません。

 条件を付けるのでもなく、他の誰かと比べるのでもなく、すでに満ち足りている「本当の自分」に気づいていく。そのことにこそ、幸せがあるのです。私たちは、幸せを求めていますが、幸せというものが、何処かにあるわけではありません。幸せを感じることができること、幸せを感じる能力を持っていること、そのことこそが、幸せなのです。

 「幸せ」は、考えるものではなくて、感じるものなのです。幸せを感じる能力は、頭のなかのオシャベリを止めることで、育てていくことができます。オシャベリが止まり「エゴ」が鎮まれば、「永遠の今」が「現象世界の今」と共鳴し、私たちは、一瞬の中に永遠の輝きを見るのです。

 私たちは、内にあるものを、外に見るのです。秋の落ち葉散る風景を見ても、ロマンチックに感じる人もいれば、もの悲しい思いを抱く人もいるでしょう。外の世界には、現象しかないのです。そこに感じるものは、みな、私たちの心の反映なのです。つまりは、平和も幸福も、まずは、私たち一人一人の心のなかから始まるのですね。

 私の高校時代の生物の先生が、こんなことをおっしゃったのを憶えています。「君たちは、落ち葉の舞い散る風景をロマンチックだとか綺麗だとか言って喜んでいるが、それは可笑しいよ。樹木というのは、老廃物をみな葉っぱに溜め込むんだ。そして、葉っぱが老廃物で一杯になったら、パラパラと棄てるわけだ。つまりだね、落ち葉が舞い落ちているというのは、樹木が立ち小便をしているようなものなんだよ」と。ひょっとすると、あの先生は、なかなか幸せにはなれないかもしれませんね。

 臨死体験をした人は、その体験のなかで、光の存在に出会い、「有意義な人生だったか」と問われるそうです。辛い今に耐え、心が今にない。幸せな将来を夢見て、今が過ぎ去っていくのを待っている。そういう人生ではなく、「いのちの仲間」とともに、一瞬一瞬の輝きを十分に経験し、心の底から、生まれてきてよかったと思える。そういう人生こそ、「有意義な人生」ではないでしょうかね。

 アインシュタインは、「名のある人物ではなく、実のある人物をめざせ」と言ったそうですが、私は、「ひとかどの人物になるよりも、本当のあなたになる」ことを、お薦めしたいと思います。あなた自身の幸せのためにも、世界の幸せのためにも。

 さて、本日で、27年間続いた助産婦科の歴史が幕を閉じます。その27年の間に、772名の方々が、この学校で学ばれ、卒業していかれたと伺っております。思いますに、この学校の役割は、その772名の方々の心に、大切な光を灯すことだったのです。「いのち」を照らす大切な光を伝えるために、いわば、皆さんは、この学校に選ばれた人々だった。皆さんは、この学校を選んで入学したとお考えかもしれませんが、そうではないのです。皆さんは、この学校に選ばれた人々なのです。

 学校は、役割を果たし終わって、皆さんの心には、しっかりと光が残った。涙の輝きだけではなく、「いのち」を照らす大切な光が残ったのです。

 学校は、自ら終わっていくことで、皆さんに、最後に、大切なメッセージを伝えようとしています。それは、「この世で始まったものには、必ず、終わる日がやってくる」ということです。皆さんには、その大切なメッセージを、人生に生かしていくチャンスがある。まだ、皆さんには時間がある。どうぞ、皆さんの学校の最後の教えを真剣に受けとめて頂いて、人生を大切にして頂きたいと思います。

 さて、そろそろ時間がまいりましたので、このあたりで終わらせて頂きます。本日は、長い間、理屈っぽい話にお付き合い下さいまして、有り難うございました。何事も一期一会でございますから、あるいはもう、お目にかかるご縁もないかもしれませんが、どうぞ皆さん、お達者で。




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