お経をあげる(とはいわないのでしょうが)自分もなにかしたくなって、唱えるのであれば、正信偈がいいのではないかと思い、(もしほかに初心者に対しお勧めがあればお教え頂ければ幸いです)全文を探しておりましたところ、貴院HPの1999年7月26日のおたよりにたどりつきました。
もし、お時間が許されるのであれば、全文をメールで送っていただけるというわけにはいきませんでしょうか? また、これはいつとなえた方がよろしいのでしょうか? まだ2.7も終わっておらず、心が不安定なまま、感情的になったりしている状態なのですが、お寺関係のHPを見ると少し穏やかな気持ちになりました。本当に不躾なお願いで申し訳ございません。お気にさわられたら削除していただくようお願い申し上げます。 YK
「正信偈」についてご質問頂きましたので、以下、簡略にお応え申し上げます。 伝統的に、真宗門徒は、「正信偈」を朝夕お勤めいたします。何かお勤めなさりたいということでしたら、やはり、「正信偈」でしょうか。ただ、紫雲寺HPの「お便りのコーナー」(1999年7月26日のメール)に記しております「正信偈」の本文といいますのは、本メール末尾に添付いたしましたように、漢字だけのテキストでございます。ご参考までにお送りいたしますが、これではお勤めの練習はできません。 「正信偈」のお勤め用の本には、漢字の読み仮名と節譜(せっぷ)が付いております。決して高価なものではありませんので、仏書店等で一冊お求めになってください。「節譜」というのは節回しを表す記号のことですが、おひとりで練習なさるのでしたら、テープやCDも販売されておりますので、それを手本となさって練習なさいますようお勧めいたします。「お東」と「お西」では、同じ「正信偈」でも節回しが異なりますので、購入されるときにお確かめください。 お住まいの近くに、お勤めの本やCDを扱っているお店があるかどうか分かりませんが、そういったことも含めまして、疑問に思われることなど、お葬儀をお頼みになった御寺院の御住職にお尋ね頂くとよろしいかと存じます。合掌
(「正信念仏偈」テキストは省略)
でも苦しんでいたのでしょう、数々の難問を抱えていたのでしょう、わかってやれなかった私達が悪い、一つ屋根の下でくらしながら、もがき苦しんで死を選んだこの子の、なにがわかっていたのでしょうか、結局自分達の事しか考える余裕がなかったのだろう、娘のことなんか、頭になかったんだろう、こんな親の子に生まれてきたばっかりに・・・。本当はもっと生きたかったろうに、遊びたかったろうに、こんな親でも浄土に行けるのでしょうか、許してもらえるのでしょうか。 神戸、AY
お尋ねを頂きましたので、私の信ずるところを簡略にお応え申し上げます。只今はご納得頂けないかもしれませんが、いつの日にか、思い出して頂けたら、有り難く存じます。 人は、亡くなると、私たちの五感では捉えることのできない世界へと去ってしまわれます。ですが、それは決して、無になってしまうということではないのです。「お浄土へ行けるか」とお尋ねですので、このことから、お応え申し上げます。 「人生は、川面に浮かぶ泡沫のように儚いものだ」と、よく言われます。思えば、私たちの人生は、わずかに数十年です。たしかに、川面に浮かぶ泡沫のように、儚いものかもしれません。 ですが、いちど、川面に浮かぶ泡沫を、しっかりとご覧になって見てください。あの泡沫は、無から生まれて、無に帰っていくわけではありません。川面に浮かぶ泡沫は、大きな川の流れから生まれてきて、また、その大きな川の流れへと帰っていくのです。私たちも、そうなのです。 私たちは、無から生まれて、無に帰っていくわけではありません。私たちは、大きな「いのち」の世界から生まれてきて、また、その大きな「いのち」の世界へと帰っていくのです。その、光に満ちた大きな「いのち」の世界を、私たち門徒は、「お浄土」と呼んでいます。 死ぬというのは、つかのまの「泡沫」という形を捨てて、この、大きな「いのち」の世界に帰ることをいうのです。私たちは、お浄土から生まれてきて、また、そのお浄土へと帰るのです。死ぬというのは、いわば、「いのち」の故郷への里帰りです。 「いのち」の故郷への里帰りには、何の条件もありません。ご息女も、あなたも、私も、みんな無条件で受け入れられる世界が、お浄土です。そのことを教えてくださっているのが、「浄土の教え」なのです。 「浄土へ行けたのか」「浄土に行けるのか」とお尋ねですが、そのことでご心配なさることはありません。私たちは、みな、浄土から生まれてきて、また、その浄土へと帰っていくのです。それが、私たちの「いのち」の真実の姿なのですから。 人生には、時として、私たちには思いもしないことが起こってくるものですが、無意味なことは何も起こってないと、私は信じております。 私たちが、同じ時代、同じ世界に生を受けるのは、互いに助け合い、互いに学び合うためではないでしょうか。親子の縁もそうでしょう。子供は、その親からしか学べないことがあるから、その親のもとに生まれてくる。また、親は、その子からしか学べないことがあるから、その子を授かるのだと思います。 ご息女は、ご家族が、人生にとって本当に大切なことに気付かれる「ご縁」を結んで逝かれたのではないでしょうか。もしそうなら、ご息女は、ご自身の仕事を果たされ、人生を全うなさったのです。あとは、残された私たちが、それを「ご縁」として受け止められるかどうかです。 いつの日か、お浄土で、ご息女と再会なさったとき、「あの時は悩み苦しんだけれど、あなたのお陰で、いのちの真実への気づきが深まり、有意義な人生が送れました。本当に有り難う」と感謝できたら、きっとご息女もお喜びになることと思います。ご息女が結んでいかれた「ご縁」をお大切になさって頂きますよう念じあげます。 はたして、これでお尋ねにお応えできたかどうか心許ない思いがいたしますが、お時間がおありのときにでも、紫雲寺HPの法話集をご覧頂いて、お考え頂けたらと存じます。最後になりましたが、ご家族の皆様のご心痛を思いつつ、合掌いたします。 PS お差し支え無ければ、ご息女のHPのアドレスをお教え頂けませんでしょうか。
テープは以下の2つです。
「あなたを生きる」2002年3月16日、
以上よろしくお願い申し上げます。さいたま市 F拝
なお、ご送金には、同封いたしました郵便振替用紙をご利用くださいませ。今後とも宜しくお願い申し上げます。合掌
伴戸様のHPを見させて頂きました。何故かと言いますと、大分の田畑先生が主催しておいでになる、「歎異抄に聞く会」へ招かれて法話されておられたからです。 私は、広島在住の者ですが、不思議な仏縁にあいまして何とか念仏申させて頂ける身とならせて貰いました。そうなって間もなくの頃、光明団広島本部での、御正忌報恩講の講師として、田畑先生のお話を聞かせて戴いたことがありました、その田畑先生に招かれてお話される、伴戸様へ凄く興味があったからです。 お話の中の、唯識仏教のご説明について、田畑先生も引用されてお話されましたが、その時は何のことやらさっぱり理解できませんでしたが、その後色々と理解を深める内に、伴戸様のHPを見まして、ああそうだったんだと、眼の鱗が落ちるほどに、理解することが出来ました。
ここに居ながら、お話が聞けるのは、9願の「神足通之の願」ですね。コンピューターの発達によって、世界中人々と一つに繋がりつつある今は、9願そのものだと思います。今後もHP見させて戴きますので宜しくお願い申し上げます。広島市 KI
昨日は台風の中、棚経をいただき有り難うございました。土曜日にお越しになることを知って、それならわたくしも行かなければと構えていたところが、前夜になって台風の直撃があり、陋屋で一人暮らしのオフクロが心配で尼崎の実家に帰りました。何とか間に合うようにと動き出した一番バスに乗って伊丹に戻って準備をして京都に駆けつけるつもりだったのが、家に戻ると、さぁたいへん。ベランダが水浸し。排水に手間取ってしまい、京都に行くことを諦めました。御院さまのところは大丈夫だったでしょうか。 今日、かみさんが京都から帰って来て「御院さんが『お元気ですか』って聞いてくれてはったから、相変わらず、えらい元気ですって言うたら『そうでしょうね』って言うてはった」と聞きました。お心にかけていただいてありがとうございます。おかげさまでお察しのとおり、たしかに元気でやっておりますのでご安心ください。 しかし、かみさんときたらわたくしの「元気」を持て余しているかのように「相変わらず」とは苦労も知らずによう言うてくれます。今年はボーナスが前代未聞ごそっと減ったので不景気ヅラしててもおかしくないのですけれど御院さんから元気をいただいたおかげでなんとか元気なんですよ。まぁ、かみさんからも元気を貰ってるので元気の「タニマチ」には楯突くわけにもいきません。 今日、十日は昨年、祖廟で親鸞さんから声をかけていただいた記念すべき日です。今週行けなかったので来週末には祖廟へお参りに行かねばと思っています。ところで、こちらでは「盆の最中はご先祖さんは家に帰っとるのやから墓参りは盆の前に済ませとくもんや」などと言います。また、「ご先祖さんが墓で眠っていない間に墓参りして掃除しておいて、盆が終ったらきれいになった所へ気持ちよくお帰りしてもらうもんや」などともとも言うようです。京都ではどっちが正解なんでしょうか? 同じ阪神間でも大阪と京都では地獄の釜の営業日も違っていて大阪は十五日までがお休みで十六日から。京都は十六日までがお休みで十七日からの営業。伊丹のゴミ焼却場は十八日からで、わたくしときたら盆休みなし。要するにあの世のこともこの世の世相や土地柄を反映してケース・バイ・ケース。それならそんなに固いこと言わなくてもいいじゃん。と思うのですが如何でしょうか。 去年は肥料の土くれの中からお声を掛けて下さった親鸞さん。これはつまり親鸞さんは土塊のような物にまであまねく存在しているということ。あまねく存在する親鸞さんを祖廟に訪ねて、盆だから親鸞さんがおいでになるとかならんとか論議するのはナンセンスじゃないかと思うんですけど、正解はどうなっているのでしょうか? わたくしはわたくしが行けば必ずおいでになるのが親鸞さんだと思うのですが、こういう解釈は手前勝手すぎるかもしれませんね。これまで思う存分自分勝手に生きて来ても結局のところは仏さまが生かせて下さっていた。その後、親鸞さんに声をかけてもらったのに大きく改心して毎日念仏唱えているかと言うと左程真面目でもない。知らないならともかく、知っててやらない。これは相当なバチ当たりなのにそれでもまだ生きている。生かされている。これほど太っ腹な仏さまや親鸞さんが盆に行ったからどうのこうの、お参りに行った日がどうのこうのとセコイこと言うのだろうか、とも思います。まぁ、甘えついでというところでしょうか。 ですから、たんまの「なむあみだぶつ」ならせめて心から唱えたいものだと思います。そう思っただけで・・・・・・。いま、キーボードを叩きながら口をついて「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」と出て来ました。今年のお盆は台風の邪魔が入って御院さまに唱和して岳父に「なむあみだぶつ」と唱えられなかったけれど、一人で「なむあみだぶつ」と言えるようになったのだから些かの進歩ではあるか!? マッ、いいか。 いや、やはりよくありませんね。ヘルマン・ベックの『仏教』を読むように御院さまからお薦めがあって、わたくしが「読みます」と約束して、あれから一年。 実は未だに読んでいないのです。台湾に行っていたあいだにすっかり忘れてしまっていました。御院さまに不用意にお会いして「お読みになりましたか?」なんて聞かれたら赤っ恥をかくところでした。
では失礼いたします。お盆でお忙しいところ、まことにおじゃまをいたしました。お返事無用でございます。ただ、メールが上手く届いているのかどうか気になります。もしこのメールが上手く届いておりましたら、ゴミ箱をクリックなさる前に開封通知をクリックするなり、リターンメールをクリックするだけなりの手間要らずの方法でお知らせ下さい。では、お疲れの出ませんように。いづれまた。KK
御住職は「心の青年への手紙」の「浄土への道」において、念仏について、能力開発や生理学的な解説をなさっておりますが、それについての参考文献、学術文献などありませんでしょうか?
私自身は「ありがとう」を唱和することによって、生理的安定、平安状態になることができます。また、たまに、南無阿弥陀など唱えることがありますが、同様に生理的、安定、平安により近づくことができると感じています。ストレスがたまりすぎると、効果が小さいときもありますが。御住職の書かれた、エントロピーが小さくなると言うのは、言い得て妙かと存じます。雑文になってしましましたが、これにて失礼します。I
さて、お尋ねの参考文献でございますが、なにぶん10年も前のことですからはっきりいたしませんが、思いつくままに、以下に数点だけご紹介いたします。書籍の末尾にはたいてい参考文献表が付けられておりますので、それをたどっていくと、いろいろな文献に出会えるかと存じます。ご精進を念じあげます。合掌
(1)角田忠信『日本人の脳』、大修館書店、1978年
私は若い時(29歳)に実母を亡くし、それ以来亡き母の位牌を小さな仏壇に祀り毎 朝水と線香とお経をあげてまいりました。ご先祖様や亡き母にいつも手を合わせて何かお願い事をしたりしていました。しかし、師のお話で私のしてきたことは、単なる「煩悩」 からでてるエゴだらけの悩み相談みたいなもので、仏のこころすなわち「一如」への想いのかけらも無い自分に気付き恥じ入る次第です。 今年の正月に大阪のホテルで新春講演会があり、そこで「村上和雄先生」のお話を聞 かせていただき、感銘をうけました。師ももしかしたら、ご存知かもしれませんがもしご存じなければ一度文庫本を読んでみてください。その方は、筑波大学の名誉教授でお年は 67歳になる方ですが、遺伝子工学の世界的権威で世界で初めて高血圧の原因になる「酵素レニン」を発見した方です。 その大先生が話してくださった内容は科学者でありながら、科学の限界を認め科学では説明のつかないことが、この世にはあると仰いました。それは、「Somthing Grate」とゆわれる存在があり、私たち人間はその存在S.Gにより生かされているということだそうです。 地球上には、200万種以上の生物が存在しているそうですが、その全てが同じたった4個の遺伝子情報(A/T/C/G)から出来ているという事実からも「奇跡」としか思えない、何か偉大なる存在を信じないと説明できないと話していただきました。 その後、しばらくして、今月初めに紫雲寺HPに出会い師の素晴らしい含蓄に富んだお話を拝見させていただき、一度便りを出してみたくなり、厚かましくメールいたしました。師とは同じ年(S24生まれ)で、親近感(大変失礼だと思いますが)を感じ赦して頂けると勝手に解釈して便りいたしました。 出来れば、一度京都まで出かけていき師のお話を直接聴かせていただきたいと思いますが、お忙しい中お時間をとって戴けるのでしょうか?もしご都合の良い時間がありましたら、お知らせください。TS拝
追伸:書名「Somthing Grate」 出版社 サンマーク出版 著者 村上和雄
村上和雄先生のご著書は、数年前に『生命の暗号』という本を読んだように思いますが、『サムシング・グレイト』はまだ読んでおりません。近々読ませて頂こうと思います。ご紹介を頂き、有り難うございます。 来る9月23日(秋分の日)の午後2時より、私どもの寺で「永代経法要・彼岸会」をお勤めいたします。法話のあとには、毎回、軽食を準備いたしまして、親睦会を持っておりますので、ご都合がよろしければお立ち寄りくださいませ。
今後とも宜しくお願い申し上げます。合掌
さて、お言葉に甘えさせていただき23日の午後2時に貴院にお邪魔させていただこうと思います。しかし、私のような檀家でもない宗派(当方の菩提寺は日蓮宗のようですが)も違うものが厚かましく檀家の皆さんとご一緒させていただいても宜しいのですか?少し気になりますが、昇空師に直接お会いしたい一心で往かせていただきます。 S拝
また、ちょっと飛躍しますが、僧侶になるには宗門の大学を経ないとなれないのでしょうか。今すぐ出家というわけではないのですが、いずれ定年を迎えれば本格的に学びたいと考えています。どうぞよろしくお願いします。MN
まず、真宗の教えを体系的に学べる場はないかとのお尋ねですが、北陸でしたら、金沢に、大谷派の専修学院がございます。ただ、専修学院は、おもに、僧侶となった方が教師資格(住職になる資格)を得るために学ばれる場所ですから、今のところ、お勧めはできません。また、大谷派の学校は全国にございますが、いずれも、お勤めをなさりながらというのは、難しいかと存じます。 次に、僧侶になるには宗門の学校を経ないとなれないのかとのお尋ねですが、決して、そういうことはございません。大谷派の僧侶には、以下のような手順で「得度式」を受ければ、なることができます。(…中略…) 以上でございますが、ただ、貴方様の御心中に、僧侶となるべき信仰上の必然があるのでなければ、あまりお勧めできません。「得度式」よりも、まずは、御本山で「おかみそり」(「帰教式」とも言います。真宗門徒となる儀式です。)をお受けになって、聞法を重ねられるよう、お勧めしたいと思います。ご賢察、ご精進を念じあげます。合掌
現在のところ再刊の予定がございませんので、とりあえずストックのある分だけ、2部づつお送りいたします。(…中略…)『菩提樹』の記事は、信徒さんへの連絡事項を記した「掲示板」をのぞいて、全てホームページに転載いたしておりますので、そちらをご覧頂きますよう、お願い申し上げます。合掌
もっと早くに御礼をしようと思いながら、仕事で出張が立込んでしまいご無沙汰してしまい申し訳御座いません。また、総代の奥谷様には初めての私にお心遣いいただき、いろいろなお話を丁寧にしていただき大変嬉しく思いましたのに、御礼のご挨拶も出来ず申し訳なく思っています。
今月9日の報恩講には、日程調整して御院様のお話を是非聴かせていただこうと思っています。そして、奥谷様はじめご同行の皆様とも再会できることを楽しみにしております。 S拝
内容に皆様が関心の持たれ再度ということで昨日(12月6日)私が出かけまして、今回貴hpの「還相の菩薩」の内容を今回用にアレンジして資料を作り「お話」と「資料配布」を行いましたら、予定外の好評で今朝わざわざ院長からお礼の電話と皆様の好評さを伝えてくれました。本当は院長が個人的に感じるところがあり一番喜んだのかもしれません。資料には当然貴hpの紹介もさせていただきました。今後ともご教化をよろしくお願いいたします。合掌 MT
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