お便り&お返事 (2006年)

更新:2006年12月21日



法話を有難うございます。シアトルから 2006年1月13日(金)
 初めてお便り差し上げます。長年米国シアトルに在住する者です。いろいろ検索を重ねているうちに、御住職のサイトにぶつかりました。もう、毎日、時間を作って読み漁っています。自分の感じていたことを確認したり、直したり、新しく学んだり、本当に有難い教えを頂いています。

 今は、まだ法話の10までしか読めていません。ここで、至急お教えいただきたいことがあります。まだまだ、頭で考えている証拠だとは思いますが、興味があります。(…中略…)

 さて、質問です。先回(去年の11月)日本に帰ったとき、柳澤桂子氏の「生きて死ぬ知恵」という本を買いました。般若心経が書かれているので、それを毎日声に出して読むようにしてます。もう、ストーリーのことなど考えなくなりました。

 ただ、質問は次の点です。お経などの素晴らしい教えを声を出して読むと、その音の振動が体中に伝わり、チャクラに共鳴。それが、松果体とかに届き、最終的に魂まで届くとかいう説明を読んだことがあります。

 理屈っぽい私がそこで、不思議に思ったのは、オリジナルのお経とは原語で書かれているはずで、その音はまるで違うもののはずです。ということは、音自体の持つ振動ではなく、もっと高いところの何かが作用するのだろうと言うことになりますね。。。?

 漠然としか分かりませんが、こんな曖昧な解釈と理解でよろしいのでしょうか?何か、インプットが頂ければ励みになります。これからも、どんどんメールを出させて頂くと思います。ご迷惑でしょうが、よろしくお願いいたします。現在の私は、真の自分を見つけていくことだと思っています。それでは、また。MK



シアトルのMK様へ
Re: 法話を有難うございます。シアトルから 2006年1月13日(金)
 メールを拝受いたしました。紫雲寺のホームページにご関心をお寄せくださり、有り難うございます。(…中略…)

 さて、お尋ねを頂きましたので、分かる範囲で簡略にお応え申し上げます。

 お考えのとおり、たとえば古代インド語のサンスクリットで書かれた原典の「原音」そのものに特殊な働きがあるとすれば、チベット語や中国語に翻訳された経典は無意味なものとなります。(実際、そういう考え方もありまして、『般若心経』の陀羅尼の部分では、つまり呪文のような箇所のことですが、そこは翻訳されずに音訳されて、原音を残そうとしています。)

 たしかに、特定の音が特定のチャクラと共鳴して活性化するという話はよく聞きます。瞑想用のシンギングクリスタルボールなどでは、C音、D音、E音、F音、G音、A音、B音が、それぞれ7つのチャクラ(下から上に対応)を活性化すると言われております。

 ですが、読経が身心に影響を与える理由は、音自体の持つ振動特性よりも、むしろ、読経時の呼吸法にあるように思います。速く短く吸い、ゆっくり長く吐く。そういう、吐く息の長い呼吸は、副交感神経を活性化して、身体を緩め、心を鎮めます。

 身体が緩み、心が鎮まっていく。そして、読経の声に満たされて、左脳が黙り込んでいく。「まことの自分」というのも、その先に開けてくる世界のことです。これに関しましては、釋昇空法話集・第25話「いのちの重心」等をご覧頂ください。

 はなはだ簡略ではございますが、これにてご返信申し上げます。今後ともよろしくお願いいたします。合掌



返事を有難うございました。シアトルのK 2006年1月21日(土)
 あまりに早く回答を下さったので、大きな喜びでした。有難うございます。読ませて頂いてすぐ、気づくことがありました。煩悩がすぐその小さな頭を持ち上げてくるので、あのような質問が出てくるわけですね。。。理屈ではなく実践のみなのでしょう。

 示唆して頂いたように、法話の呼吸に関する章を読みました。はい、実践します。普段からどちらかと言うと腹式呼吸をしていますが、短く吸い込み、長く吐くとの自覚はありませんでした。早速、取り入れます。毎日、気功、瞑想、ヨガを心がけていて、すべてが腹式呼吸の重要さを強調しています。今はもっと意識して行ってみます。いつか、無意識に正しい呼吸法ができるようになるといいのですが。。。もう、次の煩悩のささやきがあるまで、実践のみに徹します。

 残念ながら、そんな単純な当たり前の気づきが、長い年月といろいろな人生経験を経てこないと、なかなか凡人の私には訪れない現実です。そこで私はかなり前から居直っています。自分の無知さを晒さなければ、何の批判、意見も頂けない。批判は、時には当たっていないことがあっても、自分には見えない角度での意見なのだからと有難く伺うことにしています。ただ中には、批判者当人の内面をぶつけて来られる事もしばしばありますね。批判を鵜呑みにしないためにも、己を知ることの大切さを学びました。どうも、外から観察していると、日本の社会は、周りを気にする傾向がかなり強いようです。だからこそ、己を素直に良いところも悪いところも直視するという作業が必要になってくると思います。

 日本という土壌で25年間、育ちました。そんな私がアメリカに渡ったのです。日本人とアメリカ人には至る所で違いを感じましたが、もちろん、奥の所は、同じ人間です。宗教などの影響もありますが、同じところも多くあることも知りました。ただ、育ちとは根強いもので、アメリカに住み、アメリカ人と親密に接していても頑固に離れてくれない日本的部分があり、つい数年前まで悩まされました。

 それは、自己評価の低さです。日本では、謙譲の精神は徳として教えられます。本当の意味での謙譲心は、とても素晴らしいものです。しかし、女性として、人間としての、卑下とも言える精神状態はいろいろな面でネガティブなものとして弊害の多いものでした。私の周りにはこの問題で悩む日本女性がたくさんいます。具体的な弊害として、自分の可能性を低く見てしまうことがあります。やってみたいことがあっても、好きな人がいても、自分には出来ないだろうからとか、私なんか相手にしてもらえないだろうからとか理由をつけて、リスクを取らずに後世まで後悔することなどです。あるいは、人からの批判にこだわり続ける。これらが元にあるために、ささいなことに嫉妬、劣等感を持ち固執するなどにも繋がっている気がします。

 アメリカ人にも同じ問題を持つ人達はたくさんいますが、その率は日本人の方が多いと思います。では、この問題を持たない人達はどうかと言うと、表面的観察では正反対の態度が見られます。「ミーミー シンドローム」と言われている現象ですが、自分こそが女性として男性を引きつける魅力に溢れ、能力にも優れ、誰にも負けないと言うような、私達から見ると、自信過剰としか思いない態度の人が多く見られます。これも、振り子で言うと、片方に寄り過ぎですね。。。

 そんなことに振り回されていた私でしたが、やっと自分を受け入れることを学んだ時、初めて中庸の正しさが自然に理解できたようです。自分をもう一つの目で観ることが出来るようになってきたとも言えます。ますます、心に平和が訪れるようになってます。有難いことです。。。

 次に日米を問わず、世界的風潮でおかしいと気づいたことがあります。それは、すべての人間に「成功者」、「敗北者」のレッテルがつけられていることです。世間で言う成功を遂げることこそ、人生で最も重要なことだと教えられているのではないですか。日本での、異常現象としか言えない受験地獄などが今だにまかり通っていることなど、狂気沙汰の頂点ではないでしょうか? 人生で最も大切な心のことを学んで行かなければならない、その時期を「修羅」そのものの教えを強制されるのですから。。。私達50代の者達でさえ、この副作用で超長期間にわたって苦しんでいるのです。現代の若者達の状況は更に悪化しているのではないでしょうか?まさに地獄絵を見ているような錯覚に襲われます。

 アメリカでの成功の象徴は医者、弁護士、政治家、実業家であり(金と権力)、西海岸でも特にカリフォルニア州では、どこに住み、どんな車に乗り、どんな仕事をしているかが、付き合うかどうかの判断材料になります。私の住むシアトルはそれほどでもありませんし、私はそういう価値観を持たないので、カリフォルニアに行かなければならない時など、その土地、人の持つエネルギーに圧倒され胸が苦しくなります。人にはそれぞれ向き不向きがあり、能力にも差があります。すべての人がピラミッドの天辺に上っては、ひっくり返ってしまいます。上に上がる人も、縁の下の仕事をする人も、みんな必要な役割を持っているはずです。そんな当たり前のことが、人間には未だに分かっていないんですから、本当に私達とは未熟な原始的な生き物なのですね。。。

 さて最近のアメリカの状況は、日本にも伝わっていると思いますが、まさに廃頽の極を示し始めているのではないでしょうか。。。オージェー(元フットボール選手)の殺人事件で、彼が金を使い無罪を買ったという事件が何年か前にあり、その時から、大っぴらに何度も見せ付けられています。もちろん、その頂点に位置するのが、現大統領の選挙と言えるのは、日本人にも分かっていると思います。あれほど、不正が堂々と行われ、そのまま通ってしまったという例はアメリカと言えども前代未聞でした。選挙後もどんどん証拠が挙がってますが、そのまま状況は変わりません。。。何が正当なのか、民主主義なのか、言論の自由なのかと、すべてが嘘の塊で、私達弱者(特に市民権をもたない者)には何ともフラストレーションの溜まりっぱなしの現状です。今は一般の私達にもプレッシャーがかかっていて、メール、電話でも批判を堂々と言えません。信じられますか?

 まさに法話で仰られている修羅の頂点にあると思います。ただ、一つ気づいた事は、上記のことはビッグピクチャー(日本語?)だけれど、ごく一般の世界でも同じことが起きていることです。詐欺、嘘、蹴落とし、殺人などなど。。。これらの規模を大きくしたのが上記ですよね。殺人は侵略戦争という形で行われている。しかも、殺人罪が問われない。。。まさに地獄絵ですね。でも、私達の未熟な部分がどんどん出ることで、人間の意識、精神がまた一段階、成長を遂げるために必要なステップであるのかなと考えると、そんな役割を彼らが請け負っているのかなとの見方も出てきます。底の底ですべての生き者(物)は繋がっているのだから、こんな飛躍した考えも可能になるのではとも思います。きっと、同じことは人間の本当の歴史を紐解くといつの時代にもあったのだと思います。人間の成長とはこれほど遅いのかとガッカリします。

 あまりに長くなってきました。他にもどんどん自分の意見、気づきを述べ続けてよろしいでしょうか? 気づかれた点はどんどん意見してください。すべてが勉強と思っています。よろしくお願いいたします。




ご本尊蓮台について 2006年1月21日(土)
 紫雲寺さま いつも貴サイトを拝見しております。大ファンの一人です。初めてメールさせていただくのですが、いきなりお問い合わせで誠に恐縮です。内容は、浄土真宗本願寺派ご本尊の蓮台についてのお問い合わせです。

 実は、本願寺派の蓮台の色が何故、緑なのか、が分らないでおります。青なら、そうかな、とも思いますが。もっとも青い山は、新緑の山なのでしょうし、青信号は緑色なのでしょう。でも、緑色の蓮などというものを見たことがありませんし、仏典にも出てこないと思うのです(私が無知なのでしょうけど)。

 さらに花びらの形にも疑問があります。青が何かの理由で緑になった(青がオリジナル)と仮定した場合、花びらの形状が不自然です。仏眼は「青蓮華の花びらのように」細長いと表現されるように青蓮華は花びらの幅が狭いのに、私の見聞きした範囲では、白や桃色の蓮のような厚ぼったい形の蓮台ばかりです。青蓮華である以上、仏様は細長い(幅の狭い)花びらをした蓮の花の上にお立ちではないといけないのではないかと思うのです。

 でも、実際には緑色の厚ぼったい(幅の厚い)花びらをした蓮台の上にお立ちです。何故なのでしょうか。 F



F様へ
Re: ご本尊蓮台について 2006年1月21日(土)
 メールを拝受いたしました。紫雲寺のホームページにご関心をお寄せくださり、有り難うございます。

 さて、お尋ねの件でございますが、仏具カタログ(小堀と若林)で蓮台の色形を確認いたしましたところ、たしかに、本派のものも大派のものも、ぽってりとした緑色の花弁に截金を施したものばかりでした。イコノグラフィー(図像学)には全く無知でございまして、何ともお応えの仕様がございませんが、他でも、緑色の蓮台を見たことがございます。

 京都国立博物館に、経文の一字一字を彩色蓮台に乗せた「一字蓮台法華経」(鎌倉時代)というものが所蔵されておりますが、この蓮台は、 丹(赤)・緑青(緑)・群青(青)・金・銀の五色に塗り分けられていたと思います。それにしても、では何故緑色か、ということになると、やはり分からないわけでして、いちど製造元にお問い合せになってみては如何でしょうか。

 何のお役にも立ちませんで、申し訳ございません。今後ともよろしくお願いいたします。合掌




水も生き物。。。2006年1月23日(月)
 ご住職へ:すみません。またKです。(…中略…)ここしばらく、ジム通いをまじめにやっています。気功、ヨガ、瞑想などの相乗効果なのでしょう。身体だけでなく精神、感受性への影響が出ているのがはっきり分かります。

 水泳をほぼ毎日続けていますが、最近、不思議な感覚に包まれました。ここしばらく意識を常時、周りと自分に置くよう心がけています。泳いでいて、すべての神経を水と自分に合わせていると、次のことが起きました。

1.身体を激しく動かさなくとも、水に乗って動いています。
2.水の抵抗がなくなりました。
3.水とはさらさらしていると思っていたのが、量感がまるで変わって見えるし、感じます。水が生き物のように見え、あたかも鼓動が伝わるような感じです。
4.自分という意識よりも、あたかも水の一部になったような感覚です。。。

 これはきっと、人間関係を始めとするすべての事に当てはまるのではないかと気づきました。がむしゃらに押しても、抵抗が大きくなるのは経験で知っています。これこそ、相手の言うことに心から耳を傾けることの重要さがよく言われる云われなのでしょう。。。。

 注意を自分の周りに払ってみると、日常的なすべての物からの存在感を感じるようになっていました。これって、自分という一人間が、自然の一部だという自覚に目覚めだしたのでしょうか? 身体中が弱い電気が常時、走っているような感覚が続いています。この状態はこれからもずっとつづくのでしょうか? お時間のある時で結構です。意見を聞かせてください。合掌



シアトルのK様へ
Re: 水も生き物。。。2006年1月24日(火)
 こんばんは(…日本では午後9時なものでして…)。返信を差し上げますのが遅くなりまして、大変失礼いたしました。(…中略…)

 さて、お尋ねの件ですが、五感がクリアなとき(つまりは、オープン・マインドになっているとき)は、世界の感じ方が普段とは違います。そのときの世界が、おそらくは、本当の世界なのでしょうね。このことに関しましては、法話集の第27話(「知足」によせて)をご覧頂きますよう、お願いいたします。

 「身体中に弱い電流が常時走っているような感覚が続いている」とのことですが、その感覚が、ご自身にとって不安なものでなければ、何も問題はないと思います。身心の波長が変わっていくときには、いろいろなことが起こります。これに関しましては、スタニスラフ・グロフ著『スピリチュアル・エマージェンシー』等をお読みになるよう、お薦めいたします。

 これでお尋ねにお応えしたことになるかどうかわかりませんけれど、ひとまずご返信申し上げます。合掌



THANK YOU FOR YOUR RESPONSE....2006年1月24日(火)
 お早うございます(こちらは朝の6時です)。ご多忙のところを丁寧なメールを有難うございました。大喜びです。(…中略…)

 随分、オープンマインドな方なのですね。感服です。以前言いましたように、宗教関係の方は、もちろん全部とは言いませんが驚くほど多くの方々が、「我こそが正しい道を歩む者ぞ」とばかりに、ナローマインドの傾向が顕著になっています。洗脳でもされたのではと疑いたくなります。。。本当はそれに近いのではとよく思いますが。。。これも、恐怖に基づく教えをそのまま丸呑みにしているからなのでしょう。

 人間はいつ頃からこれほど「生きる」ことを恐怖と結びつけるようになったのでしょうか? 動物達を観察していると、あれほど極限の世界に住んでいるのに、恐怖を感じません。当事者ではないので、本当のところはもちろん分かりませんが、動物と言えども、感情は表に出ますよね。。。今日は、このことを泳ぎながら考えてみます。何か気づきがあるかも知れません。

 次に、私の不思議な感覚の説明を有難うございました。いろいろなものが多局面から少しずつ見えるような感じです。木々が生きているのは以前からもちろん知っていましたが、自然のあらゆるものが「生きていた」のだなと実感させられたのは生まれて初めてです。これが単に「エネルギー」の問題ならば、機械も含めてすべてに生をかんじるはずですが、それらには感じられない。さて、また考える(あるいは感じる)対象が出来たようです。。。

 これからも、書かせて頂きたいと思います。ご迷惑でしょうが、これも何かの縁とお付き合いお願いいたします。合掌 M

P.S. 文字に使っている色(紫色)は、私に見える光の色に近いものです。最近はもっと強い紫で、赤みが増えている感じです。この色は太陽の光から(まだ大学に入る前)何年もの間に変わってます。心と密接な関係があると思いますが、何かご存知でしたらお教えください。



シアトルのK様へ
Re: THANK YOU FOR YOUR RESPONSE....2006年1月25日(水)
 こんにちは。メールを拝受いたしました。「光が紫色に見える」とのことですが、それは、紫色のレンズを通して見るような感じなのでしょうか。私自身には、そういう経験がありませんので、何ともお応えできませんが、紫色というのは「第7チャクラ(サハスララ・チャクラ)」を活性化する色だと言われております。7つのチャクラと色の関係は、右のイラストのようになっているそうです(出典は忘れました、悪しからず)。

 ちなみに、道教では「紫」を尊い色と考え、儒教では反対に卑しい色と考えているそうです。山に住む人(仙)と谷に住む人(俗)の違い、あるいは、宗教と倫理の違いでしょうか。何となく分かるような気もします。ひょっとすると、「紫」という色は、不可知・不可思議の世界と親和性があるのかもしれません。何もお役に立ちませんけれど、ご返信申し上げます。合掌



メールを有難うございます。 2006年1月26日(木)
 メールを有難うございます。チャクラと色の関係、興味深く見させていただきました。添付は2つあったのですね。。。最初のものをオープンしましたが、オープンできませんでした。時々こんなことが起きます。いろいろなソフトは入っているのですが、ローテクの私には分かりません。

 さて、ご質問への回答です。まず、それぞれの色がチャクラを活性化すると書かれてますが、その意味がよく分かりません。もし、簡単に説明していただくととても勉強になります。私が見る紫色の光とは、真っ暗闇の中でもはっきり見える光を放ったものです。その時によって、闇空間全体に見えるものもあるし、限られたサイズのものもあります。形も説明しにくいのですが、定まっていません。四方八方に自由な拡がりを見せています。

 この光は幼少の頃から当たり前のように見えていましたが、そのサイズ、色、形などは、大学に入って、社会というものに接触、恋愛などの状況を通り始めると、大きく変わりました。最初のものは、視野いっぱいに拡がるふわっとした円い形で、色はお日様の色である明るい黄色、全体に輝いています。その中心にはドーナッツのような穴が開いていて、鼓動している様子が見えました。

 現在の色になる前に、苦しい時期にはグレーで(輝きなし)したし、その時期を超えるとピンクになりました。そして、過去数年は紫です。ただ、最近のものは濃さが増したうえ、薄っすらと赤がかってきたと感じます。迷いなどがある時はやはりグレーに変わるので、私は心と密接していると確信しています。

 昔の日の光をひどく懐かしく思いますが、あまりに純粋でもろく、周りに影響されるというのなら、いらないとも思うのです。私の友人達に光の話をよくします。彼らの多くが瞑想をしている人達で、精神性に基づいた生き方をしています。私のように、ただ目を閉じると光がすぐ見えるという人達は見付からないのですが、ほとんどの者が瞑想中に第三の目あたりに見え出すと言います。

 一度興味深い経験をしたことがあります。私の親友の一人で70歳になったアメリカ人女性で、もと大学講師で心理分析をしていた人ですが、私に退行催眠をしてくれたことがあります。今から7年ほど前になりますが。。。そのセッションの真っ只中で彼女が私に言いました。「今、紫色の光があなたを包んでいるでしょう。。。」と。後でなぜ分かったのかと聞くと、自分の目にその光が現れてきたからだそうです。説明つきますか?

 私が知りたいのは、この光とはつまりオーラのことではないかと。生き物はすべてがエネルギーを持ち、そのバイブレーションの速度は魂の成長度合いで変わるのではと感じます。私は昔、臨死体験をした者です。光は幼少から見えているので、その経験がもたらした現象ではないと思いますが、魂がより繊細に反応するようにはなったのではと感じます。結論として、現在はまだ正体不明です。いつか解明されるといいのですが。。。

 感想、ご意見なりをいただけると、とても嬉しいです。ご多忙中、本当に有難うございます。私の友人達にもサイトのことを伝えてあります。日本には、私の兄を含め、数人の大切な男性方達がいますが、彼らは、ビジネスでの成功者だからなのか、忙しくて私が好きな精神性の話題には興味がないようです。。。どうしてあれほど、社会的地位を欲しがるのかなとよく考えます。この件はまたにしますね。長くなってしましますものね。。。

 京都によく行っていた時は、お寺のことを知りませんでした。来年、(…中略…)また関西を訪問しようかと、鬼に笑われますが、もう考えています。それを機会にお会いしたいものです。。。それではまた。合掌 M



シアトルのK様へ
Re: メールを有難うございます。 2006年1月26日(木)
 こんにちは。メールを有り難うございます。前便の添付書類は、2つではなく、ひとつです。7つのチャクラに対応する色と音を表したイラストです。ご覧いただいたのは、おそらく、これだと思います。

 さて、お尋ねの件ですが、「色がチャクラを活性化する」というのは、特定の色が特定のチャクラと共鳴しやすいということではないかと思います。以前、こんな実験をテレビで見たことがあります。赤い壁紙の部屋にいると、真っ暗闇で壁紙の色が見えない状態であっても、微妙に心拍数と血圧が上がってくる。また、青い壁紙の部屋にいると、その反対に、微妙に心拍数と血圧が下がってくる。そういう実験でしたが、これと似たような関係が、色とチャクラの間にもあるのかもしれません。(あるいは、さきの実験結果は色とチャクラの関係から起こっていたのかも…。)

 前回お送りしたイラストを見ると、上方に位置するチャクラほど、周波数の高い(波長の短い)音/色が配当されています。なるほどと思えるようでもあり、できすぎているようにも思える配当ですが、シャーリー・マクレーンも、この7つの色を用いた瞑想法を実践していたと聞いています。たしか、対応する色をイメージしながら各チャクラに意識を集中させる、といった方法だったと思いますが、イメージされた色でもチャクラを活性化する力があるということでしょうか。

 「幼少の頃から当たり前のように見えていた」とおっしゃる光は、オーラなのか。残念ながら、私にはオーラがほとんど見えませんので、何とも申し上げられませんが、たしかに、オーラは、身心の状態変化に応じて色や形を変えると言われております。オーラは目を開いて見るものだと思っておりましたが、お考えのように、目を閉じた時に見える光もオーラかもしれませんね。

 目を閉じているときに、眉間のあたりに光が見えるというのは、何度か経験したことがあります。眠りかけている、精神のトワイライトゾーンでのことです。光の色は、紫と青でした。ほんの何秒かの間ですが、レーザーのような透明で輝く光が、小さな光の核のまわりで揺れ動いていました。(ちなみに、この光とは関係なく、トワイライトゾーンから引き返すときには、必ず、ガチンという大きな機械音が聞こえるのですが、あれはいったい何なのでしょうね。)

 臨死体験もおありとの由。私自身は、それほど特異な体験をしたことがありませんので、何もご参考になるような話はできませんけれど、またいつか、お話をお聞かせ頂きたく存じております。合掌




讃阿弥陀佛偈対照 2006年1月28日(土)
 紫雲寺さま 先日は突然、お尋ねのメールお送りしましたのに、ご丁寧な返信を有難うございました。

 さて、讃阿弥陀仏偈にかかわる宗祖著作の対照本(添付書類)を作ってみました。(…中略…)ご利用いただければ幸いです。

 さて、これからはお願いです。讃阿弥陀仏偈本文をどのような基準で宗祖が取捨されているのか、分らないものが多いです。ご承知でしたら教えてください。

 一例を挙げます。讃阿弥陀仏偈では、冒頭に、「西方不可思議尊〜〜」があります。これを和讃も真仏土巻も取り上げておられません。

 では、仏さんは西におられるのじゃないのかといえば、略典の念仏正信偈は、「西方不可思議尊〜〜」から始まるので、そうもいえないことになります。

 取捨の基準みたいなものを厳格に定めておられるはずですが、お考えが見えてきません。もっとも私に見えるはずもないのでしょうが。

 それと、和讃には、讃阿弥陀仏偈の配列をかえておいでになるところもあります。なぜ順序を変える必要があったのかも私の想像を超えています。ご教授願えれば幸いです。 F (添付書類省略)



F様へ
Re: 讃阿弥陀佛偈対照 2006年1月28日(土)
 こんばんは。メールを拝受いたしました。添付書類として、貴重なご労作「讃阿弥陀仏対照本」を御恵投くださり、有り難うございます。プリントアウトいたしますと27枚ございましたが、これを拝見いたしますに、F様は真宗学を専門に学ばれた方のように拝察いたします。

 お尋ねを頂きましたが、残念ながら、私どもには、真宗の教学や文献学についての専門的知識がございませんので、ご専門の先生方にお問い合せ頂きますよう、お願い申し上げます。何もお役に立ちませんで、申し訳ございません。合掌




シアトルのKです。 2006年1月29日(日)
 今晩は? シアトルはまた雨でした。ノアの箱舟が必要になるかも知れないですね。今日も、またまた水の話題になってしまいます。御多分に漏れず、シアトルの今冬も世界中の温暖化の影響をやはり受けたのでしょう、40日間の連日雨で新記録を堂々と打ち立てました。

 太平洋の水温が例年よりも高いために、湿気を多く含む季節風となり山脈にぶつかって雨を降らすというメカニズムです。雨には慣れているはずのシアトルっ子達の顔に苛立ちが見え、毎日の話題は雨のことばかり。確か、イラクではまだ戦争の最中でしたっけね。。。? そんなシアトルに珍しくお日様が顔を出しました。

 なんときれいな緑。淡い水色の背景に軽く掃いたような白く薄い雲が限りなくきれいです。たぶん100%の人達が外に出ていたのではないでしょうか。。。失くして初めて、その価値が分かるなんて悲しい限りですね。今までの雨量が異常に多いと思っていた私達の物差しに、新しく目盛りが増えました。これからもっと増え続けるのでしょうか???

 ジムに行きました。プールのある大きな部屋の大きな窓からさんさんとお日様が入ってます。意識を集中して泳ぎ出すと、また新しい気づきです。水のなめらかな縞模様の波が光に当たりキラキラと輝きながら、私と平行にゆっくり動いていきます。光と影と水が奏でるゆるやかで豊かなシンフォニー。水とワルツを踊るような錯覚の中に時間を忘れていました。水という無機質なものと、肉体という有機質なものが何の隔たりもなく混じり合っています。

 水面には、湯気も立っています。いつもあるはずの湯気が今日初めて見えました。。。今日まで、私はきっとどこかで水を軽視していたのでしょう。だから、その豊かな包容力と、あらゆる形に変化する素晴らしい才能が見えませんでした。。プールの水は、多くの化学薬品と人間が出す汚物を文句も言わず、ただひたすら受け入れています。思い出しました。何年か前の横浜港のすばらしく美しい夕暮時の光景を。。。粉にした真珠に虹を一面に振りかけたような色は、夕日が廃油を反射して出来たものだそうです。それはグァムでの海の色を思い出させます。ただ、実際の横浜港の水は褐色で匂いもあります。

 水はその大きな包容力で、得体の知れない汚物を差別することなく、ひたすら抱きかかえ続けます。いつか、ドロドロになって死を迎えるときまで。人間はそんな水を厄介者(ヘドロ)として、毛嫌いします。本当は私達人間が水に押し付け続けた結果なのにです。それが、水であろうと、空気であろうと、木々であろうと、土であろうと、これでもかこれでもかと痛めつけます。

 私達の喉をうるおし、肺を満たし、飢えを癒してくれる自分達の分身達を一粒の命を持たない金一粒と取り替えてるために。。。すごい勢いで。。。人間は一体何に取り衝かれたのでしょうか? 金の輝きが素晴らしい水の輝きよりも勝っているという価値観は一体どこから来るようになったのでしょう? 私達も自然の一部で、すべてが共同体だと言う簡単明瞭なことがどうして見えなくなったのでしょうか? 一体いつどうして、宇宙をも神をも畏怖しない傲慢さがはびこったのでしょうか? 涙するこの自分は、これらを救うために何をしているのでしょうか?

 気づくと隣のレーンで一人の男性が泳いでいます。アラブ系で60代後半に見えました。平泳ぎをする彼の周りには、波も泡すらも立っていません。水に完全に乗り切っているからでしょう。それに比べ、一生懸命、水に乗ろうと全神経を集中させた私の泳ぎ方には、それ故の硬さがあるのでしょう。前方に少しの波と泡が立っています。彼は私と平行に同じスピードで前に進んでいます。なんと平和な雰囲気をかもし出しているのでしょう。。。きっと、彼の生き様がそっくり出ているのでしょう。

 身体は心をしっかり表します。身体のすべてを包む水が、心の乱れを映すことを知りました。どこかに隠れた心と身体の歪みを映します。一番端のレーンで若い女性がバタバタと音としぶきをあげながら泳いでいます。面白い光景ですね。成長段階にある3つのサンプルが泳いでいるのですから。。。

 水だけではありませんでした。樹木も土も空気も動物達も植物達もすべてが私達の傲慢さを静かに訴えています。声のない叫びは、より一層心に響くのです。ただ、その叫びが聞こえるためには、人間達が心の目と耳を開かなくては届きません。人間は遠い昔、まだ自然の一担い手としての喜びを感じたことでしょう。今でも無くなっていないと信じます。人間は何を根拠に霊長類などと、生物の頂点に自分達を据えたのでしょうか?

 自然のすべてとの繋がりを忘れた時、傲慢さがはびこったのではないでしょうか。要するに無知の為せる業なのでしょう。ちっぽけな自分に何が出来るのだと諦め、居直るのも、そろそろやめた方が良さそうな雰囲気が異常を訴える世界中から伝わります。まずは、感謝と節約から始めてますが、次は何をすれば良いのか、真剣に考える必要があるようです。

 戦前育ちの母親に育てられた私は、節約にかけては秀才です。アメリカ人の無駄使いは、他の世界に類を見ないのではないでしょうか? まるで豊か過ぎる環境で育った我が儘息子、娘のようです。日本に行くたびに、日本人の無駄使いもアメリカ人に追い付け追い越せで大きく進展したのを感じます。一時よりはリサイクルで良くなりつつあるようですが、その異常とも言える社会現象を実体験してみると、過剰な包み紙、ツルツルの広告紙などなど矛盾だらけです。。。



28番 赤ね雲を読んで。。。 2006年2月3日(金)
 お早うございます。お元気のことと思います。日本出発までに、後1週間になりました。準備を少しづつしていますが、2月の日本は何年ぶりでしょうか。昔、私立大学の受験日に丁度、雪に降られたのを思い出します。たっぷり着込むので、荷物になって大変です。

 これも、セントラルヒーティングとやらの副作用でしょう。とは言え、節約秀才の私のことですから、アメリカ人は冷蔵庫と思うそうですが。。。日本から重いのを我慢して持って帰った石油ストーブがとても役に立っています。

 今朝は御法話の28番目を読ませていただきました。はい、そっくり分かります。何が本当に自分には必要だったのかとの気づき(心の平和)に到達、自分なりの勉強に何年も何年もかかっていますから。。。

 先日、この世のものとは言えない神々しい夕焼けを見たばかりです。雨の記録を更新し続けているシアトルですが、ほんの短い間、お日様が顔を出しました(2度目ですね)。あれほどの夕日は初めてです。車の中で、その感動がほとばしり、「すごい!すごい!」を英語でしたが、繰り返してました。湖に映る姿も、息が止まるほど美しいのです。私の心、頭、身体のすべてにしっかりと記憶されてます。ラッキーこの上なしです。。。

 それではまた。お元気で。日本ではインターネットのアクセスが出来ません。10日から3月1日までは、たまに友人のPCを使えるくらいです。出る前にお話はすべて読んで行こうと思います。どんどんまた書いてくださいね。敬意を持って。。。M




始めがわかってないようです 2006年3月2日(木)
 突然のメール失礼お許し下さい。私は以前に師の法話テープを購入させていただいた者です。 浄土真宗には家が門徒のこともあり10年くらい前から興味?をもち仏教学院の入門課程などを受講したり、歎異抄の講座を聞きに行ったりしました。

 かれこれ10年にもなるでしょうか? 師の法話に従って念仏も唱えてみました。でも一向に心はざわついています。最近になって、最も基礎的なことが何も解ってないような気がしています。(10年もかけてこんなことをお尋ねするのもなんだか自分の愚鈍さが悲しい気もしますが・・・)

 48願がまず私には荒唐無稽の物語としてしかとらえられないということです。罪悪深重なる思いを認めたものが、弥陀の救いを認められないとすると、死しかないようにも思えるのです。(私が死を肯定しているというわけではないのです。私はそれほどpureではないのです。)

 煩悩は人間の生命力でもあるような気もしています。そうすればもともと人間の生命の営みと仏の道とは相反する方向のようにも思えるのです。この世の人間のありようも動物である人間の 弱肉強食の食物連鎖のようにも冷めた目でみている時があります。こんな思いを抱く私は仏にすがってもう救われる道はないのでしょうか?

 師の御法話もすべて読んでるわけではなく、重複するような質問でしたら失礼を御許しください。お忙しい折このような質問申し訳ありません。 KK



K様へ
Re: 始めがわかってないようです 2006年3月4日(土)
 こんばんは。お久しぶりでございます。風邪で少々へたっておりましたために、返信を差し上げますのが遅くなり、大変失礼いたしました。お尋ねを頂きましたので、簡略にお応え申し上げます。

 さて、まずは、ご自身のお書きになった以下の文章を、もう一度ご覧になってみてください。

   「48願がまず私には荒唐無稽の物語としてしかとらえられない」
   「罪悪深重なる思いを認めた」
   「弥陀の救いを認められない」
   「私が死を肯定しているというわけではない」

 ここには、「とらえられない」「認めた」「認められない」「肯定しているというわけではない」とありますが、この述語に対する主語はみな、「私」ですね。この「私」というのは、どんな「私」だと思われますか。煩悩に支配された「私」でしょうか、それとも、煩悩に支配されていない「私」でしょうか。

 煩悩というのは、他の誰よりも我が身が可愛いという心の働き、つまりは「エゴ」のことです。エゴは、相対世界のなかで、常に優位を求めて躍起になっています。本来の人間の生命力というのは、はたして、そういうものでしょうか。赤ちゃんの生命力は、煩悩だと思われますか。

 「食物連鎖」というのは、同種生物間でのことではなく、異種生物間で見られることです。その「食物連鎖」に、「弱肉強食」というもっともらしいラベルを貼って、自己正当化を企んでいるもの、それこそが「エゴ」ではないでしょうか。

 煩悩に支配された「私」の心は、一向にざわついています。そして、煩悩に支配された「私」は、救いというものに、ひとつの予定観念を持っていて、一切を下に見るスタンスから、耳に心地良い言葉、社会的なプラス思考、自我を温存する手軽な癒し、優越的なさとりを求めがちです。

 「罪悪深重なる思いを認める」(仏の下に立つ)という言葉と、「弥陀の救いを認められない」(仏の上に立つ)という言葉は、立っているスタンスのうえで矛盾しているように思いますが、如何でしょうか。仏にすがって救われようというのも、エゴのポーズにすぎないのかもしれません。本当は、エゴが仏を利用しようとしているだけかもしれません。私たちは、世間の価値観のなかで、煩悩に支配された「私」に騙されているのではないでしょうか。

 はたして、これでお尋ねにお応えしたことになるのかどうか、いささか心許ない思いもいたしますが、お暇なおりにでも、HPの法話集等をお読み頂いて、ご熟考、ご賢察頂ければ、有り難く存じます。合掌



(無題) 2006年3月10日(金)
 早速のお返事ありがとうございました。ご気分のすぐれない折に、ご法話のどこを聞いたのかと思われるような不躾なお尋ねをして申し訳なく思っております。又お礼が遅くなりました失礼をお許しください。どのように書いていいのか書きあぐねておりました。自分の思い上がりが恥ずかしく・・・などと書くのも、もっともらしい気がしますし・・

 あらためてご指摘いただいた矛盾を思っております。おそらくすべてを理解できてるとは思いませんが。師の語法話を最初から読み直し始めました。又愚問をお送りするようなことがあるかもしれませんが、よろしくお願いいたします。寒暖の差の激しい季節です。ご自愛くださいますよう。 KK




質問です 2006年3月18日(土)
 紫雲寺 伴戸昇空様 ご無沙汰いたしております。昇空様におかれましては、ますますご活躍のことと推察申し上げます。昨年の11月の報恩講にはお伺いできませんでしたが、家内は法話テープを毎日車の中で聞かせていただいておりますし、私は、現在受講している仏教の通信教育の「おつとめ」(正信偈草譜、行譜)のCDを聞く毎日でございます。

 昇空様の法話はどれをとりましても、秀逸のお話ばかりですが、法話集32話「報恩」は特にすばらしい内容で、「仏様から見れば、人間はみな悪人なのですよ。」というくだりは私には、ストンと腑に落ちる気がいたしました。来る21日には、夫婦ともども、春の彼岸会に出席したいと考えております。昇空様と、またお目にかかれる日を心待ちにしています。

 それから、はなはだ唐突ではありますが、今回どうしても教えていただきたいことがございまして、メールを送らせていただきました。どうぞ、身勝手な質問をご容赦いただきますとともに、ご理解を賜りますれば幸いです。

<質問> 蓮如上人の御一代記聞書(本巻)の(七十二)に、「蓮如上人の仰せられ候ふ。堺の日向屋は三十万貫を持ちたれども、死にたるが仏には成り候ふまじ。大和の了妙は帷一つをも着かね候へども、このたび仏に成るべきよと、仰せられ候ふよしに候ふ。」とあります。(浄土真宗聖典本願寺編 註釈版 第二版)

 一般には、仏教では「死ねば、みな仏になる。」と考えられており、歎異抄にも「・・・念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。」(第一章)と書かれております。わたしも、少なくとも念仏するものは皆、往生するものと考えておりましたし、昇空様も法話の中で、「死んだら、みな光の世界に行く」と話されていたと記憶しています。

 蓮如上人のお言葉が、「堺の日向屋は、単に念仏をしなかったので仏になれなかった。」と 言われているとは思えませんし、何か深い示唆がある気がしてなりません。「死んだら仏になる人」と「死んでも仏になれない人」がいる、という意味にもとれますがどのようにいただけば、よろしいのでしょうか?

 彼岸会を控えた、お忙しい時期に大変恐縮でございますが、いまの私の一番の問題です。決して急いでいるわけではございませんので、どうぞよろしくお願い申し上げます。合掌 H.18.3.17.深夜 TS



大分のS様へ
Re: 質問です 2006年3月24日(金)
 先日は、ご夫婦お揃いで、遠路お運びくださり、有り難うございました。お陰さまで、本年も春の彼岸会を勤めさせて頂きました。ようやく一段落いたしましたので、頂いておりますお尋ねに、私の信じるところに従いまして、簡略にお応え申し上げます。

 「蓮如上人仰せられ候。堺の日向屋は三十万貫を持たれども、死にたるが仏にはなり候まじ。大和の了妙は帷子一つをもきかね候へども、この度仏になるべきよと仰せられ候由に候ふ」と、たしかに『蓮如上人御一代記聞書』には記されております。

 「大和の了妙」というのは、奈良橿原八木のあたりに住んでいた貧しい女人で、蓮如上人が大和をご巡教のおり、水を所望なさったことが、念仏の教えに出逢うご縁になったと聞いております。「堺の日向屋」というのは、日明貿易で巨万の財をなした堺の豪商、日向屋修理のことのようですが、どうやら、念仏の教えにはご縁がなかった人のようです。

 先日の彼岸会でもお話いたしましたが、私たちのなかには、誰でも例外なく、「仏性」と「煩悩」があります。「仏性」と「煩悩」というのは、いわゆる「善」と「悪」のことではなくて、私たちの「いのち」にある、「絶対性」と「相対性」のことです。

 私たちは、煩悩に支配されて、「相対的なもの」を絶対だと握りしめて、悩み苦しんでいるのです。ですが、念仏の教えに出逢うと、私たちの「いのち」にある本当の「絶対的なもの」を知るようになる。そして、その「絶対的なもの」への気づきが深まっていくと、おのずと、「相対的なもの」は相対的なものとして、明らめることができるようになってくる。

 私たちのなかにある「絶対的なもの」。それは生まれることも死ぬこともない「永遠のいのち」です。私たちは、本当は、この「永遠のいのち」を生きているのです。「永遠のいのち」は、永遠の世界へと帰っていく。仏の世界へと帰っていくのです。

 その「いのちの真実」を伝えるために、阿弥陀仏は大慈悲心をもって、念仏の教えを説かれたのです。「弥陀の大慈悲」の「大」とは、大小を比較しての大ではなくて、「絶対」という意味です。「絶対」というのは、「私」の判断を超えた世界です。誰がお浄土に帰れるとか帰れないとかいったことは、人が云々することではないのです。それこそ、「人間のすることでないのや、仏さまのことや」(高光一也)です。

 蓮如上人が、「堺の日向屋は、死んでも仏にはなるまい」とおっしゃったのには、何か布教上の理由があってのことと思います。日向屋もまた、お浄土に帰っていったのだと、私は、信じております。日向屋と私たちと、どれほどの違いがあるでしょうか。日向屋にお浄土に帰ってもらわないと、私たちも困ると思いますが、いかがですか。

 現在、地球には60億からの人が生きているといわれています。死後の事だけをいえば、念仏の教えに出逢っても出逢わなくとも、私たちが「お浄土」と呼んでいる「永遠のいのち」の世界へと、みんな帰っていくのだと思います。問題は、死後のことではなく、今生のことなのです。

 念仏の教えに出逢うというのは、今生を生きるためにこそ大切なのです。念仏の教えに出逢い、私たちのなかにある「仏のいのち」への気づきが深まっていくと、安らかに「仏のいのち」を生きていけるようになります。

 これはよくいわれるたとえですが、地方の人が東京の大学を受験したとします。同じ合格している場合でも、合格の電報を前もって受け取ってから見に行くのと、合否の不安を抱いたまま見に行くのとでは、東京までの旅の質が違いますでしょう。私たちの人生も、それと同じことです。念仏の教えは、いたずらに死後のことを思い煩うことなく、今生を確かに生きていくための教えなのです。

 親鸞聖人は、御往生の直前に、こう述べられたといわれております。「一人居て喜ばば二人と思うべし。二人居て喜ばば三人と思ふべし。その一人は親鸞なり」(『御臨末の御書』)と。念仏を喜び称える者に、孤独はありません。これでお応えになるかどうか分かりませんけれど、ひとまずご返信申し上げます。合掌



ありがとうございました。 2006年3月25日(土)
 紫雲寺 伴戸昇空様 丁寧な返信メールをありがとうございました。誠実なお答えに感謝いたしております。彼岸会のおりには、お忙しい中をいろいろとお話いただき本当に楽しい1日でございました。

 ただ、「昇空様が忙しいときに、長いこと話して。」と後から、妻に苦言を呈されましたけど。貴重なひと時でした。今後とも、ご指導をお願い申し上げます。取り急ぎ、お礼を申し上げます。合掌 TS

PS いただきました蓮如上人の「聞書」に関する返信メールをプリントして、今日病院で二人の患者さんに、お渡ししました。とても喜んでおられました。 MS




「生老病死」で考えたこと。 2006年4月10日(月)
 始めまして、Tと申します。「生老病死」の意味を調べていたら、あなた様の法話に辿り着きました。私は「生老病死」の「生」は、「生きる苦しみ」だと思っておりましたが、辞書で調べたら「生まれる苦しみ」とあったので、その意味がわからなかったのですが、法話集・第18話の説明でわかりました。それと「全てが、死ぬ苦しみに集約される」という説明もとてもわかりやすかったです。

 ただ、個人的には、私は、生老病死の「生」は、「生まれる苦しみ」ではなくて「生きる苦しみ」だと感じられます。言い換えると、「生きなければならない苦しみ」、「死ねない苦しみ」です。

 私は死ぬこと自体はそんなに恐くはありません。動物たちのように、親兄弟の情もなく、どこかの原野で怪我や病気や寿命で、誰にもほったらかしにされて死ねたらどんなに幸せだろうと思います。だけど、動物と違って人間社会は、死ぬことすらもほったらかしにしてもらえません。

 例えば、仕事などは自分に合っていないと感じれば、会社を辞めたり、他の職種を探したりできますが、人生は、いくら自分に合っていないと感じても、簡単にやめる(=自殺する)わけにはいきません。なぜかと言うと、社会的に自殺はいけないことだという見えない制約があり、誰もがそれに縛られているので、もし自殺などしたら責められるし、大げさに取り上げられたり、その人の縛られている価値観で否定されたりするからです。

 動物と違って人間社会は、病気になっても簡単には死なせてくれないし、死んだとしても親兄弟に悲しまれたり、煩わしい葬式などの儀式や慣習、法的な手続きなどがついてまわります。末期癌にでもなったら苦しまずに早く死なせて欲しい(あるいは死なせてあげたい)ものですが、そのように言う人間はまるで犯罪者か卑怯者のように悪口を言われてしまいます。どんなに苦しくても、その苦しみや痛みに耐えて生き続ける努力をしなければ、人間社会は許してくれないようです。

 私は、死ぬこと自体はそれ程恐くないのですが、死ぬことにまつわるそういったことのために死ねない‥‥それで私にとっては、「生きなければならない苦しみ」なんです。

 小学生や中学生は、イジメにあって嫌だからと言っても、大人たちが会社を辞めて他の職業を探すように、勝手に自分で転校先を探してきて転校するわけにはいきません。大人たちの価値観による様々な制約もあり、子供はそこから逃げ出すことはできず、たとえイジメにあってつらい日々を過ごしても、耐えるしかないと考える子どもたちがたくさんいます。

 私にとってこの人間界は、まるで義務教育の中でイジメられている子どもたちのような、逃げ場のない息苦しさを感じる時があります。暗い話をしてしまって申し訳ございません。このような話をしたからと言って、別に今すぐ死にたい気持ちで生きているわけではありません。ただ、人間の価値観が、もう少し「死」に対して友好的であればいいのになあと感じているということです。死を選択する人に対しては、それを祝福して送り出してあげるような大らかな気持ちを持った人間社会になれば、「生」もより輝きを増すような気がするのです。釋昇空様は、今までに、そのように感じたことはなかったですか?

 ところで、「釋昇空」というお名前は何とお読みすればいいのでしょうか? よろしければ、その意味も教えていただけないでしょうか? 仏教的な礼儀作法も言葉も無知な者なので、気づかずに失礼な言葉遣いをしてしまっているかもしれませんが、その点はお見逃しください。時間をかけて、他のご法話も読ませていただこうと思っています。ありがとうございました。MT



T様へ
Re: 「生老病死」で考えたこと。 2006年4月13日(木)
 メールを拝受いたしました。紫雲寺のホームページにお立ち寄りくださり、有り難うございます。貴方様のお考えをお聞きいたしまして、いささか昔のことを思い出しておりました。お返事を差し上げるのが遅くなり、大変失礼いたしました。

 私も、高校時代に悩み苦しむことがありまして、真剣に自殺を考えたことがありますが、自分が死ぬことで他人がどう思うかというようなことは考える余裕もありませんでした。そのことに関しましては、紫雲寺HPの「心の青年への手紙」の第18通「自殺と安楽死について」をご覧くださいませ。また、あわせて、「釋昇空法話集」と「釋昇空法話集・坊外編」もご覧くださると、何かお役に立つことがあるかもしれません。

 ところで、お尋ねを頂いた件ですが、「釋昇空」は「しゃく・しょうくう」と読みます。これは、私の仏教徒としての名前「法名」(ほうみょう)です。「法名」というのは、仏教徒(私の場合ですと真宗門徒)になるための儀式を受けて頂く名前でして、俗名(ぞくみょう/戸籍上の名前)とは異なっているのが一般的です。「釋」というのは、「お釈迦様(釋尊)の教えに帰依する者」という意味です。

 「昇空」というのは、もともとは父の法名でした。とりわけ仏教的な意味がある言葉とも思えませんが、父は「空」と「海」が好きだったとのことで、自分の俗名「昇」の下に「空」という一字を付けて、自分の法名にしていたそうです。ところが、長男である私が生まれたときに、何を思ったか、その法名を、私の名前にしてしまったのです。おそらく、適当な名前が思いつかなかったからではないかと思いますが、そのおかげで、私は「俗名」も「法名」も、「昇空」です。

 この名前のせいで、小さい頃は、結構苦労いたしました。いささか地に足の着かない名前のようで、いまだに多少の違和感がありますけれど、まあ、これはこれでいいか、というところです。お応えというような内容でもございませんが、これでひとますご返信申し上げます。今後ともよろしくお願い申し上げます。合掌




初めておたよりさせていただきます 2006年10月28日(土)
 インターネットで仏教関係の検索をしておりまして、ご院様のページを読まさせていただき、非常に感銘を受けました。少しでも他力の境地に近づければと(これも自力?)毎日少しづつお念仏を唱えておりますが、現実に戻りますと、妻子を生活させていかねばならねと、あれやこれや売上げを上げる算段に明け暮れる毎日でございます。

 生活を維持していくための基本的な努力もやはり「自力」ということになるのでしょうか? 何もせずただお念仏を唱え他力に任せるということはなかなかできないのが現状です。お念仏で気持ちが救われるということは感じられますが、やはり実生活を維持していかねばならないという現実的な煩悩から抜け出すことは容易でないと感じております。

 ちなみに、私も今の資本主義のありように疑問を持っておりますが、現実にこの枠組みに取り込まれて生活していかざるを得ません。何か子供のような質問で恐縮ですが、よろしければご院様のご意見をおうかがいしたいと思っております。よろしくお願いいたします。 KN



東京のKN様へ
Re: 初めておたよりさせていただきます 2006年10月29日(日)
 はじめまして。メールを拝受いたしました。紫雲寺のホームページにご関心をお寄せくださり、有り難うございます。お尋ねを頂きましたので、簡略にお応え申し上げます。

 まず、私たちは出家の修行者ではなく、在家の生活者です。ですから、「生活を維持していくための基本的な努力」は、当然必要かと存じます。それが「自力」か「他力」かということは、あまり問題ではなくて、そういう生活のなかでしか生きられない私たちが、「お念仏でも称えてみようか」と思うところが大切かと存じます。

 「お念仏でも称えてみようか」というのは、あまりに不謹慎な言葉に聞こえるかもしれませんが、そういう思いが生まれてくるというのは、自分の在り方に疑問を感じるようになったということでしょう。目が内に向き、自分自身が問題になるところからしか、気づきはうまれてきません。

 目が外を向いているあいだは、社会の問題点ばかり気になりますが、社会というのは、もともと煩悩一杯の私たちが集まって形成しているものですから、問題のない社会などありえません。いつの時代でも、そうです。私たちは、資本主義社会のなかに生まれてきましたが、生まれてきた世界というのは、私たちが自分自身に気づいていくために与えられた修行の場です。

 いつもお話することですが、煩悩はなくなりません。それを中途半端に納得すると、開き直ってしまいますが、とことん納得できたときには、自分が変わります。そのあたりのことは、法話集の第33話「どんぐりの教えてくれること」でもう少し詳しく触れておりますので、そちらをご覧になってみてください。また、「自力」と「他力」の問題は、法話集の第10話「自力と他力」でお話しておりますので、あわせてご覧頂けたらと存じます。これでお尋ねにお応えしたことになるかどうか分かりませんけれど、ひとまずご返信申し上げます。合掌



Re: Re: 初めておたよりさせていただきます 2006年10月29日(日)
 ご院様 さっそくのご返信ありがとうございます。ふと考えてみますと、こうして仏教に関心を寄せていますのは、結局は、実生活の苦しみから何とか抜け出す方策はないか?という「神だのみ」なんだなあと思ってしまいます。法話でも拝見しましたが、お念仏を唱えても現世のご利益があるわけではないということはもっともなことだと思います。

 今は、実生活から、お念仏に帰っていく、そしてやれやれまた実生活にもどっていく、というような感覚でしかありません。煩悩はなくならないという根本的な自覚の上で、さてその煩悩をどう扱うか? とりあえず食べていけることでよしとするか? でも一衣三ぱつという訳にもいかないからちょっとした服も買わねばならぬ、車ももう少し大きい方が便利だ、そのためには売上げを上げねば・・などとむくむくと煩悩が膨らんでしまいます。

 そもそもどこでよしとするなどといったことを考えること自体意味のないことなのでしょうか? 煩悩はふくらんでいっても、それはそれとして、お念仏を唱えることによって心が安らかになっていけばいいのでしょうか? お念仏はお念仏、実生活は実生活、というふうに別けて考えざるをえないように思ってきて? KN



東京のKN様へ
Re: Re: 初めておたよりさせていただきます 2006年10月29日(日)
 ご返信、有り難うございます。昔から、「煩悩の犬、追えども去らず」と言われておりますが、煩悩を追い払って楽になろうとしているのも、また、煩悩なのです。「私」とは別に「私の煩悩」があるわけではありません。「煩悩」=「私」なのです。ですから、右手で右手をたたけないように、その「私」が「煩悩をどう扱うか」というスタンスはとりえないのではないかと思います。

 まあ、それはともかく、まずは、「お念仏はお念仏、実生活は実生活」ということで、よろしいのではないでしょうか。法然上人は、「お念仏が称えられるように生活すればよい」と、つねづねおおせだったそうですが、お念仏を称える生活のなかで、そのうち、ふと、お念仏が口からこぼれてくるようになるかもしれません。そのときには、また、お考えも変わっているかもしれません。

 法然上人のおおせにもありますように、「お念仏はただ称えるだけ」です。何らかの期待を持って、努力(自力)でしがみつくものではありません。お念仏は、ただほれぼれと称えるだけです。お念仏を称えるところに、煩悩は消えてなくならなくとも、煩悩に悩み苦しむ我が身が見えてくる。お粗末な我が身が本当に見えたら、自ずと変化が起こります。

 「分かる」ということは「変わる」ということです。前便でもお話いたしましたが、このあたりのことは、法話集の第33話等をご覧頂けたらと思います。あるいは、お応えになっていないかもしれませんが、取り急ぎご返信申し上げます。合掌



Re: Re: 初めておたよりさせていただきます 2006年10月30日(月)
 ご院様 再三のご返信ありがとうございます。煩悩が、あるがままでなおお念仏を称え、どう自分が変わるか、それを見ていきたいと思います。こんなに早いご返信をいただいてびっくりしております。こういった内容を話せる相手がいませんのでまことにありがたいことです。今後またおたよりさせていただくと思いますので何卒よろしくお願いいたします。 KN




CDを拝受いたしました。 2006年12月8日(金)
 紫雲寺 伴戸昇空様 いつも、ご指導をありがとうございます。今夕、「還る浄土」法話CDを拝受し、さっそく聞かせていただきました。田中ミツ(?)さんの「かけがえのない、大したことない私」という本のタイトルを聞いて、私もふっと笑ってしまいました。

 昇空様の最近の法話は特に、どれも「何のてらいもなく」淡々としていて心にしみてまいります。「自力」「他力」のところなど、円熟した心境を感じてしまいます。(わが身も知らぬ「物言い」をお許しください。)

 昨夜は、たまたま佐賀県の嬉野というところに家内と行っておりまして夜のNHKテレビで、「プロフェッショナル」というドキュメンタリー番組を見ておりましたら、無農薬、無肥料でりんごを作っている(8年かかったそうですが)青森県の木村秋則さんという方が紹介され、ご本人も出演されておられました。

 昇空様のことですから、ご存知かもしれませんが、この方が番組の最後にアナウンサーの質問に対し、「心と技術の両方を併せ持った人がプロフェッショナルではないかと思います。」と答えておられました。今回の法話を聞いて、「昇空様もこの境地にいらっしゃる方だな」との感を強くいたしました。(…中略…)

 年の瀬のあわただしい毎日でございますが、聞法、念仏を忘れることのない悔いのない日々を送ってまいりたいと存じます。お体をくれぐれもご自愛ください。合掌 TS



大分のTS様へ
Re: CDを拝受いたしました。 2006年12月9日(土)
 こんばんは。メールを拝受いたしました。拙い話に過分のお言葉を賜り、勿体なく、恐縮に存じます。哀しくなるほどお粗末な人間であることは、私自身が一番よく知っておりますので、メールを拝読し、なんともお恥ずかしく、頬のほてる思いがいたしております。

 ただ……、どんなに拙い話であっても、時々に思い感じることをお話させて頂く。それが、仏法にご縁を頂いて一寺をあずかる、私の務めかとも存じます。今後とも、よろしくご教導賜りますよう、お願い申し上げます。(…中略…)向寒の候、ご自愛を念じ上げます。合掌




有難うございます。 2006年12月16日(土)
 今日初めて拝見させていただきました。どこを見ても心が洗われるようで、やはり良いものですね。これからも楽しませていただきたいと思っています。とりあえずお礼を一言申し上げたくメッセージを書かせていただきました。 ST



ST様へ
Re: 有難うございます。 2006年12月20日(水)
 メールを拝受いたしました。紫雲寺のホームページにご関心をお寄せくださり、有り難うございます。拙い話に過分なお言葉を賜り、恐縮に存じます。返信が遅くなり、大変失礼いたしました。今後ともよろしくお願い申し上げます。合掌






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