昇空様の驚異的な活動の広さ、深さには文句なしに敬意を表します。NETを活用して、全国に発信し、おびただしい人々に感動を送り続けるというのは大変な作業だと思います。くれぐれもご自愛くださり、更なるご活躍をしていただくよう心よりねがっております。 私は、滋賀県大津市のTMです。この3月に68歳になります。6年前に仕事をやめて、妻と二人でつつましい年金生活に入っています。この2,3年、会社時代に関わった方や、小学校以来親しくしてきた友人の死亡が増えてきました。必然的に、自分の死について考える機会が増えました。仲間の集まりでの話題に、老後生活、健康問題、災害対策などと並んで“死に支度”が取り上げられても格別不自然さを感じません。
実家は、真宗大谷派のお寺の檀家なので、子供の頃から、自分も門徒だと意識してきました。しかし、不真面目な門徒でして、法事や法要以外の場で経本を開いたことはありませんし、日常的に念仏を称えた経験もありません。ただ、釈迦や親鸞の説かれる世界をもっと正しく理解したいという願望を持ち続けてまいりました。紫雲寺さんのHPに出会って以来、スポンジが水を吸収するように昇空様の法話集を興味深く拝読しております。(…中略…)いつの日か、昇空様の法話を直に聞かせていただくのを楽しみにして、暫く勉強させていただきます。有難うございました。
たくさんの法話をまだ全部は読みきれていませんが、これは今まで出会った仏教関連のサイトの中でも出色のもので、私にとって最も腑に落ちることを説いているサイトだと感じました。 仏教について近ごろは、「輪廻や往生はすべて現世に生きる人間の心の境地について言ったものだ」とか、「仏教は霊魂を説いていないから、死ねば終わりである」とか、妙に合理主義的で虚無的な解釈にお目にかかりますが、それで「安心」を得よとは、知識人の遊戯にすぎないように思えてなりませんでした。江戸時代に悪用されたカースト肯定思想としての業報輪廻説に対して、解毒剤としてそういうことを言いたい気持ちは、わからないでもありませんが。 唯識思想については、「無我説と輪廻説というあい矛盾するニ説のあいだの辻褄あわせのために構成された煩瑣哲学だ」というようなを見解を読んだことがありましたが、これも納得がいかず、もっと深い意味が必ずあるはずだと思っていました。人々が「これが私だ」と思って握り締めている自我というものの虚妄さを明らかにしながら、それを超えたところに開けてくる永遠の命というものを何かしら説いているものにちがいないと、薄々感じていました。 その一方で、最近の臨死体験研究の発展(体外離脱体験やトンネル体験やお花畑体験にとどまらない、時間も空間も自己も他者もない光の世界との合一体験)についても、ある程度情報を得ていましたので、仏教も、それらの報告と整合的に理解されるべきだと感じていました。 こうした問題意識を持って拝読し始めると、昇空さまの法話はまさに目からウロコが落ちるように的確に答えてくださっており、「なるほど、これなら、無我ー唯識―浄土―輪廻、すべてつながって腑に落ちた」という気持ちになりました。 私は20年あまり前に奈良の東大寺でいちおう得度を授かっておりますが、特に華厳宗について深く知っているわけではありません。ただ、東大寺は「八宗兼学」で、通仏教的立場を旨とするとうかがって、私がご縁をいただくにふさわしいお寺と思い、得度を授けていただきました。 以来、浄土の教えにも折に触れて接してはおりましたが、浄土門は本来の仏教からはちょっとはずれた方便門といった偏見をぬぐえずにおりました。しかし、このたび触れたものが浄土真宗の真髄であるなら、浄土真宗もまた信じうる、東大寺で得度を授かったことと何ら矛盾しないという気持ちがいたします。
「お念仏は、必ずしも南無阿弥陀仏の六字でなくてもよい、ナム、ナム、でかまわない」というのもうれしいところです。「浄土は私がこの世へ出されてきたもとの世界であり、帰る場所」ということを、少しでも身をもって実感したいです。今後とも示唆に富むよきご法話を期待いたします。SM(…後略…)
御案内頂きました貴HPを一部拝見いたしました。私も小さい頃から球技が大の苦手で、休み時間の過ごし方に苦慮した経験がございます。まあ、球技だけでなく、学校そのものが苦手でしたから……。 昨夜、御著書『*****』を、Amazon に注文いたしました。手元に届きましたら、ゆっくり拝読させて頂きます。今後ともよろしくご指導・ご厚誼を賜りますよう、お願い申し上げます。合掌
さて、貴院サイトの内容につき、お尋ね申し上げたくお願い申し上げます。
仏教夜話17(仏弟子群像4)のなか、目連尊者に関するご記述に「不浄の比丘」とありますが、この語について具体的にお教えいただけないでしょうか。F
当該の話は、山辺習学著『仏弟子伝』(1984年、法蔵館、p.120)からの要旨引用ですが、そこに典拠として、中阿含(大正26,9,29)、四分律(大正1428,36)、十誦律(大正1435,33)が挙げられております。赤沼智善編『印度仏教固有名詞辞典』(1967年、法蔵館、p.376b)によると、AN(VIII,20)等々にも同様の話が出ているようです。 お尋ねの「不浄の比丘」ですが、これはおそらく、「よからぬ意図をもっている比丘」というほどの意味かと思います。菅沼晃著『ブッダとその弟子89の物語』(1990年、法蔵館、p.129)に、「ブッダの説法の会場に、他の宗教の者たちが入りこんで嫌がらせをしようとすると、モッガラーナはいち早く神通力で見つけ出してその場から退場させ……」とありますが、そういう比丘のことだろうと思います。 これでご納得頂けるかどうか分かりませんけれど、(…中略…)勝手ながら、これにてご返信申し上げます。合掌
まず、お墓にトゲのある花をお供えしてはいけないのかというお尋ねですが、思いますに、生前、タバコの好きだった方にタバコをお供えする、お酒の好きだった方にお酒をお供えする、バラの花が好きだった方にバラの花をお供えするというようなことは、残された近しい人々にとって、ごくごく自然な人情かと存じますので、一概にバラの花が不都合だとは思いません。 ただ、伝統的には、仏花としてトゲのある花は用いませんでした。これは、お仏壇であれ、お墓であれ、お花はどちらを向けて生けられているかということと関係がございます。たとえば、お仏壇のお花はどちらを向いているかと申しますと、仏様には裏側が向いていて、表側はお参りなさる方のほうに向いていますね。お気づきでしたでしょうか。 仏花は、仏様ではなく、私たちが見るためのものなのです。お仏壇は、仏様の世界(お浄土)を表現したものです。ですから、仏花は、仏様にお供えするものではなくて、お仏壇(お浄土)を荘厳する(お飾りする)ためのものなのです。私たちは、お仏壇を通じて、美しい花(仏花)が咲き、清浄な香り(お香)のただよう、光(燈明)に満ちた、お浄土を見せて頂く。それが、お仏壇の前に坐るということですが、お浄土には、人を傷つけるもの(たとえば、トゲのあるもの)は何もない。だから、お浄土を表すお仏壇のなかには、トゲのある花はお飾りしない。それが、伝統的な考え方でございます。 お墓にお供えする(お墓を荘厳する)お花も、これに準じて、トゲのある花は用いませんでした。バラだけでなく、本来は、習慣上、和花だけでお飾りし、洋花は用いませんでしたが、これは現代ではなかなか難しいことかと存じます。ただ、なんであれ伝統的な形には、その「形」を生み出した「心」というものがございます。形にこだわることはないとしても、その「形」を生み出した「心」は大切にしたいと存じます。ご賢察賜りますよう念じ上げます。
これでお応えしたことになるかどうか、いささか心もとない思いもいたしますが、これにてご返信申し上げます。お尋ねを頂き、有り難うございました。合掌
一つ目:私は次男坊で外に出ています。「得度する」の項目を検索しますと(許可は菩提寺の)という言葉が多く出てきます。実家の寺、妻の実家の寺、又はそれ以外、が考えられますがどこに決めるのが良いのでしょうか? 何れも大谷派なのです。
二つ目:三部経のうちの小経の仏説阿弥陀経の意味を勉強しています。それと平行して朝晩一回以上読んでいます。毎日のことですが正信偈とどちらがベターなのでしょうか。両方だと時間の都合で少々無理が有ります。以上宜しくお願いします。
(1)得度の請け寺を何処にするかというお尋ねについて: ですが、実際的な問題として、各寺院は、所属する僧侶に関して、本山から、上納金を初め種々の義務や責任を負わされることになりますので、当然ですが、請け寺になるかどうかの判断には慎重になります。ですから、よほど懇意なお寺で、門徒としての信頼を得ていないと、まず、請け寺にはなってもらえないのではないかと思われます。(…中略…)
(2)何を読誦し、何を勉強するべきかというお尋ねについて:
得度希望者のために、毎年、各地の教務所などで講習会が開催されています。どこかのお寺に請け寺になってもらえたら、そういった講習会にも参加なさっておかれるようおすすめいたします。お役に立つかどうかわかりませんけれど、これにてご返信申し上げます。合掌
お尋ねの要点は、「輪廻思想から社会の現状をどう解釈するのか」ということかと拝察いたしますが、仏法は、客観的なスタンスから社会問題を解明するための教えではありません。むしろ、仏法は、「私」の実存的な問題に光をあてる教えです。つまり、「いのち」に対する極めて主観的な問題が、仏法のテーマです。 そこでお考え頂きたいのですが、貴方の疑問は、貴方ご自身についての疑問なのでしょうか。貴方は、「北朝鮮に生まれて苦しめられている人」でしょうか。「犯罪に巻き込まれて亡くなった人」でしょうか。「子どもを殺された親」でしょうか。「殺人を犯した人」でしょうか。仏教は、社会を解釈する教えではなく、自分自身を見つめる教えです。仏教は、自分の内側を照らす光なのです。 世界から戦争や犯罪の無くなる日は来ないでしょうし、この世は思い通りにはならない理不尽なものなのです。ですが、戦争も犯罪も、さまざまな理不尽なことも、よくよく考えてみれば、「私」のこころの闇から生まれているのです。仏法は、社会の問題を解決するマニュアルではなくて、この「私」のこころの闇を照らす光です。輪廻思想も、この理不尽な社会を説明するものではなくて、それが「私」を照らす光となったときに、初めて意味があるのだと思います。 あるいはご納得頂けないかもしれませんが、これにてご返信申し上げます。お暇なおりにでも、「法話集」(第5話「業と輪廻転生」、第6話「修羅を離れる」)、「お便りのコーナー」(2005年の最初の応答)、等々をお読み頂き、ご賢察頂きますようお願いいたします。合掌
根本仏典を勉強していますが、本当にたいへんです。まず、釈尊のお言葉を知りたいと思っているのですが、明らかにちがうと思われるものが多く入り込んでいると思い、困ってしまいます。 それだけに、これは釈尊のお言葉だろうと思われるものを見つけた時には感動します。テーリーガーター、テーラーガーター、スッタニパータ、ダンマパダや、サンユッタニカーヤ、又、中部経典、長部経典、などの中にそれらを拾い出しています。
瞑想法なども、大変勉強になります。原始仏教学者の諸先生の解説書などには無かった事を、「仏弟子の群像」から教えていただきました。ありがとうございました。 RO
毎日原始仏典を読んで自分なりに修行を楽しんでいます。瞑想も、初禅、ニ禅、まで進み、三禅へ向かっています。私が学んできた気功も、仏門気功と言いまして中国のお坊さん達が布教と共に伝えてきたもので、瞑想の役にたちました。 紫雲寺様のホームページからは仏典についての疑問が氷解する教えをいただいて、感謝しております。又、ホームページからお教えをいただける事を楽しみにしています。よろしくお願いいたします。ありがとうございました。 O
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