お便り&お返事 (2008年)

更新:2008年12月9日



"その日”をこえて ー人として生き 人として逝く 2008年1月30日(水)
 はじめてお便りさせていただきます。西宮に住んでおります Aと申します。明日のことは 分かりませんが もし無事に迎えられましたら まもなく55歳になります。

 一昨年の9月 命と向き合う大きな手術をして その後の定期健診で一喜一憂しながら過ごす日々を精神的にも肉体的にも つらいと感じたとき法話を検索していて ご縁をいただいたのが 紫雲寺さまでした。

 私が求めていたものと ご院主様の説かれる内容とが ぴったり合ったのでしょうか。どの法話も本当に自然に 心にすうっーと しみこんでいき 特に表題の ”その日をこえて”を読んで 今まで握り締めていたものを 少し手放すことが 出来たような気が致します。自分の力の及ばない”いのち”というものを 自分で なんとかしようと考える傲慢さと 受け入れたくない現実から逃げようとすればするほど 余計に怖くなるんだということに 気づきました。

 ご院主様が いわれるように いのちは いのちにおまかせ 何が起こっても それは自分にとって必要なことが起こっていると 受け止めて一日一日心安らかに そして 長さではなく 密度の濃い時間を 過ごせたらと 今は思っております。とは いっても体調に波があるように たまに心も波立つことがありますが・・・。

 紫雲寺様は、近いので ご迷惑かもしれませんが 一度お参りさせていただたき ご院主様とお話させていただけたら嬉しいです。 現在 私も勤めておりますので 行かせていただくのは 土、日になると思いますが やはり 土、日は法事やその他でお忙しいでしょうか?

 事前にメールで この日はいらっしゃいますか?と お伺いして お参りさせていただこうと思っておりますので もしご都合がよろしければ その節は どうぞ よろしくお願い致します。京都の冬は寒さが厳しいことと思います。特に今年は。 どうか お体ご自愛くださいませ。A



西宮のA様へ
Re: "その日”をこえて ー人として生き 人として逝く 2008年2月6日(水)
 はじめまして。紫雲寺のホームページにご関心をお寄せくださり、有り難うございます。このところ、いささか体調不良のため、ご返信が遅くなり、大変失礼いたしました。

 紫雲寺にお立ち寄りくださるとの由、心よりお待ち申し上げております。ご推測のように、土日は法務で他出しがちでございますが、時間帯によってはお目にかかれるかもしれませんので、前もってお問い合せ頂ければ、有りがたく存じます。

 また、拙寺では、3月20日(春分の日、彼岸中日)の午後2時から「春の彼岸会」をお勤めさせて頂きます。そのおりにお参りくださいましたら、必ずお目にかかれるかと存じます。ご都合がよろしければ、どうぞお運びくださいませ。今後とも宜しくお願い申し上げます。合掌




「心の青年への手紙」(7)について 2008年2月6日(水)
 はじめまして。私は仏教に関心のある者で、紫雲寺のサイトを心温まる思いで読ませていただきました。昇空さんの法話も大好きです。

 ただ、「心の青年への手紙」(7)にあるライアル・ワトソンの話の引用が、紫雲寺さんのサイトに瑕瑾を生じるのではないかと案じましたので、お知らせしたく思いメールいたしました。ライアル・ワトソンはかなり怪しい科学者として、知られるところでは知られています。

 「グリセリンの結晶」について、下記URL(Kikulogというサイトのweblogです)で出てくる記事リストの、May21,2005掲載記事をご覧ください。
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?mode=category&aim=
A5CBA5BBB2CAB3D8&offset=50&display=list

 「百匹目の猿」の信憑性について
http://www.geocities.jp/wakashimu/yota/saru.html

 突然無礼なメールで申し訳ありませんでした。これからも貴サイトを訪問させていただきます。僭越ながら、応援しております。M



M様へ
御礼 2008年2月6日(水)
 はじめまして。紫雲寺のホームページにご関心をお寄せくださり、有り難うございます。また、ライアル・ワトソン著『生命潮流』からの引用に関しまして、貴重なご教示を頂きましたこと、有り難く存じております。

 「百匹目のサル」が創作であることは、これまでにも何度かご指摘を頂いておりますが、「グリセリンの結晶」については、はじめてうかがいました。ライアル・ワトソンには、ときどき科学者から小説家にシフトする妙な癖があるようでして、『ロメオエラー』に記されている「死亡時体重の減少」についても疑問があるよう聞いております。

 いずれも私どもには魅力的な説でしたが、面白い話ほど、取扱注意のようであります。ホームページに掲載しました文章は、あとで間違いに気づきましても、その間違いも含めて、その時の「私」でありますので、改めて書き直ししないことにいたしておりますが、また何かお気づきのおりには、ご教示くださいますよう、お願い申し上げます。有り難うございました。合掌




善智識について 2008年2月11日(月)
 このホームページを有難く拝見しております。さて、いつも気にかかっていることですが、信心を決定するためには善智識に直接お会いしてお話をうかがわなければならないものでしょうか。

 御文には、このようなことが強調されており、このことを断定的に強調されるお方があります。確かに、書物よりも生きた人に直接お尋ねするほうは良いことは容易に推察できます。しかし、実際には中々困難なことであると感じておりますがいかがでしょうか。普通、法話会であっても講演会であり、対話は皆無に等しいです。この意味では、悲観的に感じております。H



H様へ
Re: 善智識について 2008年2月14日(木)
 はじめまして。メールを拝受いたしました。紫雲寺のホームページにご関心をお寄せ下さり、有り難うございます。ご返信を差し上げますのが遅くなり、大変失礼いたしました。お尋ねを頂きましたので、簡略にお応え申し上げます。

 まず、「善知識」という呼称についてですが、善知識と呼ばれる人が何処かにおられるわけではありません。そうではなくて、善知識というのは、「私」を真実の信心へと導いてくださった人に対して用いられる、感謝を込めた敬称なのです。

 親鸞聖人は、法然上人を「よきひと」(善知識)と呼んでおられます。それは、親鸞聖人を、念仏の道に導いた人、真実の信心へと導いた大恩人が、法然上人だったからです。

 基本的に、学問であれ技芸であれ仏道であれ、たいていは独習するものではなく、師について学び、修行するものです。実際、師の謦咳に接し、言説を超えた全人格的薫陶を受ける、そういった師資相承のなかでこそ、教えのいのちが伝わるとも言えます。そのため、暁烏敏師のように、「師匠のない仏法というものはない」と言い切る方もおられます。

 とはいえ、師匠があっても、その人が必ずしも善知識となるわけではありませんし、現実には、親鸞聖人にとっての法然上人のような、真の善知識と出会うことは、なかなか困難です。『浄土和讃』にも、「善知識にあふことも、をしふることもまたかたし、よくきくこともかたければ、信ずることもなほかたし」とあります。

 まことに、善知識に出会うことは難しいのです。ですが、本当に難しいのは、善知識に出会うことではなく、「(法を)よくきくこともかたければ、(仏を)信ずることもなほかたし」という、頑迷な自分自身に気づくことではないかと思います。

 私たちは、世間の価値観を握りしめた自分自身を信じて生きていますから、法を聴くことも、仏を信じることもできないのでしょう。法に耳を傾けるのは、世間の価値観に疑問を抱いた人だけ、仏を信じることができるのは、自分を疑っている(深く見つめている)人だけではないでしょうか。

 私たちは、自分自身を深く見つめることなく、自分を導いてくれる優れた人が何処かにいるのではないかと、安易に善知識を求めがちです。ですが、特定の生身の誰かを善知識とみなして仰ぎ見るのは、「善知識だのみ」といって、『御文』(二帖目第十一通)でもかたく戒められていることです。

 法然上人は、善導大師の『観経疏』にある一文と出会われて信心決定なさいました。善知識は生身の人間とは限らないと思います。人であれ書物であれ、出会いは縁です。ご精進のうちに、よき出会いがありますよう念じ上げます。合掌




世間虚仮・唯仏是真 2008年12月8日(月)
 標記を検索して御法話にたどり着き、思わず引き込まれて最後迄読ませていただきました。何箇所か全面的には同意できない部分もありましたが、失礼ながら、全体として大変おもしろく、優れたお話と拝見致しました。厚く御礼申し上げます。SA



滋賀の A様へ
Re: 世間虚仮・唯仏是真 2008年12月8日(月)
 メールを拝受いたしました。紫雲寺のホームページにお立ち寄りくださり、有り難うございます。また、拙い話に過分なお言葉を賜り、恐縮に存じます。今後ともよろしくご教導賜りますよう、お願い申し上げます。合掌



Re: 世間虚仮・唯仏是真 2008年12月8日(月)
 早速御返信賜わり厚く御礼申し上げます。こちらこそ何卒宜しくお願い申し上げます。立派なホームページで感服致しております。SA






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